錦桐


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隠し味




狭いアパートの狭苦しい台所にリズミカルな音が響いている。とんとん、と一定の間隔で刻まれる優しい音色に耳を傾けていた錦山彰は、居間で寝転びながら台所に立つ桐生の背中を眺めて感慨深さに浸っていた。
半年前、桐生はまともに包丁も扱えなかった。何を切らせても歪だし、切り方だって雑そのもので、人参なんか斬首刑に処されたみたいだったのにな、と思い出して笑う。それが今では一人で台所に立って下拵えをできるまでになった。
あまりに酷すぎてどうにもならないと匙を投げかけた時期もあったけれど、根気よく教え続ければなんとかなるもんだな、えらいぞ俺。と桐生よりも自分自身の努力を錦山は褒め称えた。
錦山が桐生から料理を教えてくれと頼まれたのは半年前の事だった。恋人の真島にいつか料理を振る舞いたいから、という甘酸っぱい理由から始まった錦山の指導もそろそろ終わりが見えてきた。桐生はまだ炒め物や鍋物くらいしか作れないから料理のレベルとしては低いだろうが、マイナスからスタートしたのだから上出来の部類だと錦山は思う。
そんな事を考えていると振り向いた桐生が味を見てくれと錦山を呼んだ。よいせ、と立ち上がって台所へと向かう。
「塩と砂糖、間違えてねぇだろうな」
ガスコンロの前に立っている桐生が小皿を差し出す。受け取ってそう言ってやると、桐生は面白くない冗談だ、とでも言いたげに眉をひそめた。けれど、実際に過去に間違えた事があるんだから言いたくもなる。でも今さらそんな凡ミスはしないだろうと錦山は小皿の縁に口をつけた。
「どうだ?薄いか?」
「いや、ちょうど良いぜ。俺の好きな味だ」
「真島さん、喜んでくれっかな」
はにかんだ顔でそう言った後、お前も一緒に食ってけよ、と桐生は続けた。
「馬鹿野郎。俺がそんな野暮に見えるかよ。人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまうんだ。帰るに決まってんだろ」
「じゃあ、今度、飯でも奢らせてくれ。お前のおかげで料理できるようになったんだしな」
「だから良いって。俺とお前の仲なんだからよ。もう真島さん来るんだろ?帰るわ」
わかった、と返事をして桐生がガスコンロの火を止めて土鍋に蓋をする。その手慣れてきた一連の動作を確認した後、
「真島さんには俺から教わったなんて余計なこと言うなよ」
と釘を刺して玄関を出た。
鉄骨階段を降りきってアパートの斜向かいにある駐車場へと足を向ける。猫一匹すら通らない静かな住宅街の道路を横切ろうとした錦山は、ちょうど駐車場に滑り込んできた一台の車を目にしてその場に止まった。
車のドアが閉まる音がして、しばらく。桐生への手土産だろうケーキボックスを手にした真島が錦山の視界に映る。狂犬の二つ名を持つ男も桐生の前では良い彼氏で居たいらしい。
真島が道路を渡ってくる。途中でこちらに気がついた素振りを見せて、すぐに道端の空き缶を見つけた時のように興味を失った顔をした真島の露骨さは嫌いじゃない。そういう態度はいっそ清々しくて錦山からすると好ましくすらある。錦山も真島には良い印象を抱いていないし、桐生を取られた悔しさもあるから、敵意と呼ぶ程でもない薄らとした仄暗い感情をぶつけやすくて助かっていた。
「お疲れ様です、真島さん」
おう、とだけ言って真島が側を通り過ぎようとする。
「あいつ頑張って飯作ってましたよ」
鉄骨階段の音が一度だけ鳴った。一段目に足をかけたまま止まった真島が「桐生ちゃんが……俺にか?」と毒気の抜けた表情で錦山に聞いた。
「他に誰がいるんですか。真島さん喜んでくれるかって不安がってたんで、安心させてやってくださいよ」
「桐生ちゃん料理できたんか?」
「みたいですね。俺もあいつが料理してるところ初めて見ましたよ。しっかし、あの不器用が料理なんて……真島さん、愛されてんですね」
まぁな、と上機嫌そうな声色の返事をして真島は階段の二段目を踏む。そのまま上って行く。錦山が派手な蛇柄ジャケットの背中を見送っていると、あっ、と何事かを思い出したかのように真島が声を上げた。
「お前、桐生ちゃんの飯食うてへんやろな!」
二階の手摺りから身を乗り出して叫ぶ真島に、食ってません、と同じだけの声量で返す。そのやり取りが薄いアパートの壁を突き抜けたのか、真島が呼び鈴を押す前に桐生が玄関扉を開けた。
それを見た錦山は、恋人達の甘い時間を邪魔してはならないと、足早にアパートから離れて駐車場へと急いだ。
車に乗り込む前に扉の閉じられた桐生の部屋を振り返って、笑う。
桐生は知らない。錦山の好みの味を覚えてしまった事を。
真島は知らない。恋人の手料理が他の男の手で教えられたものだという事を。
いつか錦山が教えた味は作り変えられてしまうだろう。けれど、それでも。今この時だけは。自分が桐生を独り占めしたような奇妙な多幸感で錦山の胸は一杯だった。
「ははっ、ざまぁみろってんだ」
さてラーメンでも食って帰るかな、と錦山は車に乗り込み行き先を頭の中で考えた。行きつけの中華料理か。どこでも、何でもいい。口の中に残る未練たらしい味を消してくれるなら、なんだって。
駐車場から出て街の中心部に向かって車を走らせた。バックミラーに映る桐生のアパートが小さくなって、見えなくなる。
錦山の腹はちっとも減らない。なのに、心ばかりがすり減って、満たしてくれと泣いてうるさい。



(了)
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