真桐
おきにいり
下から覗きこむように真島の隻眼が桐生の瞳を見つめている。夕暮れの迫る神室町の往来。仕事帰りのサラリーマンやOLは睨み合う二人を避けるように、そそくさと道の端を小走りに通り抜けて行く。
一見すると今にも殴り合いの喧嘩が始まりそうにも思える光景だ。しかし実際は、真島と桐生は実に平穏な理由で指し向かっているだけだった。桐生の目に入った睫毛を真島が取ってやろうとしている。ただそれだけの事なのだ。
「んー……見えん。桐生ちゃん、ちぃと屈んでや」
真島が桐生の頭を押さえつける。内心で舌打ちをしながら膝を曲げた桐生は、早く気まぐれな狂犬が飽きてはくれないかと願って目を見開いた。
自宅である安アパートに帰る途中。茜色の中、長い影を引き連れて真島は桐生の前に現れた。嶋野の狂犬にはあまり関わるな、と周りからは常々言われてきた。事実そうだと痛感している桐生は、真島に道を譲るように路地のフェンス側に寄って彼をやり過ごそうとした。
深々と頭を下げ「お疲れ様です。真島の兄さん」と挨拶をする。真島が通り過ぎるのを静かに待った。真島は「おう」と、だけ口にして桐生の前を過ぎて行く。それで終わるはずだった。けれど、間の悪い事に――本当に間の悪い事に。その瞬間、桐生の目に痛みが走った。思わず息を詰まらせた桐生の、ほんの僅かな呼吸の乱れを真島は見逃さなかった。ぴたりと足を止め、道を戻った真島が桐生に暗い影を落とす。
「どしたん、桐生ちゃん」
黒い皮手袋が、すいと桐生の顎へと伸びた。指先が整えられた顎髭を撫で、顔を上向かせる。
「いえ……何でもないです」
だからとっとと離れてくれ。言ってやりたい言葉を飲み込んで、桐生は真島の動向に固唾を飲んだ。想像の範疇を簡単に超えてくる真島だ。この状況からどう動くか、まったく予測がつかなかった。
じっと真島の視線に耐えている間にも右目は痛みを訴えてくる。元凶である睫毛を洗い流そうと涙も滲み始めていた。それに真島も気がついたのだろう。微動だにしなかった彼が小首を傾げた。
「何でもないのに泣くんか」
「これは……その……」
「目にゴミでも入ったんか?」
どれ、と鼻先が触れ合う近さで顔を近づけた真島に桐生は思わず後退った。背中に当たったフェンスが軋んだ音を立てて揺れる。逃げ場はないぞと嘲笑うように、金網の向こう側から枝をのばした銀杏の木が、乾いた葉を桐生の頭上に一枚降らせた。
「取ったろか」
「え?」
聞き間違いだ、と桐生は思った。真島からそんな親切な言葉が出るはずがない。いつか桐生をこの手で仕留めたいと、愛用の刀身を舐めながら本人を前にして笑う男だ。優しさや慈しみの心を母親の腹の中に置き去ってきてしまったんだろう、と思えるような言動しかしない真島である。聞き間違いという判断は真島を知る人間ならば、ごく自然な反応だった。
「……あの、真島の兄さん。今、なんて」
「やから、ゴミ取ったろかって」
聞き間違いではなかった。驚きに目を見張った桐生の
「ほれ、もっと目ぇ開かんかい」
「いえ、兄さんにそんな事させられません。大丈夫ですから……」
「あ?兄貴の親切が受け取れんちゅう事かぁ?」
真島の背後に暗雲が立ち込め始める。急激に機嫌を変える真島をこれ以上は刺激しない方が良いだろう。そう判断して、桐生は頭に浮かべていた断りの台詞を丸めて捨てた。
「……じゃあ、お願いします」
「そうそう、素直が一番やで。意地張ってもええ事あらへん」
真島相手でなければ断ったりしない。思いながら黒い革手袋を外す仕草を見つめる。赤く燃えるような夕日を背にして指を怪しく蠢かせる姿に、桐生は言い表しようのない不安を感じて頬を引き攣らせた。
――と、そんな経緯があって、真島は桐生の瞳を覗き込んでいる。
「そのままなぁ。瞬きしたら承知せんで」
言って、真島は独特な笑い声を漏らしたが、桐生にはまったく笑えなかった。目の痛みを少しでも和らげたいが、瞬きをすれば身に危険が及ぶかもしれない。なにせ相手は真島だ。逆らった瞬間に刃が皮膚を裂くおそれは十二分にある。常から冗談のように放たれる言葉が、冗談では終わらない事を桐生は知っていた。だから黙って真島に従う方が賢明なのだ。眼球が乾いて一層強い痛みを発しても、ひたすらに耐える他に道はない。
――さっさとしろよ。できねぇなら諦めろ。
目を覗き込んだまま動かない真島に、心の中で二度目の舌打ちをする。言いたい。けれど言えない言葉を飲み込んで、真島が睫毛を取り除くのを待った。
「しっかし桐生ちゃん睫毛長いなぁ。ばっさばさやんけ」
「……はぁ」
「そら、こんなけ長けりゃ目にも入るわ。しょっちゅうやろ」
「まぁ……それなりに」
目も痛いし、いつまでも中腰の姿勢でいるのも苦しい。なのに真島は呑気に睫毛について話している。本当にいい加減にしろ!とまで叫び出したい気分で桐生は相槌を打った。
「お、あったあった。べったり張り付いとるわ」
真島の体温の低い指先が桐生の眼前に迫る。指の腹が焦点も合わないほど間近になって、眼球に触れた。
「桐生ちゃん知っとる?目ん玉って良い金になるんやで。世の中には悪趣味な奴がおってなぁ。集めるんやと」
眼球に爪を突き立てられやしないか。そう思い、内心ではひやひやとしていたが、真島の手付きは意外にも優しかった。
「こない綺麗な目ぇやったら高値つくやろなぁ……しっかし取れんな。目ん玉、抉り出してええ?」
だけど、やはり、真島は真島だ。とんでもない事をさらりと口にする。
「……っ、いい訳ないでしょう!」
「そないに怒らんでもええがな。ちょっと言ってみただけやんか。ほれ、取れたで。睫毛」
ほんまに長いなぁ、と感心するように真島は指先にへばりついた睫毛を眺めた。
「ありがとう、ございます……」
礼など興味がないとでも言わんばかりに、真島は茜と紺の混ざる地平線へと歩き出した。桐生には、もう興味が失せたような無関心さで、人通りもまばらな道を進んで行く。桐生は黙って、その背を見送った。パイソン柄のジャケットの背を眺めながら、異物感のなくなった右目を何度か瞬かせていると、不意に真島が振り返った。
「やっぱり、桐生ちゃんは綺麗な目ぇしとるわ」
夕闇の中で怪しく笑う真島の影が、地面に長く伸びていた。
(了)
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