一時保管所



甘い顔



閉ざされた障子戸に手をかけたまま、そこから先へ進めずにいる影がある。煌々とした月明かりに照らされて、薄い和紙にはっきりと浮かび上がるその影がいつまで経っても戸を開かないのに焦れて、
「斎藤くん。早く入ってきたまえ」
と、土方歳三はついに、まごつく彼の背中を言葉で押した。
そろそろと障子戸が開かれて、隙間から見えた斎藤一が、反省していますというような顔で入室してくる。やたら丁寧な仕草で戸を閉めた彼はすぐさま畳に座した後、土方にむかって頭を下げた。
「……なんだね、それは」
以前は呼び出されても顔色一つ変えなかった斎藤も、この頃ではこんな有様だ。
斎藤が屯所に来てから半年が経つ。その間に隊士たち――とくに沖田総司――とも打ち解けたようだが、反対に土方に対しては固い態度で。声を掛けただけで身を竦められる日々だった。
確かに副長として沖田と一緒に斎藤を叱ったことは何度かある。けれど職務を果たしている限りは無闇に厳しくもしないのに、斎藤は土方を見かけると、さっと踵を返したりする。土方はそれが気に入らない。だから茶菓子でもふるまって、少し話でもすれば自分への態度も軟化するだろうと思ったのだけど。
「自ら頭を下げるとは何か悪さの心当たりでもあるのかね、斎藤くん」
「いや、そういう訳ではないんだが……」
「だったら、いつも通りにしていたまえ。隊長格がそう安安と頭を下げるものではない。だいたい君はいつも――」
そこまで言って、土方は湧き出る小言を飲み込んだ。いけない、気を抜くとすぐこれだ。親睦を深めるために呼んだのであって、ぐちぐちとした説教を彼の丸めた背中に積むためではない。
土方はンン、と咳払いをして斎藤に顔を上げるように言った。それと、もっと近くへ寄るように、と。
怪訝な表情をした斎藤が、そろりとした足取りで土方の目の前までやってくる。その足元に座布団を敷いてやって「座りたまえ」と口にすると、斎藤の表情が一段と深まった。
「今日は君を一隊士としてではなく客人として招いたつもりでいる。だからそこは君の席だ」
「……客?」
「そうだ。美味い饅頭が手に入ったんだが、一人で食うのも味気ないからな。付き合ってくれるか」
「それは構わないが……なんで俺なんだ?」
聞かれるとは思っていた。けれど、斎藤が納得するような返事は、いくら前もって考えておこうとしても用意ができなかった。
土方は座布団にらしくもなく正座をした斎藤と自分の間で饅頭の包みを開いた。火鉢で温めていた湯を使って二人分の茶を淹れながら、斎藤の疑問に答える。
「君と二人きりでゆっくり話がしてみたかったんだ」
嘘と本当が半々になってしまったな、と土方は思った。今しがた斎藤に伝えた言葉、これは本当だ。そのために昼間、馴染みの店まで行って饅頭を買ってきた。さも人づてに貰ったような言い方をしたのは、その方が都合が良さそうだったからだ。なるべく嘘は吐きたくないが、やはり、口実というものが必要な時もある。嘘も方便と言うではないか。
「ここのは絶品だぞ。甘味好きなら一度は口にしておくべきだ」
「あ、ああ。じゃあ遠慮なく頂こう」
小さく手を合わせてから、斎藤が包み紙の上に並んだ饅頭を一つ取る。一口で食べてしまえる程度のそれを三口に分けて、ゆっくりと味わうように食べ終えた。
「君は所作が良いな。隊士の中では珍しい」
「そうか?自分ではよくわからないが」
「見る者が見ればわかる」
土方も饅頭を口にして茶を啜る。
甘みと温かさに和んでいると、斎藤がぽつりと呟いた。意外と、と土方には聞こえた。
「うん?」
「そういう顔もするんだな」
斎藤に言われて思わず自分の顔を手の平で触る。どんな顔をしていたと言うのだろうか。
「そんなに締まりがなかったかね」
「いや、笑ってただけだ。珍しかったから、ついな」
言った桐生自身も口元にゆるやかな弧を描く。
――君だって、随分と優しく笑うんだな。
ここに来たばかりの険しい顔と土方にびくつく顔。斎藤のそれ以外の表情を初めて目にした。
やはり甘味は人の心を解すのだろうか。
「斎藤くん、遠慮せずにもっと食べなさい」
「ああ。しかし美味いな、この饅頭」
「そうだろう。私の気に入りの店でな。他にもいくつかそういった店があるから、また良い物が手に入ったら呼んでやろう」
三つめを食べ、茶を飲み終えた斎藤が言った。
「俺ばかり特別扱いしていいのか」
「君は最初から特別扱いだろうに」
空になった湯呑みを満たしてやりながら返すと、違いないな、と斎藤が目を細めて笑む。
「俺は土方のことを少し誤解していたかもしれないな」
「ほぅ。誤解、とは?」
「厳しいだけの奴かと」
本人を目の前にして言ってくれる。だが、遠慮のない言葉が出るということは、遠かった距離が少しは近づいた証拠だろう。
「私も斎藤くんを誤解していたな」
「どんな風にだ?」
「仏頂面しかできないかと思っていた」
土方がそうしたように斎藤も自分の顔に手をやって首を捻る。彼自身、まるで自覚は無かったようだ。
「普段もそうしていたまえ。いつも眉間に皺を寄せていては気難しいと勘違いをされるぞ」
「その言葉そのまま返すぜ」
今度は声を出して斎藤は笑った。
残り少なになった饅頭に手を伸ばしながら、いつかは口実などなくても当たり前のように笑いかけてくれるようになるのだろうか、と土方は思う。
斎藤と多少なりとも打ち解けられるだけで十分だったはずなのに、足りない。一度、甘い味を覚えてしまうと、もうそれ無しではいられなくなってしまうのに似ている。
ついに包み紙の上から饅頭がなくなった。
斎藤が馳走になったな、と言って座布団から立ち上がる。
「次も菓子を貰ったら付き合ってくれるか、斎藤くん」
「美味い菓子があるなら断る理由はないな」
また土方の見た覚えのない表情が出てきた。こうなると他も見てみたくなるのが人の性である。
入って来た時の堅苦しさなど感じさせない気軽さで斎藤が戸を閉めて、室内にいつもの静けさが戻ってくる。
しん、とした空間で土方は口元を緩めた。
次は何を用意してやろうかと、そればかりを頭に浮かべて微笑んだ。


(了)
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