恋するイルカ



1



「良かったなぁ、マジマ。お前に嫁さんができるぞ」
トレーナーの桐生に頭を撫でながらそう言われて、喜びに尾ビレを振っていたイルカのマジマは、あんぐりと口を開けた。
「なんだ、まだ欲しいのか?さっき食っただろ。ほらバケツはもう空っぽだ」
笑いながら桐生が青いプラスチックバケツの底を見せて言う。
――違う。そうじゃない!
マジマは一段と強い力で尾ビレを水面に叩きつけた。勢いよく飛んだ水飛沫が桐生を襲う。
「ワガママを言うなよ。お前の健康の為なんだ」
きゅるきゅると鳴くマジマの頭をもう一度だけ撫でて、桐生はバックヤードへと歩き出す。その背をプールからじっと眺めるマジマに、隣の区画に住むシャチのサエジマが『良かったな、マジマ』と声をかけた。
『なぁにが良かった、や!なんもよぉないわ!急に嫁はんや言われても顔も知らんメスなんぞ嬉しくもないで。俺は桐生ちゃんとここで一生暮らしたいのに、なんでこうなるねん』
『しゃあないやろ。適齢期がきたら俺らは必ずメスと交尾して子供作らなあかん。種の保存っちゅうのをせなあかんのやで。それに俺からしたら羨ましい話や。俺の種族は体がでかいらからな。そう簡単に移動もできひん。嫁はんが欲してもどうしようもないんや。それをお前は……』
きゅいきゅいと甲高い声でマジマは鳴いた。
『あーあー!説教じみた話なんぞ聞きたないわ!』
サエジマの話から逃げるようにプール深くへと沈む。一人きりの気楽なこの場所に知らないメスがやってくるだなんて。
『……最悪や』
うんざりとしながら逆さまになって泳いでいると、小さな人間の子供が自分を指差しているのが目に入った。マジマやサエジマの住居は上から見れば区切られたプールに見えるが、その実は分厚いアクリル板でできた水槽になっていて外側からはマジマ達を観察できる造りになっている。マジマを始めとしたイルカやシャチや魚、その他の海に住む生き物を集めた場所を水族館と呼ぶらしい。人間達はこぞって水族館に集まって、マジマ達がだらだら泳ぐ姿を見ては笑って喜んだ。何が面白いのかマジマにはさっぱり分からない。ただ一つ理解ができるのは、人間も異質な物に反応するのだという事だ。あんな小さな子供にも潰れた片目をとやかく言われる。水槽越しに彼らの声は聞けもしないが、きっと左目についてあれこれと言っているのだろうとマジマは思った。
――目ん玉のこと悪く言わんのは、桐生ちゃんとサエジマだけや。
マジマは二年前にこの場所へやって来た。大きな海のどこかで生まれてのびのびと育ってきたのに、気がつけば汚い川に迷い込んで、そこで人間に捕まった。同じ種族だからと見ず知らずのイルカ達とまとめられたが、マジマは『仲間』とは、まるで馴染めなかった。六匹のイルカは皆、マジマの左目を見ては陰口を叩いた。自分達と違うマジマの見てくれを許容してはくれなかった。人間も人間で片目のイルカを物珍しげに眺めるし、飼育員は口を開けばマジマを『かわいそう』だと口を揃えて言った。マジマは新しい居場所が大嫌いになった。汚い川の方がよっぽど良いとすら思うほどに。
そんな折に仲良くなったのが隣の区画に住むサエジマだ。マジマは同族よりも気の合うシャチと、あっという間に親しくなった。サエジマはマジマの左目が潰れているのを気にしない。気楽だった。独特な口調が移ってしまうほど、マジマはサエジマと日がな話をして過ごした。海に比べたら狭すぎる水槽も最低な毎日もサエジマが居たから少しだけマシだと思えた。
そんな日々が一年と数日が過ぎたある日。マジマに衝撃的な出会いが訪れる。新人トレーナーとして桐生が配属されてきたのだ。マジマはまず桐生の外見に目を奪われた。人間なんてどれも同じに見えるのに桐生だけは違っていた。水面に反射する太陽の光みたいに眩しくて、綺麗で、美しかった。しかも桐生はマジマの顔を見て、こうも言った。
「お前……片目なのか。かっこいいな」
その瞬間、マジマは恋に落ちていた。後でサエジマにあいつはオスだと教えられたが、それもどうでも良かった。
そこまでを思い出して、もうあれから三年も経ったのか、とマジマはしみじみとしながら水槽の中をぐるりと一周した。一日が三六五回くると一年。つまり新しい年にになるのだとサエジマからずいぶん前に聞いた。桐生と出会ったその日からマジマは欠かさず毎日を数えていて、今日で千と百十三日目になる。こんなにも長い間ずっと桐生の事だけを考えてきたのに、今さらメスと交尾をしろだなんて。
『冗談きっついわ』
三年間、ありとあらゆる手段を使ってマジマは桐生と一人の居場所を手に入れた。その努力が今、崩されようとしている。なんとしてでも阻止しなければ。だけど、どうやって。泳ぎながら頭を悩ませていると、桐生が館内を歩いているのが見えた。
『おっ、桐生ちゃんや!』
水槽に群がる人間の後ろを、桐生が足早に通り抜けて行く。マジマは急いで端に寄り、勢いをつけてアクリル製の壁に向かって突進した。透明な壁が迫る。それでもマジマはスピードを落とさなかった。
『いてて……。もいっちょ!』
半身を厚いアクリル壁に思いっきりぶつけた後、すぐに元の場所へ戻り、マジマは同じ行動を繰り返した。何度も何度も体当たりをしている内に水槽の外側がざわついてくる。その場にいる人間のほとんどがマジマを指差していた。
『……よしよし、作戦成功や』
客の一人に呼び止められた桐生が向かう方角とは逆方向へ駆けて行くのが見えた。こちらへ急いでいるのだと確信したマジマは、先ほどよりも少しスピードを落としながら十二回目になる体当たりを終えた。よろよろと体を傾け泳ぎ上方を目指す。水面から顔を出したタイミングで、ちょうど桐生がバックヤードの扉を開け放った。
「マジマ!」
大股で桐生がプールに近づいてくる。怒った顔をしていた。けれどマジマは嬉しかった。桐生が用事を放り投げて自分の下へ駆けつけてくれた事実が、なによりもの喜びだった。
「お前、またこんな事して……」
真正面に屈み込んだ桐生が怒りの表情を歪ませる。今度は悲しい顔だ。それを見ると心が痛むが、マジマは桐生を呼び止める術をこれしか知らなかった。ごめんな桐生ちゃん、と胸の内で謝る。同時に、きゅるる、と切なげな音が思わず漏れ出た。
イルカは声を発する事ができない。体内に声帯そのものが存在しないからだ。代わりに噴気孔と呼ばれる、頭部の孔の奥にある 気嚢きのうという空気の入った袋のような部位を使って音を出す。
きゅるきゅる、きゅうきゅう。
マジマは懸命に桐生に音を発して伝えた。反省していること、桐生が大好きだから側にいてほしいこと。ちゃんと伝わっているのだろうか。不安になる。人間と同じ言葉が話せたら良いのにと思わずにはいられなかった。
桐生はマジマの話をうんうんと頷いて聞いていた。サエジマは人間は俺達の言葉を理解できないと言っていたが、それは単なる思い込みだとマジマは考えている。だって桐生はこんなにも真剣に自分の話に耳を傾けてくれているのだ。少しも伝わっていないだなんて信じられるものか。
マジマが話終わると待っていたかのように桐生が口を開いた。
「マジマ。俺はこれからミーティングなんだ。わかるか?みんなで集まって話をするんだ。お前達の為の大事な話し合いだって、この前も言っただろう。終わったらすぐに戻ってくるから良い子で待っててくれ」
な?と首を傾げて微笑む桐生の可愛さに目が眩みそうになる。マジマは身を乗り出して桐生の顔に自分のくちばしを擦りつけた。
――桐生ちゃん。ほんまに好きやで!
「求愛行動はメスにするもんだがな……。俺も好きだぞ、マジマ。お利口に待ってくれたら、もっと好きだ」
笑って、桐生はマジマの頭を撫でた。
「また後でな」
桐生がバックヤードの扉へ向かって歩いていくのを黙って見送る。“とっておき”は一日一度まで。マジマはそういうルールを自らに敷いていた。以前、一日に何度も桐生を駆けつけさせた事があった。体に危害を加える行動をすると桐生がすっ飛んで来てくれると学んだばかりの頃だった。その日は四回桐生を呼び出したのを覚えている。問題行動を起こす度に桐生は慌ててマジマのところへやって来た。それが原因だったかはわからないが、次の日から桐生は数日間姿を現さなかった。桐生とよく一緒にいるペンギンの世話役の錦山に「きっと、お前の所為で疲れちまったんだ」と言われたのも忘れてはいない。
本当は一日一回でもすべきではないのだ。桐生はマジマのトレーナーだけれど他にも仕事を抱えている。忙しい身の桐生を自分勝手な理由で呼びつけてはいけない。わかっていても、マジマの中にある桐生へのどうしようもない強い想いが衝動を生んだ。毎日、毎分、毎秒、桐生と一緒に居たい。そんな気持ちを紛らわせる為にプールに浮かんでいるボールを齧ったのが始まりだったな、とマジマは過去を振り返った。
マジマが他のイルカと同居をしていた時、プールにはいくつかの玩具が常備されていた。イルカは知能が高く、人間のように暇を持て余すとストレスを感じやすい生き物だ。万病の元になりうるストレスが溜まらないよう日頃からケアをする必要があった。そういう理由からプール内には様々な玩具が用意されていた。
マジマの気に入りは桐生が昔使っていた赤いゴム製のボールだった。大きくも小さくもない扱いやすいサイズで適度な弾力もある。なにより桐生が小さい時に遊んでいた物だから、マジマは他の玩具には目もくれず、いつもボールだけで遊んでいた。誰にも渡さず大事に扱ってきたボールだった。宝物と言ってもいい。それを、ある日のマジマは苛立ちから強い力で噛んでしまった。慌てて口を開いた時には、もう遅かった。ボールは見る間に萎んでいった。マジマは悲しくて悲しくて、ボールの亡骸をいつまでも咥えて朝と夜を何日も過ごした。見かねた桐生がよく似た新しいボールを与えてくれたけれど、それでも口から離せなかった。
そして事故が起きたのだ。食事中にうっかりボールを飲み込んでしまった。舌の裏に隠していたのがいけなかった。魚と共に腹の中へ滑り落ちた異物に体が反応を示したのは、次の日の翌朝の事だった。
あれは本当に苦しかったし痛かった――過去から現在へ戻ってきたマジマは懐かしいボールの感触を思い出して、きゅうと鼻を鳴らした。
『あん時は悪い事したなぁ……』
ほとんど毎日、仮病を使った。ボールを飲み込んで以来、少しでも不調を見せると、桐生が何を置いても真っ先に様子を見に来てくれたからだ。また玩具を飲み込んではいけないからと別のプールに隔離されてからは桐生を独り占めも同然だった。
だけど桐生はイルカをよく知っている。仮病にいつまでも騙されてはくれなかった。そのうちにマジマが体調不良を演じても、すぐには駆けつけてくれなくなり、どうしたものかと考え、そして閃いた。桐生が来なければならない理由を作れば良いのだと。マジマの“呼び出し”はそこから始まり、現在に至っているのだった。
『おい、マジマ』
『あん?』
思い出に浸っていたマジマの意識を外から割り込んだ声が呼び戻した。声がした方向に顔を向けると、プールの水面に浮かび上がってきたサエジマが『見とったで』とぼそりと言った。区画を隔てる壁は一部が格子状の柵になっている。可動式で他のプールと行き来ができる仕組みだ。サエジマは窓のように四角く切り取られたそこからマジマの様子を見ていたのだろう。
『お前、もう止めるって昨日言うとったやないか』
『……しゃあないやん。桐生ちゃん見かけたら、ついやってもうたんや』
毎日必ず一日のどこかで桐生を呼び出すマジマだが、いつまでもこんな事を続けるつもりもない。ずっと前から止めなければとは思っていて、昨日、その宣言をサエジマにしたところだった。
『俺はもう桐生ちゃんを困らせたりせぇへん。桐生ちゃんの悲しい顔も怒った顔も見とうない。やから絶対、明日からは呼ばへんからな……やったか?』
記憶力の良いサエジマは、マジマがした宣言を一言一句と間違えず口にしてみせた。マジマはバツの悪い顔をしてサエジマから逃げるように水中へ体を沈める。これだから記憶力がやたらと良いシャチは、とぼやきながらプールの底を目指した。
『まだ話の途中やぞ』
『へいへい、どーせ俺は言うた事も守れん男や。反省しとるし説教は間に合っとるでぇ』
辿り着いた底で腹這いになって透明なアクリルの壁越しに限られた世界を見る。閉館間際の人もまばらな館内を数人の客がのんびりと歩いていた。その様子を何とは無しに眺めていると、柱の影から荷物を抱えた桐生が現れる。桐生はマジマの前で一瞬だけ足を止め、こちらに顔を向けてから通路の奥へと消えていった。その時に見せた微笑みにマジマは誓う。明日こそは桐生を呼び出さずに一日を終えてみせる、と。
『桐生ちゃんの為に気張るでぇ!』
きゅう、きゅるる!
噴気孔から音と泡を発しながらマジマは固く決意をした。プールの底から離れて、ぐるりと円を書くように水中を泳ぐ。そんなマジマの様子を見ていたカップルに、自分と桐生を重ね合わせた。
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