今日から始まる島ライフ!
4
どこかで虫が鳴いている。耳に心地良い虫の音は、すっかり秋めいてきた季節を喜ぶ歓喜の声か。そう思えるのは、ついさっきまで明るく賑やかな空気の中に居たからかもしれない。アサガオから立派に巣立った子供達に囲まれて過ごした一時が、桐生に変化をもたらしたのだろう。普段なら気にも留めない細やかな音色を聴きながら、桐生はゆったりと縁側の柱に身体を寄りかからせた。
目を閉じて涼しい秋風を感じていると、そのまま、うとうとと眠ってしまいそうになる。闘病中に酒を控えていた所為で、ほんの少量を飲んだだけでも眠気を覚えるようになってしまった。すっかり酒に弱くなったな、と頭の隅で思っていると誰かに肩を叩かれた。
「……遥か」
重たくなりかけていた瞼を開いた先で遥が顔を覗き込んでいた。心配そうに眉尻を下げ「おじさん大丈夫?」と言う遥に桐生は優しい微笑みをみせる。三十歳を過ぎても少女の面影は時おり桐生の前に現れた。今、この瞬間もそうだ。ふとした表情の数々が幼い日の彼女を思い起こさせた。
「もしかして具合悪い……?」
「いいや、少し眠たくなってただけだ。久しぶりに騒いだからなぁ」
「そっか、なら良かった。みんなの相手して疲れたでしょ」
「まぁな。しかし……遥もあいつらも大人になったよな……あんなに小さかったのによ」
しんみりとした桐生とは対照的に、遥から軽やかな笑い声が上がる。縁側に座った遥は心底おかしいといった顔をしていた。
「おじさん、また言ってる。みんなが集まると毎回なんだから」
「そうか?気がつかなかったな」
そうだよ、と遥は笑い、眼差しに無邪気な色を浮かべた。
「それで、春日さんと一緒に行くの?」
「またその話を蒸し返すのか……」
「だって気になるんだもん。後で絶対連絡くれって言われてるし」
「どうするかはゆっくり考えるって言っただろう。まったく、お前らは少し騒ぎ過ぎだ」
一時間前、急ごしらえの祝賀会に集まった子供達に、記者会見もかくやの勢いで質問攻めにされた事を思い出す。
結局、春日は桐生の言葉に慌てながらも「なら、プロポーズって事にさせてください……」と消え入りそうな声でそう言った。集まった子供達にも春日は堂々と「桐生さんを俺にください!」と宣言をした。もっとも、その時の春日は酒に酔っていたし、直前まで勇太と肩を組んで歌っていたから、本人に覚えがあるかは怪しいところだった。
桐生は、いつ島に越すのか、祝いの品は何が良いか、と口々に言う遥や子供達をのらくらと躱していたが、元より寡黙な性格ではすぐに言葉も尽きてしまった。だけでなく「行くかどうかは、まだ決めてねぇ」とうっかり口にしたものだから、場はますますと騒がしくなった。祝賀会が終わる最後の最後まで、どうして、なんで、と子供達は不満顔だった。その中で遥だけが何も言わずにいたな、と桐生は今になって気がついた。
「いや……そういえば遥は静かだったな」
プロポーズだと騒いでいたのが嘘のように遥は静観に徹していた。遥勇の相手をしてたからかと思ったが、もうそんなに小さな子でもない。十二歳になった可愛い孫は、騒がしい大人を横目に黙々と好物の寿司を食べていたはずだ。
「みんなが代わりに言ってくれたからね。ほんとは私もここまで出かかってたんだよ」
自分の喉を指して遥が笑う。
「でも、おじさん、すごく悩んでるみたいだったから私は言わないでおこうって決めたの」
「……悩んでるようにみえたか?」
「隠しても私にはムダだよ。どれだけ一緒にいると思ってるの」
昔も今も遥にはかなわない。桐生は、ふっと口元を緩ませた。
「ああ、遥の言う通りだ。悩んでる。せっかくお前らと一緒に暮らせる生活を捨てて良いもんかってな」
「もう十分堪能したでしょ」
「おい遥、随分な良い草じゃねぇか」
「こうでも言わないと、おじさんには通じないもの」
星が散りばめられた濃紺色の夜空を見上げて遥は続けた。
「……おじさんが私達の幸せを願ったように、私達もおじさんの幸せを願ってる。残りの人生、春日さんと一緒に暮らしても罰なんか当たらないよ。それに離れたら二度と会えなくなるわけじゃない」
「遥……」
「海外旅行にもタダで行けるしね!」
いたずらな笑みを浮かべた遥の一言で、しんみりとした空気が払われる。明るさは彼女の武器だと桐生は改めて、そう思った。
「それにしても春日さん遅いね。どこまで行っちゃったんだろう」
遥が縁側から居間を振り返る。桐生も目線を追って壁掛け時計に目をやった。時刻は十一時になろうとしていた。春日が少し酔いを覚ましてくると言って出かけてから、もう四十分近くが経っている。
「まぁ、何かありゃ連絡来るだろ。探しに行っても良いが、あいつは意外と心配性だからな……うるさく騒がれちゃたまんねぇ」
「おじさん愛されてるねぇ」
桐生は黙って明後日の方に顔を向けた。その先の草叢の陰で秋を呼ぶ虫が、ころころと涼やかに笑い声を立てていた。