一時保管所



クレセント




騒がしい一日、として片付けるには激し過ぎた今日が終わろうとしている。
シャワー室から出た時には赤目はもうソファで横になっていた。派手な見た目と言動の割には意外と日付が変わる前には寝るんだな、と煙草に火をつけながら桐生はぼんやりとそんな事を思った。
壁のネオンサインやモニターの明かりに紛れて存在感を薄めているデジタル時計を見つめて、吸った紫煙を細く吐き出す。あと十分もすれば明日になるが体内時計が狂っているのか時間の感覚がおかしかった。時計がそうだと示しているのに、どうも信じられない桐生には眠気は少しもやって来そうにはない。ただただソファにもたれてデジタル時計の表示が切り替わるのを見つめる。
――今、俺は生きているんだな。
いや、生かされているのか、と自嘲する。自身の生死の権限はすでに桐生の手から離れている。
今にしてもそうだ。死んだ男の存在が限定的ではあるとはいえ大道寺の一言だけで簡単に蘇ってしまった。それも金によって覆された。桐生の為に用意された、近江連合のあらゆる資産を投げ打った大金。価値にして五百億だと鶴野は言った。
「……馬鹿じゃねぇのか」
煙と共に漏れ出た言葉に、また笑う。今度は自虐の笑みだった。馬鹿は五百億を用意した渡瀬でも、それを持って駆け込んできた鶴野でもない。誰よりも自分自身が馬鹿で、どうしようもなくて。そんな考えばかりが頭の中を延々と回っている。
――俺なんか死んじまえば良かったんだ。
せっかく助かった命に対してなんて事を言うんです、と花輪ならそう言って小言を降らせてくるだろうなと、ふと思う。
だけど本当に死んでしまう事が最良の選択肢ではないかと桐生には思えるのだ。この気持ちは花輪にも他の誰にもわかるまい。遥に遥勇。アサガオの子供たち。彼らの存在の重みの前では自分の命など、ちっぽけだと感じてしまう桐生の気持ちなど。
煙草の吸殻をアルミ製の灰皿に押し付けてソファから立ち上がる。眠れない身体を持て余したまま朝を待つのは、今の桐生には難しかった。
赤目を起こさないように、軋みやすい出入り口のスチール扉をそっと開いてアジトの通路へと出る。どこかで一杯引っかけてこようと足を踏み出したところで、胸ポケットに入れたスマートフォンが震えて着信を報せた。
『……俺だ』
『わかってますよ。貴方に掛けたんですから』
花輪はすでにいつもの調子を取り戻しているようだった。切り替えの早い男だ、と花輪の事を少し羨ましく思いながら何の用だと聞く。ゆっくり休めと言った本人が連絡をよこしたのだから、それなりのトラブルが起きたのかもしれない。
けれど花輪は急に黙って、三秒後に彼にしては歯切れの悪い喋り方で言葉を繋げた。
『……その、休めと言った手前ではありますが。もし、まだ寝付けないようでしたら、少し付き合ってもらえませんか』
『付き合う?』
『クレセントというバーでお待ちしてます』
町名と目印だけを伝えられ一方的に通話を断たれた。一体なんだと思いながらも行ってやるかと戸外に出て教えられた方角へと進む。
桐生の背を押すように冷たい夜風が吹いていた。



「すみません。呼び出してしまって」
遅かったですね。どうせそんな言葉が飛び出してくるのだろうと思っていた桐生は、少しばかり拍子抜けしてカウンターに座る花輪を見下ろした。
どうぞ、と桐生に椅子を勧める花輪の態度はどこかいつもより柔らかい。あんたが優しいと調子が狂うなと笑って言った桐生にも、花輪は曖昧に口元を緩めただけだった。
「どうしたんだ。花輪も眠れねぇのか」
「いえ、そういう訳では。も、というからには浄龍は眠れないんですか?」
細かいところに気がつく男はこれだから厄介だ。あまり探られたくなくて、どうでもいいだろうと会話を無理に終わらせた。
どうでも良くはないですよ。と呟くような小さな声で花輪が言ったタイミングで、先に頼んでおいたのだろう注文品が桐生の前へと差し出された。グラスの中で揺らめく深い琥珀色と微かな香りは、桐生がしばらく禁じられていたウイスキーのそれだった。
「いいのか?」
「今日は特別です。節制を命じてはいますが節制とは何もすべてを禁じるわけでは……」
花輪の長くなりそうな言葉をわかったと一言だけで断ち切る。寺に住んでいない花輪が一番坊主のような事を言うからおかしかった。ゆっくりと久しぶりのウイスキーを味わう間、花輪は二杯目だというカクテルを静かに飲んでいた。
呼び出しておきながら酒を飲む以外にはほとんど会話もなく、桐生がグラスを空けると「行きましょうか」と花輪は席を立った。
何がしたかったんだと聞きたかったが、生活面に関して口うるさい花輪がウイスキーを奢ってくれたのだ。どうやら機嫌は良いんだなと判断して無駄に突くのは止めておいた。
店外に出てからも花輪は黙って歩き続けた。桐生の方が歩幅が大きいけれど、花輪は速足だから常に半歩先を歩いている。酒を飲んでも真っ直ぐな背筋を眺めながら、そういえばこいつも生かされたんだったなと今日の出来事を思い返した。花輪は大道寺の処遇をどう感じたのだろう。きっと、生き延びられて良かったと、そう感じたに違いない。少なくとも桐生のように、あの時に死んでしまえれば良かったとは思ってはいないはずだ。
人通りの少ない、けれど雑踏の喧騒からは離れられない細道で花輪は急に立ち止まった。桐生は慌てて自らの足にブレーキをかけて彼の隣へと立った。
「……今夜は三日月なんですよ」
「それがどうかしたか」
「三日月はすべての始まりを意味するんです。私たちの新たな始まりにぴったりだとは思いませんか」
「新たも何もねぇだろう。あいつらはああ言ってたが、俺とあんたはどこまでいっても管理者と管理される対象だ。それだけじゃねぇか」
「意外と冷静なんですね。助かりますよ」
意外は花輪の方だ。あんな言葉に踊らされるだなんて。長く大道寺に勤めている花輪と桐生では与えられた言葉の受け取り方も重さも違うのかもしれない。桐生にとって何よりも、自分の命よりも大事な子供たちが他者にとってはただの他人であるように。
「そういえば花輪はどうやって帰るんだ。車だろう」
「ええ。すぐそこの駐車場に停めてあります」
「飲酒運転になるぞ」
「乗りませんよ。というか、飲むつもりはなかったんですがね。用事ついでに貴方にご褒美でもと思っただけです」
つまりは気まぐれに思いついて、うっかり飲んでしまったという事らしい。花輪にも人間らしいところがあったんだなと桐生は思った。それが顔に出ていたのだろう。今なにか失礼な事を思いませんでしたか、と疑いの眼差しを向けられた。
「まぁ、いいでしょう。それより犯罪者になっては困りますので赤目さんのアジトで私も休ませてください。朝になったら帰りますので」
「俺に言われてもな。赤目も寝ちまってるし」
気前の良い彼女の事だから二つ返事で泊まっていけとは言いそうではあるが。むしろ後日に花輪を断ったと赤目の耳に入った時の方がうるさいかもしれない。
「あいつがどう言うかは知らねぇが好きにしろよ」
「でしたら遠慮なく。お邪魔させていただきます」
「だから、それは赤目に言ってくれ。俺はただの使いっ走りだ。あいつが起きたらこき使われるだけのな」
そうでしたね、と花輪は笑った。会ってから初めて見せた明確な笑みだった。
「なに笑ってやがる」
「いえ、月が綺麗だと思いまして」
「……本当に調子狂うな。今日のストレスで頭おかしくなっちまったか?」
「あなた程ではないですよ」
間髪を入れずに返されて思わず「あ?」と声が出た。
「すぐに自分の命を投げだそうとする人よりは、だいぶ真面まともです」
「ああ、そうかよ」
また歩き出した花輪の後について行く。
見上げた空には、今にも消えてしまいそうな三日月が浮かんでいた。


***


車がまばらに停まる深夜のコインパーキングに花輪が戻ってきたのは、今日が後五分で終わろうかという時刻だった。
生きるか死ぬかの強烈な体験をした花輪だからこんな日くらいは休ませてやろう、などと言うほど大道寺一派は甘くはない。花輪の人生においてはトップレベルの出来事でも、それがつい数時間前に起こったばかりだとしても、必要とあらば大道寺は関係なく仕事を割り振ってくる。
――今日は本当に死ぬところだった。
実際、運が悪ければ死んでいた。鶴野が持ってきた交渉材料がなければ花輪も桐生も生きてはいなかった。桐生一人の為に五百億もの巨額が用意され、それに助けられる形で花輪も生かされた。これで桐生に助けられるのは三度目だ。二度ある事は三度あるとは言うが、その三度目が最低最悪な悪夢のようだとは思わなかったと花輪は乗り込んだ運転席のシートに深く背中を預けて思った。
これ以上この場所に用事もないが今すぐ動く気にもなれずに、ぼんやりとフロントガラス越しに夜空を見上げる。
雲一つない空に細い三日月。月の繊細さとは全く結びつかない男の顔が思い浮かんだ花輪は、にわかに彼の様子が気になってスマートフォンを手にする。だけど電話をかけるのは桐生ではなく自分の為だ。声だけでも聞けば唐突な不安が拭える気がした。
死にたがりの馬鹿な男が自棄を起こしていなければ良いが、と思いながら発信ボタンを押した。何度目かのコール音の後に桐生の声が送話口から流れ出す。
『……俺だ』
『わかってますよ、貴方に掛けたんですから』
ああ、またやってしまったと内心で独りごちる。いらない一言を付け加える悪い癖があると知っても、染みついた癖はすぐには直せなかった。また相手が桐生となると自然と口が動いてしまっていけない。だけど、余分な言葉を足さないようにと意識をするといつものようには喋れなくなる。今日まではどれもが必要な言葉だと思って過ごしてきた花輪だったから。
『……その、休めと言った手前ではありますが。もし、まだ寝付けないようでしたら少し付き合ってもらえませんか』
『付き合う?』
何を言っているんだと思った時には、もう桐生から返事があった。疑問符を飛ばしているだろう桐生に答えなければならない。しかしどうすれば、と焦って辺りを見渡す花輪の視界に、再び青白い糸のような細さの月が飛び込んでくる。途端、脳内に一度だけ訪れた事のある店の名前が思い起こされて、
『クレセントというバーでお待ちしてます』
場所と目印も覚えていたからそれを早口に伝えて通話を終えた。
桐生が来るかはわからない。無事であると確認できたから来なくて良いとも思う。来たとして、どんな顔をして彼と向き合うべきだろうか。ともかく言ってしまったからには花輪もバーへ行かなければならない。運転席からコンクリートの地面へと降り立ち雑踏へと向かって歩き出す。
薄暗い細道から見える眩く煌めくネオンの明かりが花輪を呼んでいるようだった。



「すみません。呼び出してしまって」
二杯目と桐生の分の注文を終えたタイミングで、思いのほか早く彼は花輪の前に姿を現した。
どこか気の抜けた顔をしてカウンターの側に酒を突っ立っている桐生に座るように促す。どうぞ、と言っただけなのに、あんたが優しいと調子が狂うなと桐生は笑った。自覚はなかったが桐生が言うなら彼にはそう感じられたのだろう。調子が狂っているのは自分の方かもしれないと花輪は思った。
「どうしたんだ。花輪も眠れねぇのか」
「いえ、そういう訳では。も、というからには浄龍は眠れないんですか?」
桐生が傷だらけの顔を僅かに歪めた。表情から察するに聞かれたくも答えたくもないらしい。どうでもいいだろう、とぶっきらぼうな答えだけが返った。どうでも良くはないですよ。と言い返した声はずいぶんと小さい呟きのようになってしまった。言葉に余分な感情が乗ってしまいそうになるのを抑えたかっただけだったのに。
思った通り桐生との適切な会話がわからなくて戸惑っていると、注文しておいたカクテルとウイスキーが差し出された。目の前に置かれたそれらを見た桐生が驚いたような顔を向けてくる。
「いいのか?」
「今日は特別です。節制を命じてはいますが節制とは何もすべてを禁じるわけでは……」
途中で、わかったと桐生が断じた。暗に黙れと言いたいのだなと理解して花輪は二杯目のカクテルに口をつけた。
僧として寺に身を寄せている桐生だが酒も生臭も禁じられてはいない。ただ彼から煙草とウイスキーだけは遠ざけていた。嗜好品を制限して時々、褒美として与えてやる。そうすると管理がしやすくなる。花輪を含め大道寺の管理者がよく使う手法だった。けれど今夜はそんなつもりではなくて、謝罪の気持ちを表したかっただけだった。こんな物では足りないし彼に思いの一つも伝わりはしないだろうが、それでも突然に呼び出してしまったから花輪なりに謝っておきたかったのだ。
「行きましょうか」
桐生が飲み終わるのを見計らって席を立つ。
手早く会計を済ませ店外へと出て、これからどうしようかと悩みながら歩き出す。車で来ているのにバーに呼び出してしまって、呼び出した手前、飲まない訳にはいかなくて。考えなしにも程があるだろう、と自分を恨んでいた花輪の視界に見た覚えのある看板が飛び込んでくる。そこでようやく駐車場近くまで来てしまっていた事に気がついて急いで足を止めた。半歩後ろを歩いていた桐生が追いついて隣に立つ。彼の横顔を見て、そうだ赤目のアジトに泊めてもらおうと思いつく。が、どうやって切り出したものか、今度はそこに頭を悩ませなければならなくなった。
時間稼ぎに空を見上げる。
「……今夜は三日月なんですよ」
「それがどうかしたか」
「三日月はすべての始まりを意味するんです。私たちの新たな始まりにぴったりだとは思いませんか」
「新たも何もねぇだろう。あいつらはああ言ってたが、俺とあんたはどこまでいっても管理者と管理される対象だ。それだけじゃねぇか」
「意外と冷静なんですね。助かりますよ」
言葉とは裏腹に少しだけ残念だと花輪は思った。花輪は桐生に恩義がある。これまでの分も返せていないのにまた積み重なってしまった恩を返したくとも管理者の立場では限界がある。桐生との間に引いた線を越えてはならないと自分を律しながらでは感謝の言葉の一つすらも伝える事ができないが、大道寺から直々に認められた『到達点』と呼ばれる関係であるならば、それも多少は易くなるだろうと思っていただけに。桐生の中では彼が言う通りに、どこまでいっても花輪は管理者でしかないらしい。
「そういえば花輪はどうやって帰るんだ。車だろう」
時間稼ぎが役にたった。桐生からその台詞が出れば後は言葉次第でどうにでも繋げられる。
「ええ。すぐそこの駐車場に停めてあります」
「飲酒運転になるぞ」
「乗りませんよ。というか、飲むつもりはなかったんですがね。用事ついでに貴方にご褒美でもと思っただけです」
桐生がなんとも言えない妙な表情をして見下ろしてきた。何か失礼な事を思っているのに違いなかった。ストレートに問い質してやると視線から逃れるように桐生は目を逸らした。
「まぁ、いいでしょう。それより犯罪者になっては困りますので赤目さんのアジトで私も休ませてください。朝になったら帰りますので」
「俺に言われてもな。赤目も寝ちまってるし」
権限のない自分が決めてしまって良いのだろうかと悩んでいるのが顔に出ている。桐生はまったくわかりやすい。
「あいつがどう言うかは知らねぇが好きにしろよ」
「でしたら遠慮なく。お邪魔させていただきます」
「だから、それは赤目に言ってくれ。俺はただの使いっ走りだ。あいつが起きたらこき使われるだけのな」
桐生の言葉に思わず花輪は目を見開いた。同時にもやのような不安が晴れてゆくのも感じていた。
――良かった、彼は大丈夫だ。
赤目が起きたら働くつもりでいるならば死のうなどとは思わないだろう。五百億の価値がついた命すら子供たちの為に簡単に投げ出そうとする。そんな桐生から先の未来についての台詞が出たのだから、花輪が案じる必要はもうどこにもない。
「なに笑ってやがる」
「いえ、月が綺麗だと思いまして」
「……本当に調子狂うな。今日のストレスで頭おかしくなっちまったか?」
「あなた程ではないですよ」
間髪を入れずに返すと「あ?」と間抜けな声が上がった。
「すぐに自分の命を投げだそうとする人よりは、だいぶ真面まともです」
「ああ、そうかよ」
歩き出す。桐生がまた半歩後ろをついてくる。
見上げた空に浮かぶ三日月が夜空に美しく輝いていた。



(了)
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