真桐



For you


ついてない、なんて言葉じゃ足りないくらいに運が悪い。
ネオン街を息急いて駆け抜けながら、桐生一馬はそんな事を思って己の不運を嘆いていた。
急遽決まった由美の誕生日パーティーの為に用意をした指輪。名前まで刻印してもらった特別なそれを、あろう事かスられてしまうだなんて。だけでなく、一時間前には、ここのところ顔を合わせずに済んでいた真島吾朗と鉢合わせた上に額を傘で殴られた。これを運が悪いと言わずして何と言えたものだろうか。
今日は厄日かと深い溜息を吐いて、桐生は動かし続けていた足に緩くブレーキをかけた。
「……ダメだ、見つからねぇ」
スリの犯人は桐生から逃げながらも犯行を重ねているらしく、行く先々で情報は得るものの、その尻尾を未だ掴めずにいた。どうやら神室町では有名なスリ師で、一度隠れてしまうとそう簡単には見つからないのだとか。
盗むならせめて財布にしてくれたら良かったのに、と桐生は舌打ちをした。よりにもよって由美への誕生日プレゼントを狙うだなんて目が肥えすぎている。
桐生の足はホテル街に差し掛かる手前で完全に止まった。諦めてはいない。けれど、どこを探したものか見当もつかなかった。闇雲に探し回って時間だけが過ぎてゆく。由美に指輪をやると約束した訳じゃない。でも、欲しがっているらしい指輪をプレゼントしてやれば、彼女は最高の笑顔を桐生に見せてくれるだろう。花開くように笑う由美の姿を見たかった。ありがとう一馬、と言って喜ぶ、その顔を。
もう一度スリ師が隠れていそうな場所を見落としていないかを確認しようと、桐生は今来た道を振り返った。直後、硬直する。数メートル先から歩いてくる男に桐生の意識は奪われていた。雨も降っていないのに傘を持っているばかりか、ひしゃげて使い物にならなくなったそれを無意味に振り回して近づいてくる男に。
「っ、真島の兄さん……!」
やっぱり今日は厄日だと桐生は確信した。日に二度も。それも、こんな短時間の間に真島に再会するだなんて厄日でしか起こり得ない事態に違いない。
桐生は慌てて踵を返そうとしたけれど遅かった。離れた場所から、おぅい桐生ちゃん、と呼びかけた真島が走り寄ってくる。目の前まで迫った真島は一時間前に自分がした事などすっかり忘れた様子で、朗らかに笑いながら桐生の肩を片手でばしばしと叩いた。
「また会うたなぁ。こないなとこで何しとるん?」
「たまたま通りがかっただけです。……急いでるので失礼します」
「ほんまに急いどるみたいやな。けど、焦っても探しもんは見つからんでぇ」
ぎくり、とした。何故、真島が知っている。
思っている事が顔に出やすいと錦山によく言われる桐生だ。きっと今もそうだったのだろう。
真島が笑みを深めて桐生を指差した。
「きょろきょろ辺り見回しとったやん。財布でも落としたんか?」
「いや、落としたわけじゃ……」
言いかけて飲み込む。
中途半端に途切れた言葉の続きを真島は待っていたが、これ以上を話すつもりはない。真島の相手をしている間に指輪が質屋にでも売り飛ばされてしまったら、と思うと桐生は気が気ではいられなかった。
「兄さん、すみませんが本当に急いでるので失礼します」
また殴られるかもしれない。でも、殴って気が済んで解放してもらえるのなら、それが一番手っ取り早い。傘か拳か、はたまた刃物か。何が飛んできても耐えられるように桐生は歯を食いしばった。しかし真島は予想に反して、
「……まぁええわ。なんや知らんけど、あっちこっちでスリ働いとる奴がおるらしいわ。桐生ちゃんも気ぃつけ」
先ほどよりも強い力で肩を叩かれる。
真島の言動は予測がつかない。まるで山の天気のように変わりやすくて振り回されるばかりだ。
ともかく助かった、と真島の背中が遠ざかったのを見送って再び足を動かす。真島とは反対の、行こうとしていた方角とは違う道へと桐生は急ぎ足で駆けて行った。


「どこに隠れてやがる……!」
目撃情報を頼りに隠れていそうな場所を見回ってもスリ師が見つかる気配がなくて焦りの色が濃くなる。麗奈が少し早めに店を閉めると言った時間にまもなくなってしまう。
もう諦めて違うプレゼントを買い直すべきだろうか、と桐生は思い始めていた。けれど、あの指輪に有金のほとんどを使ってしまったから大した物も買えない。それに何をあげたら喜ぶのかを一人で頭から悩まなければいけなくなる。
ついに裏路地で立ち往生してしまった桐生が最適解を探して思考をフル回転させていると。
「おったおった。探したでぇ、桐生ちゃん」
またしても真島がビル陰から現れて桐生は思わず苦い顔をした。三度目ともなると取り繕うのもさすがに難しかった。
「そない嫌そうな顔せんでもええやん。桐生ちゃんが喜ぶもん持ってきたったのに」
「俺が……?」
「せや。まぁ、いらんちゅうんならキャバ嬢にでもやるけどな。ユミって名前の子ぉおるし、ちょうどええわ」
言いながら真島は、リングケースを見せびらかすように桐生の目の前に掲げてケースを開いてみせた。桐生が必死になって探し回っていた指輪が真島の手の中にあった。
なぜ、どうして、と思うよりも早く身体が動く。ほとんど反射的に指輪を取ろうとした桐生の指先を真島が掴んで制した。
「やっぱりこれ、お前のか。なんか探しとるとは思っとったけど……桐生ちゃんも意外と抜け目ないやんか」
「返してください。頼みます、兄さん」
なぜ真島が指輪を持っているのかは最早どうでも良かった。指輪が辿った経緯を知るよりも一刻も早く取り返してセレナに向かう事の方が重要だった。
閉じたリングケースをしっかりと握り込んだ真島が笑う。企みがある、と言うような嫌な笑い方をしていた。
「よっぽど大事らしいな。返したってもええけど……そやなぁ、ほんならチューでもしてもらおか」
「……ちゅう?」
「キッスやキッス。桐生ちゃんからしてくれたら返したる」
「な、なんで俺がそんなこと!」
真島の意味不明な発言に頭が混乱する。冗談、と決めつけられないのが真島の怖いところだ。突拍子もない事を思いつきで言い出す彼に、これまでにも何度となく振り回されてきた。けれど、今回ばかりは自分をからかう為の悪趣味な冗談だと桐生は思いたかった。そんな願いを込めて聞く。
「兄さん。冗談ですよね」
「冗談ちゃうけど。桐生ちゃんの本気、見せてみぃや」
だったら力ずくで、と思った桐生だったが、真島と拳を交えれば無傷では済まないだろう。やはり真島の言う通りにするしか道はないのだと悟って、覚悟を決めた。
「……わかりました。やります。やりゃあ返してくれるんですよね」
「男に二言はないで。約束するわ」
相手が相手なのもあって、こんなに心許ない約束もないよな、と不安になりながらも真島をビルの隙間にできた物陰へと呼ぶ。壁際に真島を寄せて、一つ深呼吸をした桐生に笑い声が降ってくる。
「緊張しとるん?かわええなぁ」
「少し黙っててください」
「俺はいつでもええでぇ」
目を閉じて待つ真島が今からでも冗談だったと言ってくれないかと淡い期待をする。だけど桐生は知っている。真島は一度決めた事を曲げるような男ではない、と。だから桐生も腹を括るしかない。覚悟を決めて返事をした以上は、やらなければならないのだ。
失礼しますと断ってから、ゆっくりと唇を触れさせる。真島が納得するラインがわからずに重ね合わせたまま三秒を耐えた。そろそろ離しても良いだろうか、と桐生が身を引こうとした、その時。
「……っ!」
後頭部を固定されて嫌な予感が背筋を駆け上る。一瞬、頭をよぎった悪夢のような想像が、すぐに現実となって桐生を襲った。
唇のあわいから侵入をはたした真島の舌が暴れる。口内を蹂躙して呼吸を奪う。二人の舌が擦れ合う度、滲む唾液が混ざり合い顎を伝って流れてゆく。
誰もが気がつかずに通り過ぎて行くような、街の忘れ去られた片隅。狭苦しいその場所に湿った音が響いているような気がして、桐生は目眩を起こしそうになる。熱に浮かされたみたいに思考力の落ちた頭から、理性までもが削ぎ落とされてしまいそうで怖かった。真島に弱い部分を見つけられては、突かれ、舐められて。気持ちが良い、とそれ以外には何も考えられなくなりかけている。
「っ、あ……兄、さん……」
不意に真島の唇が離れた。
散々と桐生を弄んだ舌先が濡れた跡を辿って喉元を舐め上げる。
「なんや、物足りんような顔してぇ。このまま襲いたくなるやんか」
鎖骨を強く噛まれた痛みで桐生は我に返った。
熱で溶けかけていた思考が冷える。すっかり見失いそうになっていた目的を思い出した桐生は、真島の両肩を掴んで激しい揺さぶりをかけた。
「兄さん!指輪!返してください!」
「お、おぉ。返す返す」
桐生の突然の変わり様に面食らったらしい真島がリングケースを差し出す。ひったくるようにして走り去ろうとすると。
「また遊ぼうなぁ、桐生ちゃん」
ひらひらと手を振る真島に、二度とごめんだと心の中で毒づきながら桐生は黙って頭を下げた。
セレナへと向かって走る。
背中にまだ真島の視線が突き刺さっていたけれど、桐生は振り返らなかった。


セレナでのパーティーはすでに始まっていた。おそらく桐生の到着を待ちきれなかった錦山が、もう始めちまおうぜ、と催促をしたのだろう。渋る由美と麗奈の顔が目に浮かぶようだと思いながら扉を開く。
「おっ、ようやく来たな。遅刻魔め」
「悪い遅くなった。……ちょっと色々あってな」
「で?プレゼントは買えたのかよ」
だらけた姿勢で椅子に座る錦山が、にやにやとした笑みを桐生に向ける。流行に敏感な錦山だ。慌てて買いに走ったところで手に入る物ではないと、桐生が無駄足を踏んだと決めつけているような笑い方だった。
そんな彼の鼻を明かすように由美にリングケースを渡す。
由美と錦山が同時に驚いた声を出した。
「マジかよ桐生!」
「一馬、これって……!」
二人の視線が桐生へと注がれる。
そこへ店の奥でケーキを切り分けていたらしい麗奈が加わって「ねぇ、早く開けてみて!」とカウンターの内側から興奮気味に由美を促す。
三人分の視線が桐生から小さなケースに移された後、由美は慎重な手つきでケースを開き、
「……綺麗」
うっとりと指輪を眺めて呟いた。
錦山が面白くなさそうに舌打ちをするのを麗奈がたしなめて由美が笑う。身体を張った甲斐があったなと桐生も微笑んだ。
「一馬ありがとう。これ、すっごく人気なのよ。手に入れるの大変だったでしょう?」
「いいや、大した事はないさ。少し犬に噛まれたくらいだ」
犬?と聞き返した由美に、なんでもないと言って気の触れた狂犬真島を脳裏から追い出す。桐生からすると、あれは本当に犬に噛まれたようなものだった。
「桐生ちゃん、何飲む?いつもので良い?」
ああ、と返事をしそうになって思い止まる。いつもより度数の高い酒を頼むと、張り切っちゃってと麗奈は笑った。
「今はそういう気分なんだ」
強い酒なら消毒にもなるだろう。期待して注がれた琥珀色を飲み干すと、錦山もグラスを掲げて「ダブルで」と口にする。どうやら張り合うつもりらしい。
「負けねぇからな!」
「臨むところだ。飲み比べなら俺も負けねぇ」
私の奢りよ、とボトル一本をカウンターに置いた麗奈が呆れた顔で由美に耳打ちをする。二人して桐生をちらりと見て、くすくすと笑っていた。こそばゆさを感じさせる彼女たちの秘密事を暴きたくなって、
「何笑ってんだ?」
と聞いたが沈黙と微笑みだけが返された。
笑っているし、楽しいならそれで良いか。とアルコールが回って浮つき始めた頭で思う。美味い酒に気の合う仲間。良い誕生日パーティーだと、上機嫌な桐生は負けじとグラスを傾けた。





「アニキ。こいつ、どないしましょうか」
桐生を見送ってほどなくして、助けてくれぇと情けない悲鳴を上げているスリ師が真島の足元に投げ出された。適当にボコっとけ、と指示した通りに痛い目を味わったらしいスリ師が、地面に額を擦り付けて壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返して懇願する。
電信柱にもたれて煙草を吸っていた真島は、愛用の短刀を鞘から引き抜くと、その切先を怯えて震えるスリ師へと向けた。
「うちのシマで随分と好き勝手やってくれたなぁ」
冷たい輝きを放つ刀身でスリ師の頬を叩く。ひっと一際、大きな悲鳴が漏れた。
「それに俺の獲物に手ぇまで出して。今回は右耳で勘弁したるわ。お前ら、暴れんようにしっかり押さえとけ」
口々に返事をした舎弟がスリ師の両腕や頭を掴んで動きを封じる。耳の付け根に刃先を当てると、恐怖が最大限に達したのだろう。真島にもガチガチと歯の根を鳴らす音が微かに聞こえた。
鋭い刃が皮膚を僅かに切り裂く。勝手に震えて動く所為で付け根で止まっていた刃先が沈む。裂け目から血が溢れて赤い筋を作っては地面へと垂れ落ちた。
「……なんてな。ジジイの耳なんぞいらんわ。これに懲りたらスリから足洗えや。当然、次はないで」
真島は、短刀についた血を振り払って目線で解放してやれと舎弟に命じた。自由になった途端、一目散に駆けて豆粒くらいに小さなくなったスリ師の姿が、あっという間に暗がりに溶けて見えなくなる。
興味を失くしたように踵を返した真島が新しい煙草を咥えると、舎弟の一人がすかさずジッポライターを差し出して火をつけた。おずおずとした様子でスリ師を逃して良かったのか、と舎弟が聞く。最近、組に入ったばかりの若造は真島の決断には黙って従うという鉄の掟を知らないらしかった。彼の兄貴分達の顔色がさっと青くなる。教育不足を咎める拳が飛んでくるかと身構えた彼らに真島が吠えた。
「おい、お前ら。子分の躾くらいしとけや!」
けれど、それだけだった。真島が言葉だけで済ますのは大変に珍しい事態だった。舎弟達は揃って顔を見合わせて安堵の息を吐く。
助かったな、と顔を見合わせている彼らを置き去りにして真島は鼻歌交りにネオン街の大通りへと歩き出した。
天下一通りへと向かう道を行きながら煙草を唇に押し当てて胸いっぱいに吸う。なのに不思議と口寂しいのは、あの薄くてかさついた、桐生の唇を求めているからなのだろう。
意外と柔らかかったな、と思い出し笑いをして。
真島は夜の街を行く。



(了)
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