ピアノと憧憬
「…なんで悲愴なんだ」
「さあ。随分酔っ払ってるなと思ったら弾き始めた」
照明を落としに来た安城が多少不機嫌そうに聞いてきたので、とりあえず目撃したことを答えてみる。
糸姉さんは知らん顔で、薄暗い中店のピアノを朗々とかき鳴らしている。
確かにこのメロディはちょっと音楽をかじってれば誰にでも分かる、ベートーヴェン作曲の悲愴と呼ばれる曲だ。
「良いじゃないか、許してやれよ。たとえ君がちょうど店仕舞いしようとしたタイミングで邪魔されてるにしても良い音色だ」
「仲裁どうもありがとう。でもそのこととは関係ない。俺はこの曲が嫌いなだけだ」
「え?良い曲じゃないか」
「昔色くんが弾けなくて散々怒られてた曲なのよ」
ピアノの音が止まったと思ったら、代わりに彼女が話し出す。
「ちょっと弾いてみたかっただけ。気分を害したなら悪かったわね」
「…別に」
気分を害したのは確からしい。
珍しく、短い一言を残してやや乱暴に食器を片付け、彼は厨房に引っ込んでしまった。
「…喧嘩か?」
「…違うわよ」
こちらはこちらで珍しくやってしまったというような、バツの悪そうな顔をしている。
まあ、この二人の喧嘩より俺にはもっと気になったことがあったが。
「…あいつピアノ弾けるのか…?」
「弾けるわよ。聞いたことないの?」
「ないな」
「…そうね、人前で弾くのはあまり好きじゃないもの」
「…先生、厳しかったのか?」
「まあね。えこひいきする先生だったのよ」
「それはひどいなあ」
糸音はそれ以上語る気はないようだったが、話の流れからどちらがどう贔屓されていたのかはよく分かる。
そこではたと気付いた。
「…もしかして今の君の所業って、すごい嫌がらせじゃないか?」
「分かってるわよ!今どう弁解しようか考えてるところ!」
「おい、いつまで弾いてるんだ…」
やっと厨房から出てきた安城の語尾が消える。
さっきから俺には何を弾いているのか分からないんだが。
穏やかな響きが消えて、代わりに彼女は何やら一本指で鍵盤を弾き出す。
安城はしばらく仄暗い照明の下でピアノを弾く彼女を見つめていたが。
ひとつ溜息をついてピアノの方へ近づいて、そしてその隣に座って弾き始めた。
(…悲愴の…2楽章、か?あれって連弾だったっけ)
彼女がメロディ、彼が伴奏。
安城がピアノを弾くのは初めて見たが、全然糸音に負けていないように見える。
ぴったりと息が合っていて、まるで一人で弾いているようだ。
その穏やかな曲調は完全に彼らの世界を形作っていて、多少疎外感を感じるほどで。
(二人で生きてきたんだなあ)
なんとなく、そんな印象を抱かせた。
演奏が終わり、盛大に拍手を鳴らす。
「すごいな!こんなに上手いとは思わなかった」
「それはどうも…」
決まりが悪そうな安城に、とても嬉しそうな糸音が好対照だ。
「色くん、全部憶えてたのね」
「散々やってたからな…体で覚えてる、というか」
「何?」
きょとんとしている糸音に、少しの間のあと安城が真面目な顔で語り出す。
「…嫌なことがあったなら、八つ当たりじゃなく口で言ってくれ。料理の一品くらい出してやるから」
「…ありがと。ごめんね」
はにかみながら彼女は答えた。
和やかで暖かい雰囲気の中、さすがに空気を読んだ俺はそっとドアをくぐる。
夜のひんやりとした空気が、いつも以上に身に沁みた。
「家族っていいなぁ」
口に出せばますます凍えそうだ。
心の中で3楽章のメロディを辿りながら、北風に吹かれつつ足を早めた。