真桐
Lost
ホテル街の真ん中で、二人して、ほとんど同時に足を止めた。
「……あれ、どこに行くつもりやったっけ?」
真島は首を傾げて隣を歩く桐生に聞いた。どこかへ向かう為に明確な目的を持って歩いていたはずなのに、ちっとも思い出せない。ラブホテルが建ち並ぶ眩しいネオンが照らす通りを、どうして桐生と。答えを知りたくて桐生の言葉を待つ。
「……さぁな。俺にもわからねぇ」
あまりにも頼りない返事に真島はがっくりと肩を落とした。さっきから記憶の糸を手繰り寄せても、めぼしい物は見つかりそうにもなかった。桐生がわかないなら、もう答えなど知りようもないじゃないか、と真島は頭の中を探るのを諦めてポケットから煙草のソフトケースを取り出した。
「まぁええわ。その内に思い出すやろ」
「だと良いんだがな。俺もなんで兄さんとこんなところを歩いてんのか不思議でならねぇ」
桐生が、うーんと唸りながら歩き出す。真島もつられて足を動かした。
「わからん事を考えとってもしゃあないやん。とりあえず飯でも食いに行こうや。腹減ったわ」
煙草に火をつけながら言うと「いつもの店でいいか?」と桐生が口にした。行きつけの店ができるほど桐生と食事をしたっけな、と真島は再び首を傾げた。
「いつものってどこやねん」
「え?だから……」
真島が咥えた煙草を吸って、煙を吐き出す間、桐生は黙ったままだった。どころか、終いには「なんでもない」とまで言い出す始末だ。なんやねん、と思わず口走った真島に、桐生は困惑の表情を向けた。
「なぜだか、あんたとよく行っていた飯屋があるような気がしてな」
「そんなんあったら覚えとるって。そもそも桐生ちゃんと飯行くんが珍しいんやから」
「あんたあんまり食わねぇもんな」
「桐生ちゃんが食い過ぎやねん。……はぁ、それよりこれからどないしよ。せっかくやし喧嘩でもするかぁ?最近ご無沙汰やし。桐生ちゃんが横浜なんかに越した所為やで」
自分でそう言いながらも真島はあまり気乗りがしなかった。
東城会から消えた百億を巡る事件の後、桐生は何もかもを投げ打って神室町から横浜へと住まいを移した。おかげで真島はつまらない日々を過ごしている。今では、たまに桐生が用事で街に戻ってきた時くらいしか喧嘩をする機会がない。なのに何故だか、言葉とは裏腹にその気が起きずにいる。きっと唐突な物忘れの所為だろう。そう思って口元に煙草を運ぶ。その手から、ふと軽い喪失感が生まれた。
「桐生ちゃん?なにすんの」
「少し吸わせてくれ」
「ええけど……ハイライトなんか吸うん?」
「いや。でも急に吸いたくなってな。この匂いが懐かしいというか……」
ほぉん、と適当な相槌を打つ。理由がわからない事は追求しないのが真島の主義だ。
「やっぱり不味いな。返す」
「前から思っとったけどだいぶ失礼やぞ、それ」
「前から?」
怪訝な目で見つめられる。言葉の綾や、と濁すと、さっき真島がしたような場を流す為の相槌が返された。
「で、どこの飯屋にすんだ」
「あそこにしよや、すぐ近くの蕎麦屋」
劇場前通りにある寂れた店が思い浮かんだ。安いだけが取り柄の大して美味くもない店だった。蕎麦なんて好きじゃないのにな、と思いながら足で地面に投げ捨てた煙草を踏み躙って消す。
「あんた、携帯灰皿はどうしたんだ」
一連の動作を見ていた桐生が呆れたような声を出した。携帯灰皿なんてお行儀の良い物をどうして持っていると思うのだろうか。けれど、言われた途端、持っているような気もして真島はジャケットやレザーパンツを叩いて探った。買った覚えがないのだ、あるはずがない……がジャケットの左側のポケットから、それは現れた。
「……あったわ。え、これ桐生ちゃんがくれたんやっけ?」
「なんで俺が兄さんにそんな物をやるんだ。自分で買ったか誰かにも貰ったんだろう?」
「そうか、そうやな。多分貰ったんやわ。そんな気ぃがしてきた」
「大丈夫か?あんた、さっきから変だぞ」
その言葉はそっくりと桐生に投げ返してやりたかった。変、確かに変だ。妙な違和感が薄い膜みたいにずっと纏わりついている。正体不明の何かが、自分と、おそらく桐生にも。
もやもやとした薄曇りの天気のような胸の内を抱えたまま、ホテル街から劇場前通りへと出る。蕎麦屋へ向かう途中で、街中に貼られた映画のポスターが真島の興味を引いた。
「なぁ桐生ちゃん。ちょっと映画でも見て行かへん?」
変もここまで来ると大概だ。けれど今更かと開き直る。蕎麦屋へ行く前に何故だか無性に映画を観たくなった。これも理由はわからない。だけど、そのまま蕎麦屋に向かうのは、どうしてだか、とても落ち着かなくて仕方がなかった。
「なんで兄さんと映画を観なきゃならねぇんだ」
「いや……暇潰しに?」
「暇なら組に帰ったらどうだ」
「桐生ちゃんこそ嬢ちゃんとこ帰らんでええの。もう八時やで」
劇場前の広場にある時計を顎で指し示す。桐生と暮らす少女――遥は歳の割には随分としっかりしているが、それでもまだ小学生だ。夜中まで一人で放っておくのは育児放棄に当たるんじゃないだろうか。それに遥の為に生活を変えた男の行動とも思えなかった。
「言っただろう。遥は今日はヒマワリに泊まりなんだ」
聞いてなかったのか、とでも言いたげな表情で桐生が言う。今初めて耳にした情報に、真島は片眉を僅かだけ吊り上げた。
「聞いてへんけど」
「……言っただろ」
絶対に聞いていない。けれど、言えば桐生は意地になって言い返してくるに違いなかった。ここは折れておくか、と真島は「せやったか?」とだけを口にした。桐生の扱いにもだいぶ慣れてきたなと思ってすぐに、自ずから〝なんでやねん〟と心の中で突っ込みを入れる。桐生の事は気に入っているし、それなりに付き合いも長いが、扱いをどうこうと言えるような仲でもない。喧嘩をコミニュケーションだと思わない桐生との距離は縮まり難く、昔を思えば多少は近づいたか、というくらいのものなのに。
本当に今日はどうもおかしい。さっさと蕎麦を食って帰ろうと、真島はポスターから離れ歩き出す。
「そういや桐生ちゃんは何の用でこっち来たんやっけ?」
しばらく歩いてからそう聞くと、桐生が足をぴたりと止めた。見ると、眉根を寄せて、不可解極まりないといった顔をした桐生と目が合う。
「……思い出せねぇ」
「はぁ?何やそれ。
「用事があったはずだったんだがな……」
ううん、と桐生が頭を捻る。たっぷりと時間を消費して出された答えは「やっぱり思い出せねぇ」だった。
「なんや桐生ちゃん、まるで……」
記憶喪失みたいやな、と言ってやろうとして真島は気がついた。自分も朝から今に至るまでを思い出せない事実に。
「……え、あれ。なんやこれ……?なんで俺まで何も思い出せへんのや」
「なんだ兄さんもボケてんじゃねぇか」
「うっさいのぉ。すぐに思い出すわ、多分」
言って、真島は来た道を引き返し始めた。
「どこへ行くんだ?」
「嬢ちゃんはおらん。何しに来たかも思い出せん。なら今日くらい遊んで帰ってもええやろ。さっきの映画観ていこうや」
「……まぁ、構わないが」
「なんや桐生ちゃんと喧嘩する気も起きんしなぁ。デートしようや、デート!」
冗談ついでに手でも握ってやろうか。そう思って、桐生に触れる寸前でやめた。桐生と恋人ごっこだなんて我ながらふざけすぎている。こんなゴツくて、やたら体温が高い男の手を握ったって楽しくもなんともないな、と真島はひそやかに笑った。
「映画観て蕎麦食って……その後はどないしような?桐生ちゃん」
「あんたの好きにしたらいいさ。こうなったら今夜はとことん付き合ってやるよ」
「ひひひ、ええ返事や!ほな行くでぇ!」
何かを思い出せそうで、思い出せないもどかしさは、桐生と遊んでいる間に消えるだろうか。長いようで短い夜が終わる前に記憶が戻れば良いけれど。
(了)
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