CPなし



とある朝



本日の花輪喜平の朝は、暖かな布団との戦いから始まった。
柔らかくて優しい心地の良い重み。寝返りを打つと、まだ眠っていたらいいじゃないか、と囁くように衣擦れの音がする。甘い誘惑に瞼を開いては閉じてを繰り返し、起きなければ、と思いながら眠りの淵に滑り落ちかける。
そんな花輪の意識を電子音の鋭い音が引き上げた。
はっ、として完全に閉じていた目を見開く。鳴り響く目覚まし時計のアラームを止めて盤面を見ると時刻は七時半だった。これはまずい、と脳が判断するやいなや花輪は布団から飛び出して洗面所へと駆け込んだ。大慌てで身支度を整える。
一般的なサラリーマンよりは緩いとはいえ、花輪が所属する組織にも就業規則は定められているから破る訳にはいかない。普段は眠たい目をこすり欠伸をしながらも何だかんだと間に合わせるのだけれど、今日はもしかしたら駄目かもしれない、と花輪は弱音を吐きたくなった。業務上の都合でいつもより早めに出勤する日だという事を忘れていた。昨晩、寝る前にスケジュール確認をしたのにも関わらずにだ。
遅刻という単語が頭をよぎる。朝礼に遅れるのはまだ良い。同僚の吉村に笑われるだろうが、それは我慢ができる。良くないのはそこから先だ。事務所に寄った後に向かわなければならない場所。はっきりと何時に行くと決めてはおらず、朝頃に行くとだけ告げてある。
だから慌てる必要は無い、けれど。
「ああ、もう八時だ……!」
花輪はどうしても九時前には目的の場所へ着きたかった。その為に朝食もとらずにスーツのジャケットに袖を通し、玄関脇に寄せてあるゴミ袋を蹴飛ばして、アパートの鉄骨階段を甲高い音を立てて駆け降りた。地面に足がついても勢いを失わないまま裏手にある駐車場まで走る。
――間に合うだろうか。
不安に陥りつつも車を急発進させた花輪の視界の端で備え付けのデジタル時計が静かに表示を切り替えた。無機質な数字が九時までのカウントダウンをしているようで焦りが生まれる。無慈悲に刻まれてゆく時に追い立てられながら、花輪はアクセルを踏む足に力を込めた。



九時きっかり。花輪は大道寺の門前に立っていた。
ネクタイの歪みを直し、手櫛で髪を整えて開門を待つ。
時間前に到着できた安堵感に緩んだ表情を引き締めた直後、厳かな造りの門扉が片方だけ開かれて、中から桐生が顔を出した。
「おはようございます。浄龍」
「……早いな。朝に来るとは聞いていたが」
「あなた方がのんびりし過ぎなんですよ。普通、寺と言ったらもっと早くに掃除を終えていると思いますがね」
「文句があるなら住職に言ってくれ」
花輪に一瞥をくれて、桐生は手にしていた竹箒を忙しく動かした。
「では私は中で待っていますので。……浄龍。あなたは仮にも僧侶なのですから、いつまでも寝惚けていてはいけませんよ」
欠伸を噛み殺している桐生を笑って花輪は爽やかな朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
見上げた空があまりに清々しい青色をしていたから、
「今日も良い一日になりそうですね」
と振り向いて桐生に言う。
背を向けて掃除に没頭していた桐生は、花輪の言葉などまるで聞いてはいなかったようで。何か言ったか、と欠伸混じりの声が返った。
「いいえ、何でもないですよ」
桐生の横をすり抜けて境内へと足を踏み入れる。
通り様に彼の眠たそうな顔を笑ってやった。



(了)
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