一時保管所
憧憬の先に
桐生一馬が目を覚ました。
夕刻頃、その報せを受けた山井は読みかけの雑誌から一度だけ目を離した。報告を持ってきた部下の顔を一瞥して「わかった」とだけ返事をする。それから再び誌面に視線を戻した山井に部下がおずおずした様子で口を開く。医務室に向かわないんですか、と問う声を山井は右から左へと聞き流した。
部下はしばらく山井の返答を待っていたが、やがて諦めたのか一礼をして部屋を出ていった。扉が閉められた後も山井は雑誌から意識を離さなかった。三度も目を通した記事を、また頭から読み始める。記事の内容は取り立てるところもない平凡なコラムだ。読み終えて、文頭に戻る。四度目ともなると文章はすっかり頭の中に記憶されていた。
山井はページをまくり、新たな記事に目を走らせる。けれど、そこに書かれているのは、ただの文字の羅列に見えた。まるで頭に入ってこない文章を読むのに苛ついて乱暴に雑誌を閉じる。今まで座っていたソファから立ち上がり座面に雑誌を投げると、ほとんど同じタイミングで静かに扉が開かれた。
「組長さん」
顔を出したのはドクターだった。縁あって山井組に身を寄せている老齢の医師である。
「来ないのかい?」
あんたの憧れの人なんだろう。そう続けたドクターに山井は小さく舌打ちをする。桐生に特別な感情を抱いている事をドクターに話した覚えはない。なのに、どうして知っているのかと考えれば、行き着く答えは一つしかなかった。
「……あいつらから聞いたのか」
ドクターが頷く。やはりそうか、と山井は苦い顔をした。
山井が仕切る組織は、はぐれ者の集まりだ。ヤクザ崩れからカタギまで様々な事情を抱えた人間で構成されている。その中には数名のホステスも含まれていて、彼女達はシノギとして経営しているクラブの従業員でもあった。時おり、山井はそこで気さくな彼女達と共に酒を楽しむ。普段は重たく閉ざされた口も明るい雰囲気と酒の力を借りれば、つい緩みがちになる。だから話をし過ぎてしまったのだろう。強い憧れを抱いている桐生の事をあれこれと話してしまったに違いない。お喋りな彼女達からドクターの耳に伝わってしまったのだと容易に推測ができた。
一体いつだ、と山井は頭の中で時間を遡る。判明したところで過去に戻れるでもなし。無意味な行動だと理解していても己の失態を自覚しないままでは気が収まらない。眉間に皺を寄せながら記憶の引き出しをひっくり返す。そんな山井の腕を、いつの間にか室内に入ってきていたドクターがむんずと掴んだ。
「とにかく来てくれ。ここの頭はアンタだ。あの男をどうするか決めるのは組長さんの役目だろう。わしは頼まれた仕事をしたよ。アンタも自分の仕事をしてくれにゃ」
ドクターに手を引かれて部屋を出る。これが部下なら腕を掴むどころか山井に触れすらしないだろう。なにせ山井は組織のボスだ。迂闊な行動に出れば愛用のバールで骨を砕かれる危険がある。けれども相手がドクターとなると山井も手出しはできなくなる。老成したドクターは、その事実をよく理解していた。
「……わかったよ。行きゃいいんだろ」
「それで良い。まぁ、そんなに緊張なさんな」
はぁ、と溜息をついた山井をドクターが笑う。緊張などしていないと言えば嘘になる。だけど今は緊張よりも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。アジトに連れ帰るまでの経緯を桐生は覚えているのだろうか。その時の記憶が有るにしろ無いにしろ、山井としては、ただだだ気まずい。しばらく目を覚さないと言うドクターの見立てを信じていた山井には、正に寝耳に水のような出来事だった。
先に立つドクターの後ろを足取り重たくついて行く。医務室までは五分と掛からない距離だ。のろのろと歩いていてもすぐに扉の前へと辿り着いてしまう。ドクターがいとも簡単に開いた扉を開けるのに、山井は大変な気力を要した。
「まったく信じられんよ。あんな状態からよく意識が戻ったもんだ」
言いながらドクターが天井から垂れ下がった仕切りカーテンを開ける。向こう側のパイプベッドの上では、桐生が上半身を起こしてこちらを見ていた。
「ほれ、ピンピンしとるだろう。あのまま目を覚まさんでもおかしくなかったが、この通りだ」
目が合う。咄嗟に逸らした視線を繋ぎ止めるように、その声が名を呼んだ。
「山井」
桐生と向き合うと退路を断たれた気分になる。山井は黙したまま桐生を見つめた。
「……席を外そうかね」
重苦しい沈黙を察したのだろう、ドクターがそう呟いた。山井は簡潔にそれを断り、入り口横のソファに腰を下ろした。ドクターもデスクチェアに座る。すると、いよいよ沈黙が三人の上に伸し掛かった。
「……先生」
沈黙を破ったのは桐生だった。ドクターはデスクチェアに腰掛けたまま桐生に向き直る。
「なんだね」
「腹が減ってるんだが」
「だそうだ。組長さん」
なぜ自分に伝えるのだ、と山井は顔を歪めた。桐生の管理を任せているのだから聞かずとも対処をすれば良いものを。しかし、言えばドクターは山井の立場を理由にして反論をするだろう。そして、そうなった場合の結果も目に見えていた。
「わかった。後で何か持ってこさせる」
「後じゃ困る。今だ」
すかさず飛んできた桐生の返答に山井は眉を顰めた。
「我儘言ってもらっちゃ困るぜ……人質さんよぉ。ここは俺の城だ。あんまり好き勝手に振る舞うのは賢いとは言えねぇなぁ」
「……人質、か。なら丁重に扱うんだな。俺に何かありゃあ、アイツらが黙っちゃいねぇ」
「あんなガキ共いくら束になろうが怖かねぇよ」
山井の言葉を桐生が笑う。まるで、何もわかっちゃいないとでも言いたげに。
「春日達よりもっと厄介な奴らだ」
どういう意味だと問おうとしたが「ともかく」と遮られて山井は口を閉ざした。
「腹も減ったし、外の空気も吸いてぇんだ。どうにかしてくれ」
「今は動ける奴らが出払ってんだ。どうにもできねぇ。我慢しろ」
「今すぐ栄養取らねぇと死んじまうかもな。なぁ、先生?」
成り行きを見守っていたドクターが「まぁ、そうだな」と返事をしたのに気を良くしたのか、桐生が勝ち誇ったような笑みを浮かべる。にやりと笑った口が大変に憎たらしい。
「だったら栄養剤でもぶち込んでもらえ」
これ以上、桐生の戯言に付き合っていられるか。山井はソファから立ち上がり扉のドアノブに手をかけた。
「もうしばらく面倒みてくれ。桐生の事は全部アンタに任せるから好きにしろ。いちいち俺に聞かなくていい」
今頃は春日達が攫われた桐生を取り戻す為にあれこれと手を回しているところだろう。向こうにはトミザワも加担しているから、早ければ今夜にもアジトに乗り込んでくるかもしれない。桐生の迎えが来るまでは部屋に引きこもっていようと山井は思った。このまま桐生の相手をまともにしていたら再びバールで頭を殴りつけてしまいそうだった。
桐生には人質と言ったものの、実際は単なる保護に他ならない。目の前で何度も吐血を繰り返した桐生を燃え盛る森に置き去りにはできなかった。自分から面倒事を呼び込むのは昔からの悪い癖だ。わかっていても桐生を無様に死なせたくはなかったのだ。
けれど、今はそんな想いも消え去りつつある。かつて憧れた桐生一馬がこんなにも我が強いとは思わなかった。男でも女でも我が強い人間に振り回されるのはもう御免だと、山井は心底うんざりしながらドアノブを捻った。
「……なら、ちょっとばかし外に出てみるか。その様子なら大丈夫だろう」
「話がわかる先生で助かる」
「ストレスで死なれちゃ敵わなんからな」
桐生とドクターの会話を背中で聞きながら、山井は医務室から廊下へと足を踏み出す。
「じゃ、組長さん。頼んだよ」
「……あ?」
立ち止まり、山井はゆっくりと振り返った。ドクターは世話の焼ける子供を見るような目で山井を見つめていた。
「聞いてたろう。外に連れてってやってくれ」
「なんで俺が」
「今は組長さんしか動ける人がおらんじゃないか。それとも、全てを任せると言った言葉は嘘だったか?」
確かに桐生についての全権をドクターに委ねた。それが、まさか、こんな形で自らに降りかかってこようとは。
何と返事をしたものかを考えあぐねている山井にドクターが近づいてくる。隣に並ぶなり、にわかに声を潜めた。
「憧れだけじゃあ分からん事もある。一度きちんと向き合ってみると良い……まぁ、年寄りの節介だ。流してくれても構わんがね」
本当に節介が過ぎる。老齢のドクターからすると自分と桐生の仲が拗れている事が心配なのだろう。桐生に憧れがあると知っているだけに、どうにかしてやりたいと思ったのかもしれない。
「……おい桐生」
再び廊下へと足を向ける。視界に映る窓外の景色は徐々に煌びやかなネオンで彩られつつある。
「行くならさっさとしろ」
それだけを言い残して医務室を後にした。古いパイプベッドが軋む音が、山井の耳に微かに届いた。
※
サングラスと帽子。ありきたりな変装をして桐生と共に向かったのは、アジトからほど近いショッピングセンターだ。地域住人と観光客が集まり、夜でも賑やかな空気が漂うセンターに山井は滅多な事では近づかない。主に家族連れが多いこの場所では、あちらこちらで子供の甲高い叫び声や鳴き声が響く。それらに山井の神経は大いに逆撫でされるのだ。不快な思いをすると分かりきっているのにセンターに足を運ぶ理由もなかった。
「ついでに少し買い物もして行くからな」
桐生の気に入りだというダイナーから出るなりそう言われた山井の表情がみるみると顰めっ面になる。一刻も早く帰りたい。ダイナーで薄いコナコーヒーを渋々と飲んでいる間ずっとそう思っていたが、桐生はそんな山井の気持ちなど微塵も汲み取れないらしい。返事も待たずに思っていた方向の真逆へと歩き出した彼の背中を、山井は仕方なく追いかけた。どうせ抗議をしても返ってくるのは苛立たしい言葉ばかりだと諦めて桐生の隣に並び、追い越す。半歩ほど先に立って桐生の歩みについてゆく。
「大体のもんならアジトにある。何が必要だ」
「シャツが欲しい。あるのか?」
桐生のシャツは運びこまれた時のままだ。黒色ゆえ目立たないが、砂埃や血、汗でかなり汚れている。山井は少し黙した後に「ねぇよ」とぶっきらぼうに答えた。
「だったら、やっぱり買っていかねぇとな」
実際のところ山井の部屋のクローゼットには、桐生が着ているシャツに近いものが数枚ある。しかし、桐生は客人ではない。部下には建前上は拉致してきた人質であると思わせてもいる。桐生を丁重に扱えない理由がそこにあった。
桐生が服を買いに行っている間、山井はゲームコーナー付近のベンチに腰掛けて待つ事にした。ダイナーよりはマシな缶コーヒーを飲みながら暇を潰していると、ほどなくして桐生が戻ってきた。残りのコーヒーを一気に飲み干して、立ち上がり様にゴミ箱へ放る。これでようやくアジトに帰れる。そう思って歩き出した山井だったが、またしても桐生は進みたい方向に逆らい始めた。山井を通り越した桐生はゲームコーナーへと入って行き、ふらふらと吸い寄せられるようにクレーンゲーム筐体の前に立つ。今度こそ追いかける気にはなれなかった。山井はその場から桐生を呼び、帰るぞ、と彼を促した。はっ、とした顔で桐生がこちらを向く。ほとんど無意識の行動だったのだと、そこで気がついた。
「山井」
「好きにしろ」
桐生に声を飛ばし、山井は今さっきまで座っていたベンチにどっかりと座って足を組んだ。まだこちらの様子を伺っている桐生を手で追い払う仕草で急かす。山井のジェスチャーが無事に伝わったのだろう、桐生はクレーンゲームに向き直った。
――憧れだけじゃあ分からん事もある。
不意にドクターの言葉が思い返された。分からない事は分からないままで良かった、と山井は思った。たった数十分を桐生と過ごしただけで、彼への憧れは見る間に形を失ってしまった。あんなくだらない物に夢中になっている男が桐生一馬だなんて信じたくもない。けれど、目に映るのは紛れもない現実だ。
「……ったく、憧れなんてロクなもんじゃねぇな」
それにしても、と思考を切って桐生を見やる。ゲーム筐体や観葉植物に遮られている所為でほとんど隠れてしまっているが、どうやら景品を獲るのに悪戦苦闘をしているらしい。好きにしろとは言ったものの、一体いつまで待てば良いんだと、山井は組んだ足を小刻みに動かした。
じっと眺めていると、ようやくクレーンゲームから離れた桐生が近づいてくる。しかし期待とは裏腹に、その足は隅に置かれているゲームコーナーの両替機の前で止まってしまった。小銭を得た桐生が元の場所へ戻るのを見て、山井はとうとうベンチから立ち上がった。
また一つ知りたくない事実が増えた。桐生の肩越しにクレーンゲームの景品を目にした山井の口から「……ありえねぇ」と小さな呟きが漏れる。
筐体の中には奇妙としか表しようのない人形が置かれていた。頭がミカンで身体が人間のへんてこな人形が、海をイメージした台座の上で謎のポーズを決めている。そんな物ほしさに一生懸命になっていたのかと山井はがっくりと項垂れた。
「なんだ、そりゃあ……蜜柑のバケモンか?」
「蜜柑じゃない、八朔だ。それにバケモンでもねぇ。小野ミチオって名前がある」
少しむっとした顔で振り返った桐生が言う。山井は近寄って、まじまじとガラス越しに『小野ミチオ』を眺めた。水色と白のストライプの長袖シャツ、白い長ズボン、魚型のポシェット。蜜柑ではなく八朔らしい頭部には小さなラーメンが乗っている。どこからどう見てもふざけた見た目のキャラクターでしかないが、桐生の目には魅力的に映るようだ。
山井は桐生の隣に並び、もう一台のクレーンゲーム筐体に硬貨を投入した。とにかく、この奇妙な人形さえ手に入ればアジトに帰れるのだ。さっさと目的を果たしてしまおうと操作ボタンを押す。桐生はそんな山井の横顔を穴が空きそうな程に見つめていた。まさか山井が自ら進んでゲームを始めるとは思ってもみなかった。そう言いたげな顔をしていた。
「……ほらよ」
難なく獲れた景品を桐生に投げ渡す。しかし、桐生は喜ぶどころか、表情を曇らせて「こいつじゃねぇ」と口にした。
「あ?同じだろうが」
「こいつは海外版だ。顔が全然違うじゃねぇか」
目の前に『小野ミチオ』が描かれた箱が掲げられる。確かに、よく見ればロボットのような顔をしていた。けれど同じキャラクターであるのは間違いない。だから、これで我慢しろ――と言えば、桐生はまた文句を連ねてくるだろう。無駄な言い争いはしたくない。山井は桐生を押し退けて、オリジナル版が入っている筐体の前に立った。
「獲れるのか?」
当然だ、と山井は短く答えた。むしろ箱に入っていないオリジナル版の方が引っ掛ける部分が多くて獲りやすい。予想通りにいくらも使わない内に景品は取り出し口へと運ばれた。
「金はいらねぇ」
財布から山井が使った金額分を差し出そうとする桐生にそう言って踵を返す。ゲームコーナーを早足で横切りつつ、そっと後ろを振り返ると、視界の端に近くの自販機で飲み物を買う桐生の姿が映った。それくらいは許してやるか、と思いながら歩む速度は落とさずにショッピングセンターの出口へと向かう。じきに桐生も追いついて、山井に缶コーヒーを差し出してきた。
「礼だ。これくらいは受け取ってくれ」
「早く帰りぇからやっただけだ。余計な気ぃ回すな」
コートのポケットに両手を突っ込む。その態度で受け取る気はないと桐生も理解をしたらしい。缶コーヒーを引っ込めて山井の横に並んだ。
「しかし、驚いたな。あんな特技があるとは思わなかったぜ」
「特技、か……何が役に立つかわかんねぇもんだ」
山井の口元に、ふっと微笑が浮かぶ。若かりし日を思い出した所為だった。脳裏には焦がれた女に振り向いて欲しいばかりに、ぬいぐるみを獲っては贈っていた青い頃の自分の姿が描かれている。あの頃は俺も若かった、と思い出と呼ぶには苦すぎる過去を払い、笑みを消す。
「アンタこそ、そんな趣味悪ぃモンが好きだったとはな」
「……悪くはねぇだろ。よく見ろ、愛嬌ある顔してるじゃねぇか」
「どこがだよ。間抜けなツラしやがって」
「これでも尾道のヒーローだ。子供達にも大人気なんだがな」
「尾道ぃ?」
桐生の言葉に山井は思わず足を止めた。タイミングを合わせたように、ショッピングセンターの敷地から出てすぐの信号も青から赤へと切り替わる。
「尾道っていや、広島だろ」
「ハワイ暮らしが長い割にはよく知ってるな」
「こっち来てからも日本のでかい組には目ぇ走らせてる。……そういや広島の事件の後だったよなぁ、桐生一馬が死んだのは」
何年か前に広島沖で巨大戦艦が見つかる事件が起きた。桐生の訃報が世を駆け回ったのは、そのすぐ後の事だ。偶然と言えばそれまでだが山井には無関係だとは思えなかった。
「アンタは広島にいたのか」
「……答える義理はねぇ」
青く光る信号を合図に桐生が交差点へと踏み出す。急に訪れた沈黙が答えを語っていた。
火を吹くストリートパフォーマーの前を過ぎ行くと、メイン通りから響く軽やかな歌声が段々と遠くなる。アジトへの最短ルートを結ぶ裏道へ入る頃には、二人の靴底だけが音を奏でていた。
沈黙を保ったまま鮮やかなネオンの光を浴びながらナイトストリートを目指す。帰りたくて仕方がなかった古びシアタービルまではもうすぐだ。
「桐生。アイツらには余計な事を言うんじゃねぇぞ」
勇んで乗り込んでくるだろう春日達にゲームセンターでの出来事を話されてはイメージダウンも甚だしい。今になって余計な手出しをしたと後悔を覚えて桐生に釘を刺した。
「わかった。黙っててやる」
意外にもすんなりと承諾されて拍子抜けする。桐生は立ち止まり、続けて「こいつを貰ってくれたらな。交換条件だ」と言った。あまり変化のない表情が、にやりと意地悪く歪んだように山井には見えた。
「……笑えねぇ冗談だ」
桐生が差し出した手元には缶コーヒーと景品がある。山井が落とした視線の先で、海外版の『小野ミチオ』が煌びやかなネオンの色に染まっていた。
このまま桐生の言う通りになるのは癪だった。けれど、返すべき言葉も見つからない。舌打ちをして交換条件の品を受け取ると、再び桐生は歩き出した。
アジトにつくまで山井は一言も発しなかった。桐生も黙って歩いていた。その横顔がどこか上機嫌そうに見えたのは、気のせいではないだろう。
※
「……不味い」
舌の上に広がる苦味に山井は顔をしかめた。数種類ある中で最も好かない缶コーヒーを選んだ桐生は、やっぱり自分とは相容れない人間だと確信する。
桐生は春日達に迎えられて、つい今しがたアジトを出て行った。山井は缶コーヒーを片手に自室の窓際に立ち、眼下に広がる街並みを眺めた。
シアタービルの最上階からは豆粒のように小さくなった人々が見える。春日一行もあの中に紛れているのだろう、と思いながら口に合わないコーヒーを一気に飲み干した。
殺気だった彼らはまるで桐生を守る騎士の集まりのようだった。かつての部下だったトミザワまでもが桐生の為に山井に牙を剥けてきた。あの死に損ないの何がそんなに春日達の心を掴んだものか。桐生については何もかもが分からない事だらけだと窓から離れ、空になった缶をテーブルに置く。ソファに腰を落ち着けた山井がぼんやりと天井を仰いでいると、部屋のドアをノックする音が耳に届いた。
山井はソファから立ち上がりドアノブに手をかける。部下ではない、と直感でそう思った。
「邪魔するよ、組長さん」
予感した通りにドクターがドアの向こう側から現れる。どうだったね、と首を傾げる彼に山井は皮肉たっぷりの笑みを作ってみせた。
「ああ、先生のおかげでよく分かったぜ。憧れなんてくだらねぇってな」
「……そうかい。アンタらは意外と気が合いそうだと思ったんだがなぁ」
歳を取ると勘が鈍ると呟いてドクターは踵を返した。山井はその後ろ姿を見送りもせずにドアを閉ざした。
「桐生と気が合う?……ありえねぇ」
一人ごちながらソファへ戻り、テーブルに手を伸ばす。空き缶の横にある箱を掴んで中身を取り出すと、パッケージより一層間抜けに見える『小野ミチオ』が現れた。ロボットの見た目をしたそれは桐生に言わせると別物であるらしいが、山井には些細すぎるこだわりでしかない。憧れのベールを捲った先の桐生は、こんな意味不明な物が好きだと言う。一体、どこに魅力を感じているのだろう、とプラスチックにしては重たい人形を天板に放る。
桐生は本当に謎だらけだ。わからない事は知りたくなる。憧れの喪失と共に、強い興味が湧き上がっているのを山井は自覚していた。なぜ死んだはずの男がハワイにいるのか、どんな経緯があって病魔に冒されたのか、疑問は尽きない。桐生とは絶対に気が合わないと思いつつも、山井の頭の中は彼ばかりが占めている。
「くたばるんじゃねぇぞ、桐生一馬」
いつかまた桐生と再開する日があれば、こいつを突き返してやろうと人形を箱に押し込める。ついでに不味いコーヒーを飲ませた詫びに半生でも語らせようとも決めて、山井は薄い笑みを浮かべたのだった。
(了)
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