真桐



春一番



「春日一之丞です!よろしくお願いしまっす!」
威勢の良い声が狭い室内いっぱいに響いて、斎藤一は思わず顔をしかめてしまった。そんなに大声を出さなくとも聞こえている、と言うと、すみませんと慌てた声が返ってきた。が、やっぱりその声もやたらと大きくて、斎藤は眉間の皺をいつも以上に深めて唸った。
「うぅ……春日、だったか?悪いがもう少し静かにしてくれ」
「あらあら斎藤さん。まだ寝巻きじゃないですかぁ。昨日の沖田さん達との酒盛りで飲み過ぎちゃいましたかね。大丈夫ですか?」
新人隊士、春日の背後からひょっこりと顔を出した藤堂平助が全然心配していないような口調で言う。本当に案じてくれているのかもしれないが、どうにも平助の言い方は斎藤には軽薄に聞こえる。
「まぁな。で、どうして春日を連れて来たんだ?」
「そりゃあ……」
平助が満面の笑みで春日の両肩を掴み前方へと押し出す。
「春日君が三番隊の所属になったからですよ。可愛がってあげて下さいね、斎藤さん」
「……俺の隊に?何も聞いていないが」
「ありゃ、そうだったんですか?でも副長が斎藤さんに任せれば良いと言ってましたからねぇ。あ、そうそう。ちなみに酒盛りについてはお咎め無し、だそうですよ。良かったですねぇ」
平助がやたらと、にやにやと口元を歪めた。
確かに昨晩、沖田と永倉と共に酒を飲んだが咎めを受けるほど騒いだ記憶はない。途中で永倉が抜けて沖田と二人で――そこまでを思い返して斎藤は火がついたように顔を赤くした。ぼやけていた記憶がにわかに鮮明になる。
はっ、として頭から布団を被った斎藤の頭上に、
「今さら隠さなくっても。ま、いつもより着物はだけない方が良いかもですねぇ。あと厠に行きにくいんで、もうちょっと静かにしてくれたら助かります」
からからと笑って平助が踵を返す。春日君がんばってね、と言いながら遠ざかる平助を追いたいけれど追えない。
「……あの、隊長。俺はどうしたら」
斎藤と平助の背中を交互に見ていた春日が、おどおどとして聞く。どうしたら良いかなんて斎藤にもわからない。とりあえず障子戸を閉めさせて部屋の隅に座らせてはみたものの、気まずさから何を喋るべきかも浮かばなかった。
――春日一之丞。
昨晩、沖田がぼやいていたから名前だけは知っていた。生意気にも一番隊を志願して、しかもその理由が自分の名前に〝一〟が入っているからなんて巫山戯ていると愚痴を撒いていは永倉に絡んでいた。どうしてあんな奴を合格にしたんだ、と沖田がうるさいから永倉は途中で抜けたのだったと思い出す。
斎藤は今だ布団に包まったままに春日へと視線をやった。とても永倉相手に渡り合えたようには思えないが、ここに座しているからには剣の腕前は相当な物なのだろう。腕が立つのなら見回りにでも行かせるかと思ったが、新人教育を放棄したと土方に勘違いされても事だ。それに、昨夜の土方には目に余ったらしい情事を春日の面倒一つで見逃してくれると言うのだから、滅多にない温情を逃すのも惜しかった。
とにかく何かしらの仕事を与えてやるかと決めて、布団の傍らに脱ぎ捨てた羽織やら袴やらをかき集める。その動作で斎藤の意図を察したらしい春日が急いで立ち上がろうとした。
「そこにいて良い。すぐに済む」
「いや、その……水を汲んでこようかと。声がだいぶ掠れてらっしゃるので」
「……ああ、頼む」
春日は中々に気の回る男のようだ。余分なところまで気がついていそうでもあるが。
出て行ってすぐに、どたどたと騒がしい足音が戻ってきた。開けっ放しの障子戸から飛び込んできた春日が、目の前に座すなり「どうぞ!」と椀の形に作った両手を差し出してきて斎藤は目を瞬かせた。
「これを、どうしろってんだ」
「さぁ、ぐいっと!遠慮はいりませんよ」
「普通、椀に入れてくるだろう……」
「隊長。早く飲まねぇと無くなっちまいます」
春日の表情を見る限り冗談でやっている訳ではなさそうだった。この男、どうやら気は利くが少し抜けているらしい。
ともかく斎藤は仕方なしに春日の手から水を飲む事にした。飲まずとも隙間から垂れ落ちては失われてゆく水に、これ以上布団を濡らされても困る。
冷たい井戸水に口をつけると、飲みやすいようにと春日がゆっくりと手を傾けた。すべてを喉に流し込んで唇を拭う。溢してはならないと注意したから布団は無事だった。けれど、斎藤の顎から胸にかけては無事とは言い難い状態で。
「すみません。飲ませ方が悪かったですかね」
言いながら春日は懐から出した手拭いで斎藤の身体を拭き始めた。やけに慣れた仕草に思える。自分でやると言い終わる前に拭き終えてしまう手早さだった。
「俺、揚屋で下男やってたんです。なんで、そんなに気にしなくて大丈夫ですよ。見慣れてますから」
大きく開かれた障子戸を閉めた春日が、まるで酒屋の軒先に吊るしてあるような、杉玉みたいな頭を掻いて笑う。
そうは言われてもと思ったが、春日なりの気遣いの言葉なのだろう。何も言わずに受け取っておいた。
沖田が好き放題に愚痴を並べていたからとんでもない奴が入ってきたのだな、と思っていたが何の事はない。どこか抜けてはいるが朗らかで優しい男だ。出だしを間違えてしまったけれど、春日の人となりを知ればきっと沖田とも馬が合う。そんな気がした。
「春日。沖田には俺から口添えしてやろう」
寝巻きの腰帯を解きながら言うと、春日が「えっ」と声を上げた。
「早速、沖田に噛みつかれたらしいな。まぁ、あいつに進言できる度胸は大したもんだ」
「はは……知ってたんですね。新撰組は揚屋より噂が回るのが早ぇえや」
「今すぐには無理だろうが、春日の頑張り次第では一番隊に入れるかもしれねぇな。俺も沖田には入隊したての頃は好かれてなかったんだ」
――それが今では。
小袖を羽織った斎藤は所有の証がそこかしこに散らばった己の身体を見下ろした。改めて見ると、また派手にやってくれたものである。沖田は加減を知らない。知っていたとしても、それを実行する理性がなかった。
「温めましょうか」
腰紐を結び袴を手にすると、突然、そんな事をいわれて斎藤は戸惑った。
何の話だと返すと、
「そいつは温めると早く消えるんですよ。ついてすぐなら冷やした方が良いんですが。噛み跡はどうにもならねぇけど、血痣だけでも消えればちったぁマシになるんじゃないですか?」
と春日は斎藤の身体に咲く痣を指した。
「……さすがは揚屋の下男だっただけはあるな」
「イチの手はお天道様みてぇだって評判だったんですよ。俺が温めると一等早く薄くなるって姐さん達によく褒めてもらいました。まぁ、今日明日では無理ですけど、何もしねぇよりは」
「折り紙つきか。なら、やってもらおうか」
「じゃあ、横んなってもらえますか。そのままの格好で大丈夫ですよ」
言われた通りに布団に寝転がる。小袖と褌だけしか身につけていない状態を晒すのは、無防備で心許なかった。
真横に正座をした春日が、失礼しますと断ってから腰紐を解き、揃えた指先を血痣に当てる。すぐに、じんわりとした熱が伝わってきた。
「こうやって軽く揉んでやると温かくなってくるでしょう」
「ああ、本当だな。しかし数が多いぞ。大変じゃ無いか?」
「全然平気ですよ!なんせ日に一人二人じゃなかったですからね。血痣つけてちゃ馴染みと修羅場になっちまう」
「だが、効果はあってもすぐに消えるものでもないだろう」
「そういう時の決まり文句がありましてね。あたしを放っておくアンタが悪いのサ、って」
どうにもならなければ開き直ると言う訳か。女はしたたか。言い得て妙である、と斎藤は思った。
春日の面白おかしい揚屋話を聞いている内に上半身が終わったらしい。下半身の、とくに股に近い内腿に集中している血痣に取り掛かる為に春日が足の間に割って入った。
「……この格好は恥ずかしいんだが」
「ちょっと見えにくい場所なんで。すみません、もう少しだけ開きますね」
膝頭を掴まれ立てた脚を外側に倒された、その時。
「一ちゃん、いつまで寝とる……」
がらり、と一言もなしに障子戸を開いた沖田が固まる。続くはずだった言葉すら失くして立ちつくす沖田の顔が、一瞬にして般若の如き様相に変わるのを春日の肩越しに斎藤は見た。
「あ、沖田隊長!おはようございます!」
振り返って沖田に深々と頭を下げる春日に、斎藤は慌てて身体を起こして耳打ちをした。
逃げろ、殺されるぞ、と端的に。
「え?斎藤さん、今なんて」
「春日ぁ!入隊早々に一ちゃん襲うとはええ度胸しとるやないけ!」
「えっ!沖田さんっ!これは……違っ……!」
襟首を掴まれて沖田に引き摺られてゆく春日に心の中で手を合わせながら、斎藤は半端で止まっていた着替えを再開させた。けれど思い直して、袴の前紐を固く結ぼうとしていた手の力を緩めた。どうせ春日を締めた後に沖田がやってきて着物を引っぺがしてしまうのだ。しっかり着込んでも無意味になる。
せっかくしてもらった血痣の手当ても無駄になってしまったなと短く嘆息した斎藤は、後でひたすらに気の毒な春日を慰めてやろうと決めて布団に大の字になって寝転んだ。
春日が一番隊に入れるのは一体いつになる事やら。
どたばたと走り回る二つの足音が鳴り止むのも、まだまだ先になりそうだ。


(了)
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