CPなし



猫の日




「今日はねぇ、猫の日なんだよ」
隣に座った趙が、なんの脈絡もなく言った。
サバイバーのカウンター席で熱心にグラスを磨くマスターの横顔を肴にのんびりと酒を楽しんでいた桐生は、あまりに突然差し込まれた話題に反応ができず、返事というには中途半端な相槌を趙に返す。雑学に明るい趙だ。猫についての知識を語り出すのだろう、と思って桐生は話を聞く姿勢をとった。けれど桐生の予想は外れて、趙は口を笑みの形にしたままだ。上着のポケットから十センチほどの小瓶を取り出した趙は、桐生と自分との間にそれを置き、首を傾げた。
「問題でーす。これは一体なんでしょう?ヒントはさっきの俺の言葉だよ」
「また急だな……。さっきの言葉、か。じゃあヒントは猫だな?」
「そ。猫だよ。桐生さんに当てられるかなぁ」
カウンターの天板に頬杖をついて、にやにやと趙は笑う。桐生は趙の許可を得て小瓶の蓋を開けてみた。匂いを嗅いでみる。とくに目立った香りはない。ピンポン玉と同程度の直径をした小瓶の中には、黄色の実のような物がぎっしりと詰められている。実の形は歪で、どれもぼこぼことして大きさも不揃いだ。横から下から眺めてみても桐生には正体がさっぱりとわからない。猫に関係あるものらしいが、持ちうる知識を総動員しても、猫と謎の実はどうにも繋がりようがなかった。
「難しい?だよねぇ、これ今まで当てられた人いないもん」
悩む桐生を楽しげに眺めていた趙が、口元に浮かべていた笑みを濃くする。
「わかってて聞いたのか?案外、意地が悪いんだな」
「やだなぁ、そんなんじゃないって。でも桐生さんにもわかんないか」
「それで?答えは何なんだ」
趙が瓶を傾げて中から一粒を取り出す。
「はい、手ぇ出して。答えは食べてからのお楽しみ」
「……食って大丈夫なんだろうな」
「あっ、そこ疑っちゃう?ひどいよぉ、桐生さん」
疑いたくはないが、訳の分からない物を口に入れるからには聞きたくもなる。中華料理店を経営しているし食材にも精通しているだろうからよっぽど心配はないとは思うが、と不安になりながらも趙を信じて実を口へと放り込む。すぐに塩辛さが襲ってきて、桐生は慌ててマスターに水を一杯、汲んでもらった。
「おい、こいつに変なモン食わせるんじゃねぇ。これでも病人だぞ」
「病人だから、だよ。健康に良いからね、マタタビ」
桐生は耳を疑った。マタタビ、と聞こえたが幻聴だろうか。
「ごめんねぇ、桐生さん。ちょっと塩辛かったかな。俺もマタタビの塩漬け作ったの久しぶりだったからさ」
「マ、マタタビ……って。猫が好きなアレか?」
うん。と、桐生の問いにあっさりと趙は答える。マスターは趙を呆れ顔で、けれど眼光鋭く睨みつけていた。
「やだなぁ、マスター。そんな目で見ないでよ。桐生さんは大丈夫だって。ちょっと塩辛かっただけ。ねぇ?」
「あ、ああ。もう落ち着いた。騒がせてしまってすみませんでした、マスター」
なら良いんだが、とマスターは趙から視線を外して元いた位置へと戻って行った。カウンターの隅で、また寡黙にグラスを磨き始める。
「意外と心配性だね、あの人も」
「それより趙。これがマタタビってのは本当なのか」
「そうだよ。熟したやつを塩漬けにしてあるんだ。中国じゃ滋養強壮に良いってメジャーな食材だよ。日本でも山奥の方は食べる文化があるって聞いたけど、知らない?」
「知らねぇな。人間もマタタビが食えるってのも今知ったとこだ」
「あんまり美味しいもんじゃないけどねー。少し苦かったでしょ。食感は良いんだけどねぇ」
趙はそう言うが、塩辛さに負けて苦味や食感どころじゃなかった。正直に伝えると、趙は瓶の蓋を閉め「じゃあ塩抜きしてからゆっくり味わってみてよ」と小瓶を桐生に差し出した。
「俺にくれるのか?」
「いらなかったら持って帰るよ。疲労回復に効くからさ、桐生さんに良いかなって思ったんだけど」
そんな事を言われてしまうと断るにも断れなくなる。趙の言う通り、美味くはないが良薬は口に苦しと言うし、ありがたく貰っておくかと小瓶を受け取った。
「あんまり食べ過ぎちゃダメだよ」
「わかった。ありがとうな、趙」
「どういたしまして」
にっこりと人好きのする笑顔を趙が向けてくる。猫の日にかこつけて自分をからかいたいだけだ、と一瞬でも思ってしまった事を桐生は内心で詫びた。ふざけた部分が目立つ趙だけれど本当は仲間想いの良い奴だと、マスターと話し始めた彼の背を見つめて桐生は薄く微笑んだ。
談笑する彼らの声は桐生までは届かないが、楽しそうな空気だけは伝わってくる。マスターと趙を肴にして、桐生はゆっくりと飲みかけのグラスを傾けた。


「……でねぇ、どんぐりの形のはマタタビ酒にするんだよ」
「ほぉ。初めて聞くな。美味いのか、そりゃ」
「さぁ?マタタビ酒は俺も作ったことないからわかんないや。マスター、今度持ってくるから作ってみてよ」
「いいぜ。……またあいつに飲ませるのか?」
「いいねぇ。じや、来年の猫の日はそれで」
「猫みてぇに酔っ払わねぇだろうな」
「それはそれで楽しいじゃん」

そんな会話が二人の間で交わされている事を、桐生一人が、まだ知らない。


(了)
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