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降り始め



雨の音が、聞こえる。耳のすぐそばで。


肌を伝う滴は、服の中まで濡らすには十分な量で、確実に体温を奪っていく。
(…もうすぐ夜が明ける。日は出ないだろうが)
それだというのに、いつまでこんな所で、傘もなしに突っ立っているのだろうか。
…お互いに。


「…君は妖怪か何かなのか。雨の日に出る」
相手がようやく、口を開く。
自分と同じ、頭から爪先までずぶ濡れのようだ。
艶のある瞳が驚いたように、俺のことをまっすぐ見ている。
「それなら俺は、相当ラッキーってことなのか?雨の日に屋上に来る奴なんて、そうそういないはずだ」

「………」
何か言わなければならないような気がして。
だが、言葉は出てこなかった。

「君の名前は、何だい?」
「……」
「あるだろう、その存在に名前くらい」

雨の帳がますますその色を濃くして、相手と自分しか、この世界にいないような気すらする。
近く耳障りに響く雨音は、しかし何故か、抗い難い魅力を帯びていた。

「なあ、教えてくれよ。幽霊か何かでないのなら…」
「…俺の名は、アメフラシだ。…あんたには関係ないだろうが」

こぼれた一言に、自分で驚く。
相手もまさか本当に名乗られるとは思っていなかったようで、驚いたような顔をしていた。
その隙をついて、柵に手をかけ、越える。
その先には空しかない。
さながら飛び降り自殺のように消えた俺を、相手がどう思ったかは知らないが。



その足はちゃんと、地を駆けている。
しかし怪盗の思考は地に着いているとは言い難かった。
(顔を見られた…!)
雨のひどさに視界が悪く、帽子を脱いでいた。
あんな天気の中、屋上に出ている奴がいるわけがない。
(そう思ったのが間違いだったか?…)
屋根もない屋上で、雨に濡れる趣味のある奴がいた。
俺はまだまだ世界の常識を知らなかったようだ。
(…ってアホか)
余程の馬鹿がいた。
それだけなら不運な事故だが、俺の余計な一言は明らかなミスだ。
(どうにかしないと)
まずはどこの誰だか分からなければ、話にはならないが。

(…ああ、何故名乗ってしまったんだ…)

警察、家族にすら名乗ったことのない名前を、知らない一般人に。
いや、だからこそ、か。

「…余程寂しかったのか…?馬鹿な…」
上がった息も動悸も、こんな雨の中では治まらない。
その追い討ちを避けてビルの下、壁に凭れ、一人嘆息する。
暗いなりにも、夜は明けようとしている。


俺が彼のことを知らないように、彼は俺のことを知らないはずだ。
(結局そこらの一般人に、何ができるわけでもない、か…)
とりあえずそう思うしかなかった俺の願いは、雨空に虚しく消えていった。



「…名乗られてしまったなあ…」
屋上で傘もなしに雨に濡れるのが趣味というほど、常識はずれな人間じゃない。
そのことを説明しようとは思ったんだが、相手がそれより早く去ってしまった。
「…にゃあん」
「ココア、君も見てたのか?…人間かなあ、あれ」
「にゃー?」
茶黒の斑らな毛皮の生き物が、室外機の裏から姿を現す。
ほんの数分前までは、慌てて彼女を探しまわっていたはずなんだが。
今更柵の下を眺めてみても、雨の中じゃろくに見えやしない。
人の落ちた音も騒ぐ声もしなかった以上、無事ではあるんだろうけど。

「…まあ、結果的には、君の手柄だな。でも雨の日だろうとおかまいなしに外に出たがるのは悪いくせだと思うぞ…」
ずぶぬれのそれの首を掴んで、とりあえず軒下まで引っ込んだ。
「さすがに屋上は危ないからなあ…頼むからもう出るなよ?」
「…にゃあ」
黒い尻尾と、赤い首輪が不機嫌そうに揺れる。
「いや、お前でも死ぬからな?…うーん、そう思うとやっぱり今のは人間じゃなかったのかな…?」
それにしては虚を突かれた、実に人間らしい瞳だった。

「…『アメフラシ』ね…」

自分と猫を拭くタオルを探しに階段を降りながら、彼は幾度もその言葉をつぶやいていた。
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