恋するイルカ



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閉館後の作業を終えて、ふぅ、と額に滲んだ汗を拭う。腕時計を見ると時刻は間もなく午後七時になろうとしていた。一時間程度の残業で済んだ事を喜ばしく思いながら、桐生はデッキブラシを片付けにバックヤード内の一角へと向かう。
「一馬」
その背中に声が掛かった。振り向かなくても、館長の風間だと桐生にはわかった。風間は桐生にとって、とても近しい存在である。上司であり、恩師であり、家族でもある彼の声を聞き間違えるはずがなかった。風間は血の繋がりはない桐生を自分の息子同然に育ててくれた人だ。飼育員を志したのも彼の影響あっての事だった。
「親っさん。お疲れ様です」
父さんとも親父とも呼べず、親っさんと呼び出してから、いつしかそれが定着してしまった。職場でも周りに人の気配がない時はこうして自然に愛称で呼んでしまう。時々、うっかりと人前で親っさんと呼びそうになる桐生とは違って、風間は実に正確に呼び分けている。よく間違えないもんだ、と桐生は毎度感心するばかりだ。同時に、やっぱり名前が落ち着くなと改めて思った。水族館に勤めて数年、他人行儀に「桐生君」と呼ばれるむず痒さもとうに消えたが、やはり、父親として慕ってきた風間には一馬と呼ばれた方がしっくりとくる。
「彰は一緒じゃねぇのか」
風間は辺りを見渡した。
「はい。あいつは先に帰りました。雛が孵った動画を見せてやるって」
「そうか。そいつは大事な用事だな」
目尻を下げた風間が優しく微笑む。
彰とは桐生と共に育った錦山彰の事だ。錦山には妹がいる。名前は優子といって、病弱に生まれついた所為で幼い頃から入退院を繰り返していた。優子は現在、海外で療養中の身だ。桐生達よりも少し後に風間家に迎え入れられた由美と自然豊かな郊外で暮らしている。国内では認可されていない手術を受けるため二年前に移住したが、いまだ帰国の目処は立っていない。その優子と、あちらの水族館で働く由美に、錦山は生まれたばかりのペンギンの雛を見せたくて仕方がなかったのだろう。桐生にぞんざいな挨拶をして先に寮へと向かった彼は、今頃パソコンの前で彼女達と談笑をしているに違いない。
「錦に用事でしたか?」
桐生が聞くと、風間は緩やかに首を横に振った。
「いいや。お前に用があるんだ。……マジマの事でな」
ぎくり、と身体が強張る。手に持ったままのデッキブラシを思わず握り締めた。
「ここじゃ落ち着いて話ができねぇ。一馬、お前はもう上がりか?」
「……はい。これ片付けたら帰ろうと思ってたとこで」
「なら、悪いがもう少し残ってくれ。残業代はつけて良いぞ」
そう言って笑う風間に桐生は曖昧な返事をして、デッキブラシを片付けに用具置き場へと急ぐ。置いて戻り、風間の後について歩いた。
「あの、マジマの事って何ですか」
バックヤードを出てすぐの階段を下りながら尋ねる。おそらく風間は館長室へと向かっているのだろう。邪魔が入らない場所を選ぶという事は、つまり、マジマについて苦言を呈すると言っているようなものだ。風間はマジマに対してかなりの理解を示してくれている。そもそも大阪の水族館からの受け入れ要請を受諾したのは館長である風間自身だから、日々の問題行動にも目をつぶってきたのだと桐生は思っていた。しかし、ついにそれも看過ができなくなってきたのだ。イルカに振り回されているトレーナーの情けない姿を叱りつけなければ。風間はそう考えている。きっとそうだ、と桐生は怖々と震える心を落ち着かせるように作業着の胸元を握った。
「まぁ待て。俺の部屋でゆっくり話してやる」
振り返った風間は微笑んでいたが、桐生の胸中は不安でいっぱいだった。敬愛する風間を落胆させたのではないか。そんな思いが鉛の重石のように圧しかかって足取りを鈍らせる。のろのろと風間の後をついてゆく。館長室はもうすぐ、目の前に迫っていた。
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