犬系王子と尾行演習
出てきた時とは比べ物にならないくらい和やかに別れて、一応会社に戻ってきたんだけど。
(所長がいない)
まだ夕暮れ時で、いつもなら事務所にいるはずなのに。
日和さんがパソコンをいじる音だけが、途切れ途切れに響いている。
「…あの、日和さん?所長はもう帰ったんですか?」
「さあ…さっき帰ってきて、その後消えちゃった」
「え…?帰って?所長もどこか出かけてたんですか?」
(仕事ないのに?)
「ああ。愛理さんを尾行する旅に出てた」
「…は?」
衝撃的な一言のあと、沈黙が辺りを支配する。
「…あの、今なんて」
「今日は尾行演習で、愛理さんたちをずーっと追いかけてたんだけど。愛理さんの方は気づいてなかったんだ」
「…はい!?」
詳しく話を聞いてみれば。
どうやら私と涼宮くんは無理矢理デートさせられただけではなく、所長の尾行演習のダシに使われていたらしい。
(…辞表、書こう)
最早色々通り越して呆れている。
だけどとりあえず怒るにも辞めるにも、所長を見つけなければならない。
妙に冷静な気持ちで、ビルの階段を上がる。
(日和さんは中にはいるはずだ、って言ってたけど…)
1階の事務所を通らなければ外には出られないから、それは間違いない。
でも、2階から4階を一通り回ってはみたけど、誰かいる様子はなかった。
(…5階か)
たしか、使ってないって聞いたけど。
(私に向き合う気がまるで無いみたい)
この関係は、何も始まらないまま終わることになりそうだ。
呆れと失望を持って、階段を上がる。
(そもそもそれなら何で、私なんかに関わろうとしたんだろ)
頼る人も金もなく仕事だって底辺、関わるメリットなんてない。
ボディガードなんて言ったって、今のところ所長が狙われてる様子もないし、第一本気で守ってほしい人が私なんか選ぶわけがない。
結局のところ、借金を勝手に肩代わりする理由なんて、どこにも。
「うわ…」
思わず声を上げる。
なぜか急に布張りになった階段を上がりきると、そこに待っていたのは古本の山だった。
廊下を薄暗く照らす白熱灯の向こうに、小さくドアがあって、そしてそこを半ば塞ぐように立つ、本棚の林。
どれにもぎっしりと古い本が詰まっている。
果てには溢れ出したと思われる、段ボールに入った本が階段の踊り場にまではみ出して積まれている始末。
「なにこれ…」
思わず何冊か手にとって、眺めて回る。
入っている本は、一様に古ぼけている以外まるで統一性がない。
エッセイから近代SF、果ては洋書までごちゃごちゃと詰められていた。
(すごい、片っ端から読みたい…じゃなくて)
結局そこにいるはずの本人の姿はない。
(廊下にいないなら、ドアの向こうの部屋?)
そう思って、本棚の間を苦労して抜ける。
しかしたどり着いたドアは錆びついて開きそうになかった。というか、まるで開けた形跡がない。
(うわ…埃まみれ)
よくある鍵穴のついた丸いドアノブは、茶色の錆の上に更に分厚く埃が積もっていた。
掃除しないと…なんて一瞬思って、辞める気だったのを思い出して思わず苦笑する。
(ここにはいない?やっぱり他の階…)
不思議に思いつつ振り返れば、しかし何てことはない。
更に上、屋上へ続く階段の薄暗い踊り場の方から、だらしなく投げ出した足が見えた。
本棚の角度でさっきは見えなかったようだ。
埃まみれになりながら廊下を戻って、足の主に向き直る。
薄暗くて見づらくはあるが、明らかに所長本人だ。
その人は、反省するでも開き直るでもなく、階段の途中に陣取って、肩を壁にもたせかけ、本を顔の上に乗せて転がっている。
おまけに規則正しい寝息まで聞こえてきた。
せーの、で思い切り、脚を蹴飛ばす。
ばさばさっと顔から本が落ちた。
「うわっ!?」
「うわっ、じゃないですよ。何やってるんですか」
「痛いな…!本気で蹴っただろ…!」
「そんなんで本気だと思われちゃ困ります」
腰をさすりながら、所長がようやく起き上がる。
薄暗くて顔はよく見えないけど、いつも通りのふてぶてしい声。
(本当に寝てたのかすら怪しい)
「…何やってるんですか」
「…見ての通り、本を読んでたんだ」
彼の手が、手に持った古びた本の、破れたページをぺらっとめくる。
「君は、何をしに来たんだ?」
「…平たく言えば、辞表を出しに来たんですけど」
「そうか」
沈黙が通り過ぎる。
「…え?それだけですか?」
「別に、俺の言葉に絶対的な力があるわけじゃない…脅されても無駄だっていうなら、諦めるしかない。返した借金を戻せるわけでもないしな」
いつもの口調で彼は言う。
「…そうですか…」
もうとっくに日も暮れて、電燈の明かりも届かなくて。
見えないけれど、目の前で壁にもたれている人は、普段のように笑っているのだろうか。
(ああ、そうですか)
「…私のいる意味がないなら…」
「ただ」
無駄に大きな声で、思いっきり台詞がかぶる。
思わず黙った私に、こちらを見ないまま所長は続けた。
「ただ、君は、必要だ。この会社と…俺に」
「…ええ…?」
「それは本当だ。…もう少し待ってくれるなら、その意味を分かってくれる日も…来ると、思う」
「………はあ」
(意味が分からない)
正直無茶苦茶だ。
借金の恩はあれど、私を脅して入社させた挙句、ろくに仕事もさせない男。
平気で人をダシにするし、嘘もつくし素性も見せない。
そんな信用ならない人の安い台詞を、軽々しく聞き入れるのはどうかしている。
それは、分かっているんだけれど。
(…階段の途中に、出窓なんかなければなあ)
たまたまその飾り窓から差した月明かりが、彼が耳まで真っ赤で、こちらも見れない羞恥と戦っていたなんて、証明しなければ。
神妙な声は演技で、その目が適当なことを言っているのだと、語ってくれていれば。
私は信じはしなかったのに。
(…すぐ絆される。悪い癖だ)
「……私がいる意味が本当にないなら、辞めます。脅されても、元々失うものなんてそんなにないし」
「…そうか…」
「ただ…曲がりなりにも、所長は私の恩人なので」
「…ん?」
「あなたにクビにされるまでは、私はここを辞めることはできないんだと、思っておきます。雨笠さん」
「……」
「…うん。よろしく、愛理くん」
所長があからさまに、ほっとした顔になる。
「…そんなにほっとするなら、最初から仕事ください。あと嫌がらせもやめてください」
「できるだけ真剣に検討してみるよ。でも仕事ってない方が楽じゃないか?」
「…それでお金が入るなら、ですけどね…」
「…ごめん、ごめんってば。本は破らないでくれ貴重なんだよそれ…」