錦桐


0軸/錦誕生日話

午前十二時、十五分前



勢いよく開け放たれた玄関ドアが開く時の、軋んだ音。
夜の静けさに爪を立てて引き裂くような耳障りな悲鳴にも似たその音と共に、錦山彰は夜中には相応しくない大声で帰宅したむねを宣言した。
「たらいまぁ!」
ドアを開けた張本人の錦山はおぼつかない千鳥足で、靴のまま狭い三和土たたきをふらふらと通り過ぎようとする。散々と汚れたアスファルトの上を歩いてきた靴底が床に触れる寸前で、錦山の背後にいた桐生一馬が襟首を捕まえてそれを阻止した。
「お前なぁ。俺んちに土足であがろうとすんな」
「へへへ。おれと桐生の仲だろぉが」
「なんにも関係ねぇだろ」
身体を支えてやりながら靴を脱げと言うと、錦山は足だけを使って履いていた革靴を脱ぎ捨てた。手が使えない桐生も同じようにしてから室内へと上がる。
後ろから腰のあたりに抱きついてくる錦山を半ば引きずりながら、玄関のすぐ真横にある流し台に立つ。洗って伏せてあるガラスコップを手に取って水を汲んだは良いが、飲ませるには背中に張り付いている錦山をどうにか剥がさなければいけない。首を捻って錦山を振り返る。がっちりと腰に抱きつく姿は何かに似ている。少し考えて、ああ木の幹にしがみつく蝉だ、と桐生は思った。
「錦。水飲め」
「いらね」
にべもなく断られたが錦山をこのままにはしておけない。今日は彼の誕生日だから、と羽目を外すのを大目にみていたが後十五分もすれば明日になる。好き勝手を許してやれるのもそこまでだ。
桐生は仕方なしに水の入ったコップを持ったまま、再び錦山を引きずって居間へ入る。卓袱台ちゃぶだいにそれを置いて、悩む。
「座れねぇ。いい加減に離れろ」
「じゃあ、こうすりゃいいだろ」
言うなり錦山が覆い被さってくる。畳に膝をついていた桐生は、突然の重みを受け止めきれず錦山の下敷きになった。
この酔っ払いが。さすがに苛ついて頭を拳骨で殴ってやりたい衝動に駆られるが、酔った錦山はいつも以上にうるさくなるから止めておいた。ここが錦山の住まいならどうなろうと構わないが残念ながら自宅である。騒げば大家から文句を言われてしまう。以前も一度注意を受けた事があるし最悪出ていけと言われたら。
「錦、重たい」
それだけを言う。どいてくれ、と言ってもどうせ聞かないのだし要求を伝えるのは諦めた。
やけに大人しくなった錦山の様子が気になる。でも動けない。まさか、このまま寝るつもりでいるのだろうか。桐生は不安になって無理くりに首を曲げて錦山の様子を探ろうとしたが難しかった。体重を比べたら桐生よりは幾分か軽いといっても錦山も鍛えられた身体の持ち主だ。完全に力を抜かれたら、それこそ背中に漬物石を載せられるのと変わらない。
どうにかしなければと思っていると。
「なぁ桐生。プレゼントくれよ。お前からもらってねぇし」
まだ起きていた。桐生は安堵しながら「セレナの飲み代払ってやっただろうが」と返した。
誕生日を祝ってやりたい気持ちはあっても錦山に何をあげたら良いのかわからなかった。要領良くやっている錦山は兄貴達に可愛がられているから高級品を譲ってもらう事も多い。大抵の物は持っている。一応プレゼント探しに街の店をいくつか覗いては見たものの、錦山が気に入りそうな物には手が届きそうもなかった。だから錦山にも奢るからそれでプレゼント代わりにさせてくれ、と伝えたのだけど。
しょうがねぇなぁ、と言った癖に。桐生が不満を顔に浮かべても錦山は気にした様子もなく催促をしてくる。しつこく言われても飴玉の一つすら持ってはいない桐生だ。この部屋にある中でプレゼントになりそうな物も、買い貯めてあるカップ麺か未開封の酒瓶くらいだった。
「聞いてんのかよぉ」
錦山が頭のてっぺんを顎で押さえてくる。聞いてはいる。答えられないだけだ。
「……とりあえずどいてくれ。こんな状態じゃプレゼントどころの話じゃねぇ」
それもそうだな、と思ったかどうかは定かではないが、ともかく自由は再び桐生の下に戻ってきた。
錦山の所為で妙に痛む身体をのっそりと起き上がらせる。桐生がささくれの目立つ畳から離れて胡坐あぐらをかいた時、錦山はいらないと突っぱねた水を飲んでいた。これだから酔っ払いはと思いながら錦山が水を飲み干すのを待つ。半分ほどを飲んだところで、ぴたりと動きが止まった。酔いどれ特有の据わった目で錦山がこちらを見てくる。
「のみたいなら言えって」
「俺はいい。酔ってねぇから」
「えんりょすんなよ、桐生」
「だから、いらねえって」
「お前はむかしっから素直じゃねぇよなぁ」
へらり、と笑って錦山はガラスコップの中身を呷った。かと思えば急に胸倉を掴まれて引き寄せられる。今日は予測のつかない錦山の行動に振り回されてばかりだ。うんざりとしながら文句を言う為に口を開く。
「錦、お前な……」
出かかった言葉が冷たくて柔らかい感触に阻まれ、桐生は目を瞬かせた。何が起きたのだろうと呆然とする。冷たさがぬるい温度になって、唇の隙間を割って入ってきた熱を帯びた塊が口内を探るように動き回る。それが錦山の舌だと気がつくのと、驚いて桐生が彼を突き飛ばすのは、ほとんど同時の出来事だった。
「な……ッ、に、錦っ!」
「んだよぉ、礼くらい言えっての」
「はぁ?礼って」
水飲ませてやっただろ、と錦山が言う。どうやら親切心からの行いだったらしい。けれど渡されるはずだった水はすでに錦山が飲み込んでしまっていたから、あれはただのディープキスだ。一体どうやって思考を繋げたら口移しで水を飲ませてやろうという発想に至るのか、桐生にはまるで理解ができない。何考えてんだと思い、何も考えてないのかと思い直した。アルコールに支配されている状態の錦山にまともな行動を求める方が間違っているのかもしれない。
諦めの境地のいただきに達した桐生は重たい溜息を吐き出した。にも関わらず、錦山はまたも唇を重ねようとする。
「……お前でいいや」
「どういう意味だ」
「プレゼント、桐生がいい」
お前が欲しい、と続けられて返事に惑う。酔っ払いの戯言たわごとにしては真剣さが垣間見えて、性質たちの悪い冗談だと笑い飛ばすのも躊躇ためらわれた。
まとまらない言葉を頭の中でこねくり回す間も無く。再び触れ合った唇と吐息の熱さに眩みそうになる。
――本気で欲しいなら、くれてやってもいいか。
そう思う。自分でも不思議なほどに、あっさりと錦山を受け入れていた。
錦山が自分に対してそういった気持ちをずっと抱いていたのか、それとも酔って正常な判断ができていないだけなのか。そのどちらであろうと、血は繋がらなくとも兄弟以上の絆で結ばれた錦山になら。
きっと後悔はしないはずだ。錦山と過ごしてきたこれまでに間違った選択も山ほどしてきた。けれど悔やんだ事など一度もなかったし、その度に二人で乗り越えてきたのだから、大丈夫だと桐生は自分自身に言い聞かせた。とは言え、男も女も相手にした経験の無い桐生である。胸にくすぶるかすかな不安を押さえつける為に、
「優しくしろよ」
と言って口の端を上げて笑った。
錦山が言う事を聞かない指先で服のぼたんを外そうとする間、ふと視界に入った壁掛け時計の時刻を読む。ちょうど時計の長針が三分を指したところだった。もう誕生日は終わってるじゃないか、と思いながらも、どうでもいいかと桐生は目を閉じた。



朝。錦山のうるさい声で桐生は目を覚ました。
自分の置かれた状況が一から十まで丸ごとわからない錦山は、あたふたとして騒いで呻いて忙しい。あれだけ飲んでいたし二日酔いも当然だ、と桐生は欠伸をしながら隣の騒がしい錦山を眠たい目で見る。
「お、おい桐生。どういう事だよ、これ」
「……どうもこうも。見たままだ」
薄い毛布の下は二人揃って丸裸で、風呂も入らずに寝てしまった身体には昨晩の痕跡。桐生に至っては首筋から始まり、あらゆる場所に歯形とキスマークの跡がある。これだけの証拠が揃っていては錦山も認めざるを得ないのだろう「マジかよ……」と呟き、頭を抱えて黙ってしまった。
「言っておくが、お前から言い出したんだからな」
「俺が覚えてないからって適当言ってんじゃねぇだろうな」
「疑うんだったら昨日のお前の台詞ぜんぶ言ってやるぜ?」
「いや、いい。やめてくれ。頼む」
本当に覚えていないらしい。いくら酒に飲まれていたとはいえ、散々好き勝手にやっておいてよくぞ忘れられるものだと呆れてしまう。
桐生は鈍く痛む腰のあたりを押さえながら、よいせと身体を起こした。周りに散らばった派手に脱ぎ散らかした服を集めて錦山へと投げる。反射的に受け取った錦山はこの世の終わりみたいな顔をして、のそのそとシャツを羽織り始めた。
「……そりゃ、怒ってるよな」
俯きながら釦を止める錦山は、桐生が服を投げた意味を出て行けと解釈したようだった。
思い込みの激しいところがある錦山だ。彼の中では桐生はこれからもう二度と笑ってはくれないし、夜の街で一緒に飲み明かしてもくれない失われた相棒になってしまっているのだろう。
そんな錦山の沈んだ後ろ頭を桐生は平手でべちん、と叩いた。その中身がアルコールの爪痕に悲鳴をあげているのを理解した上で。
「怒ってたらとっくに殴り飛ばしてるぜ」
シャツに腕を通しながら、両手で頭を押さえて痛みに悶えている錦山に言ってやる。長い付き合いなんだから、それくらい分かれとも思う。
「今の時間なら誰もいねぇから早く銭湯行くぞ。ったく、こんなにしやがって。明日から早起きするハメになったんだ。銭湯代お前持ちだからな」
ぶつくさ言って毛布から這い出る。カーテンを開けたままの窓から差し込む眩しい朝日に背を向けるようにして、すっかりしわの刻み込まれたスラックスを履く。その背中に指先が触れた。
「桐生」
「なんだよ」
「……好きだぜ」
順番が逆じゃないのか、と言ってやるつもりでいた桐生だけれど、言えばまた錦山が落ち込んでしまう気がして言葉を飲み込んだ。
知ってる、と素っ気なさ過ぎる返事だけをした桐生を錦山が後ろから抱きすくめる。どこか遠慮がちにも思える仕草なのに、力強くて離れそうにもなかった。
「早く着替えろよ、錦」
錦山は答えずに、ただ桐生の肩口に額を当ててじっとしていた。こうしている内に時間は過ぎてしまうのにと思いながらも、顔を上げた錦山があまりに嬉しそうに幸せを噛み締めた表情をしているから何も言えなくなってしまった。
あと少しだけこのままでいてやるか、と桐生は淡く笑った。背中に感じる温もりがいつもと同じようで違うのは、気の所為などではないのだろう。



(了)
2/3ページ
    スキ