恋するイルカ
3
「一馬、食べるか?」
緊張する桐生をよそに風間はのんびりと箱入りの菓子を差し出してきた。海の生き物がプリントされたクッキーを一つだけ手に取り個包装を破る。口に入れると、一瞬、強い甘みが広がった。だけど、それだけだ。本当は美味しいはずのクッキーの味もわからないほど桐生の神経は昂っていた。
「それでマジマの話ってのは……」
口の中が乾く。クッキーに水分を奪われただけが原因ではなかった。
「お前にどう切り出そうか、ずっと迷っていたんだがな。マジマを大阪にやる事になった」
桐生はぎょっとしてデスクチェアに腰掛けた風間に詰め寄った。風間は申し訳なさそうな顔をしていたが、どこか薄っぺらさのある表情のようにも思えた。
「大阪って、まさか!」
「ああ、近江水族館だ。嶋野のやつがマジマを返せとうるさくてな」
大阪で随一と名高い近江水族館の館長が桐生の脳裏に浮かびあがる。風間とは正反対の横柄さで、言われなければ水族館の館長だとはとても思えない風貌の男だ。つるりとしたスキンヘッドに大柄な体格。常に金儲けを考えている狡猾な顔を思い出して桐生は思わず眉をひそめた。
「なんでまた急に返せなんて言ってきたんですか。マジマをうちに押し付けといて勝手すぎる」
大阪の河川で保護されたマジマは、本来、近江水族館に引き取られる予定だった。しかし、大阪で唯一イルカの飼育が可能な施設を有していながら、嶋野はマジマを受け入れなかった。風間が言うには、片目のイルカに掛ける金を惜しんだのだろう、との事だ。健常な個体でない場合、飼育に特別な工夫が必要になるケースがある。マジマのように片方の目が完全な失明状態となると、そのままの設備では不十分だと嶋野は判断を下したのかもしれない。設備に手を加える必要がなくとも、弱い個体を虐げるイルカの特性を考え、隔離も必要だと思い至ったとも考えられる。嶋野からするとマジマは余分な出費と手間が増えるだけの存在だったのだろう。すべては憶測に過ぎないが、嶋野の金にがめつい性格を思えば有り得ない推論ではないような気がした。
「この前、取材が来ただろう。どうも嶋野の野朗がマジマを欲しがるのは、そいつが原因みたいでな」
風間がデスクの上のノートパソコンを操作しながら言った。
「その時の映像がネット上で大人気らしいんだ。俺もインターネットにはあんまり明るくねぇが……どうやら、この再生数ってのが異常な数を叩き出してるそうだ」
ノートパソコンの画面が桐生へと向けられる。風間が指で示した場所を見ると再生数はゆうに億を超えていた。
動画にはドライスーツを着た桐生がマジマと共に泳ぐ映像が映っている。二ヶ月前、取材中にマジマの水槽を掃除していた時の映像だった。壁面の藻を擦る桐生にマジマが擦り寄って離れない、そんな光景を撮影したものだ。その時の映像は桐生もテレビ放映の際に他のスタッフと一緒に確認している。『飼育員さんが大好き!』と可愛らしい文字とハートが画面に大きく表示されて、妙に恥ずかしかった覚えがある。
動画は、水族館全体を撮影した映像内で、ほんの二、三分しか映っていない桐生とマジマだけを切り取ったものだった。タイトルは『イケメン過ぎる飼育員にアタックするイルカ』とつけられていた。
「……全然知らなかったです。最近、取材の話がよく来るって言ってましたけどコイツの所為だったんですね」
「俺もだ。うちも動画配信を検討してみるべきかもなぁ。取材も新しいとこは断っちまってるが受けてみるか。これだけ反響があるなら来館者の増加も見込めそうだ」
ともかく、と風間は咳払いと共に横道へ逸れた話を終わらせた。
「今はマジマだ。嶋野の言いなりになるのは癪だが、あそこから受けてる恩恵は無視できねぇ。なんたって関西一の水族館だ。情報の量がちがう」
「断らないんですか!?あっちにやったらマジマは金儲けの道具にされるだけですよ!」
「一馬、わかってくれ」
「でも!マジマが
やり場のない感情をぶつけるように桐生はデスクを力強く叩いた。スチール製の固い天板にぶつけた手の平がじんじんと痛む。だが、身体の痛みは時が経てばやがて自然と静まっていく。しかし心の痛みはそうはいかない。心に深く刻まれた傷は、どれだけ時間が過ぎても完全には癒えないと桐生は知っていた。
「……マジマに俺みたいな思いをして欲しくないんです。周りの都合で振り回されて傷つくのはイルカだって同じだ」
桐生は、孤児だ。両親の記憶はないが、二人揃ってとんでもない碌でなしだったと親戚から聞かされている。養護施設に入るまで桐生は親戚中をたらい回しにされて育ち、大人達の態度から自分が迷惑な存在なのだと幼心に悟っていた。住まいを次々と変わらなければならないのも、厄介者を押し付けあっているからだと知っていた。
あれから十年以上が経過しても過去の痛みをまだ鮮明に思い出せる。錦山と優子、由美と共に施設から風間の家へ移り住み、幸せな思い出が辛い記憶より多くなっても、心に刻まれた傷は消えない。
動物も人間と同じく心がある。人の都合で傷つける事が許されるはずもなかった。
「お前の言い分はわかった。でもな……」
「親っさん。俺、今日はこれで失礼します」
深々と頭を下げてデスクから離れる。風間が引き止める声を振り切って館長室を後にした。
帰り際、マジマの水槽へと足を向けた。水面に浮かんでいたマジマは桐生に気がつくなり寄ってきて、ガラス越しにキュルキュルと盛んに鳴いた。
桐生は近くの椅子に掛けて、しばらくマジマを眺めていた。けれど、その表情は穏やかとは言えなかった。眉根を寄せて、思い詰めた顔で、泳ぐマジマをじっと見る。
やがて立ち上がり水槽から離れた桐生は、去り際、一度も後ろを振り返らずに帰路についた。
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