CPなし
十分間
狭苦しい二段ベッドに転がって、どれだけの時間が過ぎただろう。枕元に置いたスマートフォンに手を伸ばしてロック画面の時計に目をやる。春日のアパートに戻ってきてから、まだ二時間も経ってはいなかった。
「……眠れねぇ」
明日の為にと早めの解散をしたのに、これではまるで意味がない。体力が余っている所為だろうかと桐生は口元を緩めた。異人町でもハワイ同様に様々な輩に目をつけられたが、ナンバだけでなくソンヒや紗栄子までもが絡んでくるチンピラ達を率先して倒してしまうから、桐生の出番はほとんど無かったと言ってもいい。
心配してくれるのは嬉しいんだがな、と呟いてベッドから降りる。そのまま外へ出て、夜の冷えた空気を深く吸い込んで、吐きだす。今日は色々な事があった。トラブルではなく楽しさと嬉しさに満ちた一日だった。
「柏木さん、だったよな」
星の瞬く夜空を見上げて思い出す。間違えようもない。サバイバーのマスターのあの顔は。
――柏木修。
よくある顔ですから。などと、よくもしれっと言えたものだ。あんな顔がこの世に二つとあってたまるかと桐生は笑って、アパートの鉄骨階段をゆっくりと下った。すぐ近くに停車していたタクシーへと乗り込みスナック街へ行ってくれと告げる。どうせ眠れないのなら、とことんまでやりたい事をしてみるのも悪くない。ナンバも人生に思い残す事がないようにと言っていた。エンディングノートには書かないが、柏木と二人きりで話す、という急に加えたミッションをやり遂げられたら、今夜は気持ち良く眠れるような気がした。
ドアを開いた時のウェルカムベルの音でこちらを向いた柏木は、ひどく驚いた顔をして桐生を見ていた。まさか戻ってくるなんて、とでも言いたそうな表情を一瞬で引っ込めて「お忘れ物ですか」と彼は聞いた。
「いや、そうじゃないんだが……」
「すみませんが今夜は早いとこ閉める予定でしてね」
暗に出て行けと言われているのは桐生にも理解ができた。けれど、それですごすごと帰るようなら、最初からタクシーを使ってまで向かおうと思うものか。
「なら、丁度いい。無理を言ってるのは承知の上で頼みがあります。俺の為に少し時間を作っちゃくれませんか」
こんな言葉がすんなりと出てきた事に桐生自身が戸惑っていた。今日中、ずっと自分を取り巻いていた明るく押しの強い空気に当てられたんだ、と思いながら柏木を見る。眉一つ動かさずに立ち尽くしていた柏木は磨いていたグラスを置くと、
「……いいでしょう。ただし注文は受けられませんがね」
と言ってカウンターから出て外に向かい、すぐに戻ってきて扉を閉めた。ドアに掛けてある看板をクローズにしてきたらしい柏木は、入ってすぐのボックス席のソファにどっかりと座って言った。
「おめぇも座れ。桐生」
困惑する。えっ、と口にしたきり動けない桐生を柏木がテーブルを叩いて急かした。
「早くしろ。店閉めたからってのんびりできる訳じゃねぇんだぞ」
柏木のあまりの変わり様にどう対応したものかを考えあぐねながらも、言われた通りに反対側の席に座る。昔の柏木なら鈍臭いとなじった後に鉄拳を飛ばしていたに違いなかった。
「……名前、ですけど。俺は鈴木で」
「今さら隠すな。あいつらだって散々、桐生って呼んでただろうが」
そういえばナンバと紗栄子が何度か間違えて名前を呼んでいた気がする。酒が入った状態で盛り上がっていた所為で意識が薄れたのだろう。でも二人を責めようとは思わなかった。サングラスで顔も隠していなかった自分が迂闊だっただけだ。まさか柏木とこんなところで再会するとは思っていなかったし、そもそも彼は桐生の中では死んだ人間だったから、迂闊というか不可抗力に近くもあったけれど。
「柏木、さん」
返事はない。真っ直ぐに目を見て、もう一度、繰り返す。
なんだ、とぶっきらぼうな返答があった。桐生には、それで十分だった。今ここに死んだはずの柏木が生きている。存在している。ただ、それだけで、どうしようもなく嬉しかった。
「……柏木さん、だ」
数時間前に押さえ込んだ感情が胸の奥から込み上げてくる。溢れて止まらないそれが目頭を熱くさせる。滲んで歪んだ視界の中で、桐生の震えた声を柏木が笑った。
「年取って涙もろくなっちまったか?」
まだ揺らいでしまう声で、もう五十五ですから、と返すと「嘘だろ」と言ってまた笑う。
「お前の歳聞いたら自分がすげぇ年寄りに思えてきたぜ」
ああ嫌だ嫌だ、と柏木が渋い顔を作る。かと思うとテーブルに身を乗り出して真剣な面持ちをしてみせた。
「んで、桐生。お前、癌なんだってな?」
桐生は静かに頷いた。柏木は、そうか、とだけ言って天板の上で両手を組んで黙った。薄いベールのような沈黙が纏わりつく。相手に気を使わせてしまう時の、桐生の嫌いな空気までもが漂い始めている気がした。
「ナンバから聞きましたか」
「ちげぇよ。お前らの会話が聞こえちまっただけだ。あんだけでかい声で話してりゃ嫌でも耳に入ってくる」
「みんな酒が入ってましたからね……それより柏木さん」
「今はお前の話だ」
まだ何も言っていないのに、と思いながらも桐生は口をつぐんだ。柏木に逆らう怖さは何十年が経とうとも身体が覚えていて、彼に鋭い目線を投げかけられると自然と言葉が出てこなくなる。
「治療は。どうなってる」
「しない方向で決めてます」
「治る見込みはねぇのか」
「……それについては、何とも」
医者に即入院を迫られた事や、周りからしつこいくらいに治療をしろと言われている事。病状の進行度。話すつもりはない。なかった。なのに、気がつけば全てを語っていた。誰かに聞いて欲しい気持ちがあった訳でもないのに。多分、柏木だから話してしまったんだろうと桐生は思った。
「なるほどなぁ。なかなか深刻な話じゃねぇか」
柏木が、はぁ、と溜息のなりそこないのような息を吐いてソファに背中を預けた。腕を組み、桐生から外した視線を窓の外へと向ける。
「まぁ、お前の人生だ。悔いのないようにしろよ」
意外だった。馬鹿やってねぇで入院しろ!と雷を落とされるつもりで身構えていた桐生は、柏木の横顔を見つめたまま目を瞬かせた。
「怒らないんですか」
「んだよ。怒って欲しいのか?」
慌てて、違いますと否定する。冗談だよ、と笑い声が返った。
「どうせ三途の川まで行ったところで風間の親父に追い返されるだけだ。行って叱られてこい」
「ひでぇなぁ、柏木さん」
「どっちがだ。ひでぇのはお前だよ、桐生。親残して死のうってんだからな」
窓から戻された柏木の視線が真っ直ぐに桐生を刺した。貫かれて、ソファに縫い留められたように動けなくなる。
「親、って」
「風間の親父が亡くなってからはよ、俺はお前の親代わりのつもりでいたぜ。だから意地汚く素性隠して生きてきたんだ。子供の成長見届けてやんのが親の本分ってやつだろう?」
「だったら、どうして連絡の一つもくれなかったんですか。柏木さんまで失って、あん時どれだけ俺が……」
とっくに切り離せたはずの悲しみが蘇る。そこに柏木への憤りが混ざって感情が荒い波を立てた。
「連絡なんか取ってみろ。俺が生きてると嗅ぎつけられたらお前も巻き込んじまうかもしれねぇだろうが。ま、親心ってやつは子供にはわかんねぇのが世の常だ。理解しろとは言わねぇよ」
荒れた波が一瞬にして凪いだ。親心という言葉を出された所為だった。柏木が桐生の為にそうしたように、桐生もまた大切な子供達の為に自らの存在を消したのだ。柏木と同じ事をしておいて彼を責められようか。責めたところで桐生が間違った選択ではないと断言できるように、柏木も正しい選択だったと揺るがぬ自信を持っているのだから、言うだけの意味もなかった。
「……いえ、わかります。生意気言ってすみませんでした」
「ちったぁ大人になったじゃねぇかよ、桐生」
「とっくに大人ですよ、もう」
「ふん。俺ん中じゃお前はいつまで経ってもガキのまんまだよ。錦山と――」
柏木が顔色を変えた。下手を打ったと思っているのが桐生にも見てとれた。
「さぁて、そろそろ終いにすっかな。明日も店開けなきゃならねぇ」
ほら帰った帰った、と桐生を追い立て柏木がドアを開ける。
「柏木さん」
「ゆっくり休めよ、桐生」
「別に俺、気にしてませんから」
「お前がどうこうじゃねぇんだよ。俺が疲れたから終いだってんだ。ったく年寄りに喋らせやがって」
背中を押されて、とうとう店の外に出た。仕方なしに足を進める。二、三歩いたところで身体ごと振り向いて頭を下げた。
「柏木さん、ありがとうございました。無理聞いてくれて嬉しかったです。また来ます」
そう言って顔を上げた先の柏木は柔和な笑みを浮かべていた。サバイバーのマスターに戻ったらしかった。
「ええ。またのお越しをお待ちしております」
深々と頭を下げられる。桐生はもう一度、浅い角度の礼をして暗い夜道へと歩き出した。静寂の街角に賑やかなウェルカムベルの音が鳴り響いてドアが閉められた事を知る。
タクシー乗り場へ向かう途中で桐生は立ち止まり、より濃くなった闇色の空を見上げて微笑んだ。いつになく良い夜だった。これでぐっすり眠れるだろう。
再び歩き出す。秘密のミッションを無事に遂行できたからか、足取りは軽くて気を抜くと弾んでしまいそうなくらいだった。まもなく見えてきたタクシーの黄色い車体を目指して歩く。たどり着いて後部座席に乗り込むと、お客さん。ご機嫌ですね。と声を掛けられた。
「ああ。人生で最高の夜だ」
羨ましいです、と言って運転手は車を発進させた。窓外の景色が段々と溶けるように後ろへと流れてゆく。車の走る振動が揺かごの役割を果たしたか、不意に訪れた眠気に逆らえずに桐生は瞼を閉じた。次は高い酒でもボトルでいれてやるかなと思いながら、心地の良い微睡みに沈んでいった。
(了)
3/6ページ