第1話

虹に憧憬を抱いたことがある。

幼い頃、母の腕に抱かれて見上げた、雨上がりの空。
そこにかかる七色の橋は、まるで楽園への入り口に思えたんだ。


たとえそれが、水と空気による自然現象に過ぎないとしても。


そこに存在しない幻影に過ぎないとしても。


それを愛しく想った自分が、確かにいた。








「――投降せよ。」

その声は、静寂の中にひどく無慈悲に響いた。

「投降せよ。貴様らの指導者は既に討ち取った。勝機はない。」


屈強な体躯の戦士達は、一瞬その場に凍りついたが、見る間にその顔は怒りに染まり、爆発した。


ああ、結局こうなるのだ。


「おのれ覇王!この人妖めが!!!」

雄々しくも剣を振りかざしてきた男の体は、覇王の右手が弧を描いた次の瞬間細切れになり四散した。

べしゃり、と壁と覇王の鎧とに鮮血が散る。

仲間の凄惨な死に呆然としている戦士達を尻目に、覇王は血に染まった剣を鞘に納めた。


「……貴様らは、どうする。」


小さなくぐもった悲鳴の後、戦士達の手から次々に武器が落とされる。



勝敗は決したのだ。




『お見事でございました皇子。陛下もお喜びでしたよ。』

戦艦に戻り、鎧にこびりついた血を拭おうと苦心していると、穏やかな声と共に彼の精霊が現れた。
銀と紺の髪に橙と碧の瞳。
右側にのみ存在する乳房。

雌雄を合わせもつ人工精霊、ユベルである。

ユベルは指の一振りで鎧の汚れを落としてみせた。
まったく便利な力だ。


覇王は無言で鎧を受け取ると、ユベルに背を向ける。
ユベルは慌てて覇王を追った。

『お疲れでしょう?すぐに湯殿の準備を…』
「必要ない。」

遮るような覇王の声に、ユベルは立ち尽くしす。


漆黒のマントを翻えして去っていく覇王の後ろ姿を、ユベルは寂しげに見ていた。




左右に並んだ鉄格子のひとつの隙間から、覇王は異形達の姿を臆することなく覗きこんだ。

そこにいたのは双頭の人間だった。
禍々しい鉤爪の腕が、付け根から二又に別れている。


生物兵器。


皇帝が何世代にも渡って守ってきた、この国の機密。

「国を守るためにはより強い力が必要になる…。
こうして新兵器の開発に尽力せねば、お前達にも負担がかかるだろう。」

無感動にそう言い放った世界王の唇が、僅かに震えているのを、覇王は見逃さなかった。


父はいつもこうだ。

口では綺麗事を言っておきながら、その理想を実現させる為に何かを犠牲にする。


覇王を守るという名目で、彼の幼馴染を―ユベルを改造したように。

あの改造実験も、今思えばデータ収集の一環だったに違いない。

罪悪感の篭った視線で「人だったもの」見る世界王に覇王は凍てついた視線を送った。



「…話が逸れたな。お前に見せたい物がある。これからお前に管理してもらうことになる魔物だ。」

「管理…と言いますと?」

「潜在能力は非常に高い。そのうち軍に引き渡すことになるだろう。今から手懐けておけ。」



施設の最深部には巨大な扉があった。

幾重にも厳重にロックされた扉の前に二人は立つと、ついてきた科学者がカードを差し込む。

地響きを立てながら、扉は上がっていく。


その向こうに現れたものに、覇王は言葉を失った。


青空。砂浜。無数の木々。そして、大海原。


城の中、しかも地下には、絶対にありえないシャングリラだ。


「これは…」

風がふき、覇王の頬を撫でていく。
わずかだが当惑を見せる覇王に対して、世界王は落ち着いたものだった。



「気温、酸素、水…すべて人の手で調節している。外界の環境に近くしないと、すぐに体調を崩すからな――レインボードラゴンは。」


「レインボードラゴン?」


それは覇王――いや古代から現代にかけて、帝国の人々に語られている伝説の魔物の名だった。


レインボードラゴンはその名の通り、種族で分類すれば一般的な竜に過ぎない。

だが彼らは竜の変種として生を受けたため、その遺伝子はある一族にのみ受け継がれていて、非常に数の少ない魔物だった。

巨大な二対の翼と、純白の体。
そして胴に鏤められた神秘の力を持つ、七つの宝玉。


そして、全てを掻き消す光の力。


闇に属する帝国と、光に属するレインボードラゴン――二つの勢力はいつの時代も相容れることがなかった。

ある時は闇が光を飲み込み、またある時は光が闇を焼き。



そんな不毛な争いに終止符を打ったのは、レインボードラゴンの方だった。

数少ない一族と一部の魔物達を引き連れて西方に逃れた彼らは、そこに都市を立てて住み着いた。

その名をレインボールインという。


こうして二百年の時が流れた。


状況が再び動いたのは今から5年前のことだった。

強大な戦力と科学力を保有した帝国が、レインボールインに攻め込んだのだ。

その時既に、残っていたレインボードラゴンはたったの二匹しかいなかった。

流行していた伝染病で疲弊していたレインボールインはいとも容易く帝国の手に堕ち、統治者であったレインボードラゴン達は帝国軍によって討伐されたとされていた――表向きには。

実際殺されたのは王であったレインボードラゴン一匹で、残りの一匹は秘密裏に帝国が捕獲し、現在まで捕虜として幽閉していた。



その伝説の竜が、ここにいるというのか。


「ここから先はお前一人で行ってくるがいい。「案内役」を先に送っておいたから迷いはしないだろう。」


それだけ言うと、世界王は踵を返した。


「ひとつお聞きしたいことが。」

覇王は世界王を呼び止める。

「なんだ。」

世界王はあらかじめ呼び止められることを予期していたような様子で、振り返った。


当然だろう。
父とて、内密に自分を兵器と会わせるこの行為が、どんな波紋を呼ぶのかわからないわけではあるまい。

「兄上にはなんと言ってあるのです。
そもそもレインボードラゴンは兄上の戦利品でしょう。」

世界王は全くの無表情で、何を考えているのか表情からは伺うことはできない。

しばらく親子は見つめあったが、やがて世界王の方から目を逸らした。


「あれに戦は向かん。いざと言う時はお前に出てもらおうことになる。」

「…そうですね。」



汚れ仕事は昔から自分の役目なのだ。
聞かなくともわかりきっているはずだったのに。


やがて覇王一人を残して、重々しい音をたてて扉が閉じられた。






覇王は空を見上げる。

空の青さは普段見ているものと遜色のないものだったし、雲が動いていく様子まで忠実だ。

だがよくよく見てみれば、設置された太陽は、無駄に眩しく、陽光を感じられる物ではない。

潮風もやはり機械的に造られたものに過ぎず、独特の香りもなく単調に流れているだけである。

浜辺は確かに地上のものによく似ていたが、本物の美しさには適わない。

所詮、自然のものを人が作れるはずがなかった。
人の手が加わった時点で、それは人工に過ぎないのだ。


そこまで考えて、自分は何をむきなっているのだろう、と覇王は不愉快になった。
粗探しをするなどみっともない。

それに、今はこんなことをしている場合ではない。
「案内役」とやらがどこにいるのか、現時点では皆目検討がつかなかった。






大きな毛糸玉のようだと、覇王は思った。

全体が栗色の体毛で覆われ、鉤爪のついた手足が突き出ていたが、大した鋭さもなく害にはならない。

背から二対の純白の翼を生やし、円らな瞳を瞬かせながら近寄ってくる。


それはいかにも愛らしい様子だったが、覇王の心は全くといっていいほど動かされなかった。

見たことのない種類だが、大方森に生息する低級の魔物だろう。

覇王は既に興味を失い、蔓を離して再び森を詮索し始めた。

しかし馴れ馴れしくも、その魔物は後をついてきた。

頬を擦り寄せようとしてきたり、ぐるぐると覇王の周囲を旋回したり、鬱陶しいことこの上ない。

ひたすら無視を決めこんで、森の更に奥深くに足を踏み入れようとした時。


「ッ!!?」


強く襟首を引かれ、覇王の体は逆方向に反れた。

「貴様っ…。」

首に鈍い痛みを覚えながら、覇王は襟首を掴んだ魔物を睨みつけた。
魔物は怯えたように瞳を震わせたが、力を緩めることなく、そのままぐいぐいと引っ張っる。

よくわからないが、そこから先へは行くなと言っているようだった。


「…お前、レインボードラゴンがどこにいるかわかるか?」


人語を解するだけの知能があるかわからなかったが、なんとその魔物は大きく頷いてみせた。

そのままこっちだと言わんばかりに覇王の前を飛び始める。
少し先を飛んでは、覇王が追いつくまで待っている。

この魔物を信じたのはほんの気まぐれだったが、このまま一人で突き進んでも、一向に進展はなさそうだった。

「案内役」などいなくとも、この魔物について行って、レインボードラゴンを見つけらるなら、それでいいではないか。
万が一、妙な真似をすればすぐに斬り捨てればいいだけの話。

眼前に生えた茂みを斬りながら、魔物の背を追いかけた。


覇王は幼い頃から海が好きだった。

その中でも、城の丁度裏側に面した場所に、人の滅多に来ない小さな入江があり、実は幼い頃、そこでレインボードラゴンを見たことがある。

といっても真近で見たわけではないし、遠くから見かけた程度だったから、本当にレインボードラゴンだったかどうかは定かではないのだが。

雨上がりの空、そこに浮かんだ虹と戯れる純白の竜の姿に目を奪われた。

竜が光の差し込む雲間に消えていくまで、こっそり岩影から見続けた。

10年近く経った今でも忘れられない、ひどく印象的な記憶だ。





魔物に連れられて森を抜けると、小さな入り江に出た。

それはかつて竜を見たあの入江に酷似していた。

しかしそこには「案内役」の姿もなければ、レインボードラゴンの姿もない。


深く溜息をついて魔物を睨んだが、魔物はそんな彼の視線もどこ吹く風で、海面に浮かぶ自身の姿を見ている。

怒っても仕方がない。

「案内役」も探さずに、こんな信用のおけない魔物の後をついて行ってみようと決めたのは自分だったのだから、自業自得とも言える。

それにしても「案内役」はどこへ行ったのだろう。
これでは職務怠慢ではないか。


しかし、疲れた。
ずいぶんと無駄に体力を消費してしまったらしい。

覇王は魔物の隣に腰を下ろした。

目の前に広がる風景は細かいところを覗けば、本当に覇王の知る入江に良く似ていた。

時折小さな波が押し寄せては、覇王の軍靴の先を濡らしていく。


これで――鴎の声が聞こえれば、もっとあの入江に近づくのに。
思えばここ最近は忙しく、こうして海でゆっくりすることもできない。


なめらかな曲線を描く水平線を眺めて、覇王は頬杖を突いた。


ふと靴の先がちょんちょんと弄られていることに気付いた。
まったく騒がしいやつだと思いながら目線を下にやり――目を疑った。

覇王の靴の先を弄っていたのは、さっきとは別の生物だった。
羽のある魔物は、物珍しそうにその生物を羽でつついている。


「リス…?」


覇王の足元でじゃれる生き物はリスによく似ていたが、額にはまった紅玉や大きな耳は、それが一介の動物とは違う、魔力を持った異形のものであることを示している。

こんな小動物の接近にも気付かない程、自分はぼっとしていたのだろうかと、覇王は思わず苦笑する。


「おーいルビー!こんなとこにいたのか!」


ふいに覇王の耳朶を打ったのは、軽やかなメゾ・ソプラノ。
それと同時に、小柄な姿が入江の向こうから現れる。

途端に紫の獣は声の主に飛びつき、一気に肩まで昇りつめる。



顔を上げた覇王の目に映ったのは、ひとりの少女だった。



大空と大海を連想させる青色の髪。
年の頃は覇王と同じくらいか、大きな翡翠の瞳は人懐こそうな光を称えている。


こんなところに自分以外にも人がいるとは…そこまで考えて、覇王は気付いた。

この少女が「案内役」だ!


「珍しいな…こんなところにお客さんなんて。それってハネクリボー?」

指差された先にいたのは、あの翼のある獣だった。

「ハネクリボー?」

「そいつの名前さ。羽の生えたクリボー。だからハネクリボーだ!」

そもそもクリボーなる生物を知らない覇王にとってはいまいちピンとこない話だった。



「そこの女、」

「私のことか?」

他に誰がいるというのか。

「お前がここの案内役なのだろう?
俺をレインボー・ドラゴンのところに連れていけ。」

「えぇ?案内役?」


覇王の言葉に、少女は片手でルビーとかいう生き物をあやしながら、まじまじと覇王を見つめた。

不躾とも言える行為だったが、自然と腹が立たなかったのは、その大きな瞳が驚くほどに澄んでいたからだろうか。

「まあ、そう言われればそうかな。長く住んでるし…って、ああ!」

「…おい?」

何やらぶつくさ呟いていたと思ったら、ふいに少女は手を打った。
何かが合点がいったのか、にっこりと微笑む。

「ハネクリボーが一緒にいるってことは…それじゃあ、君が『覇王』?」

「そうだが。」

「やっぱりか!あはは、思ってたより人相悪いな!」

「…。」

変わった少女だ。
皇族を前にしても物怖じせず、ざっくばらんな態度を崩さない。
覇王を前にしても、恐れる気配はない。

こんな風に人と会話したのは久しぶりだった。

少女は掌を差し出してきたが、覇王は応じない。

「よろしく!」

にこにこしながら勝手に手をとり、ぶんぶんと大きく振る。

本当に怖いもの知らずだ。


「レインボードラゴンに会いたいんだったな。じゃあついて来いよ。」

少女は海にそってすたすたと歩き始めた。
覇王も無言で後を追う。

すると、どうしたのだろう。
しばらくして少女は突然立ち止まった。




「…なんちって。」


「は?」

振り返ると、悪戯っぽい笑顔を浮かべた少女はぺろりと舌を出した。


「う~ん、いつになったら気付くかなあって思ってたのに。君、意外と鈍いんだな。」

「何を言って……!?」


言いかけて覇王ははっと身構えた。
何故今まで気付かなかったのだろう。


この少女の醸し出す気配は人のそれと大きく異なっていた――かと言って、ユベルの闇とも違えば、ハネクリボーのような円いものでもない。

もっと別の、得体の知れない何か。




「…お前は何者だ?」


それとなく腰の剣に指を這わせながら、覇王は問うた。

少女は変わらず笑みを浮かべていて、一見するとただの人間に見える。

つかつかと少女は覇王に歩み寄った。


「ごめん、騙すつもりじゃなかったんだけど…。なんか案内役と勘違いされてるみたいだったから。」

「止まれ。何者かと聞いている。」

険しい表情の覇王に、少女は呆れたように肩を竦める。

しかしそれもほんの少しのことで、すぐにもとの笑顔に戻った。





「そのレインボー・ドラゴンってのは、私なんだ。」






今度は覇王がまじまじと少女を見つめる番だった。

「…レインボー・ドラゴンの体長は10mはあるはずだ。」

「さぁ。測ったことはないけど、それくらいあったかもな。」

「四枚翼と七つの宝玉はどうした。」

「人間の女の子にそんなものついてたらアンバランスだろ。」


少女は――究極宝玉神の二つ名を持つ竜は、無邪気に首を傾げてみせた。

彼女が闇に属する自分達と相反する光の元に産まれた伝説の竜。

戦争を終結に導く最終兵器。
にわかには信じがたい話だった。

しかし、そうすると彼女の持つ謎めいた気配の説明がつかない。


「ならば証拠はあるのか。」

「証拠?」

「決まっている。竜の姿を見せろ。」


少女はうーん、と顎に人差し指をあてて思案する。

「それは無理だね。」

「…なんだと?」

「だから無理なんだって。」

ルビーと顔を見合わせて、くすくすと笑った。

「私がレインボードラゴンだってのは嘘じゃない。だけどごめんな。竜の姿には戻れないんだ…代わりと言っちゃ何だけど、」

少女は両の掌を合わせる。
すると、その隙間から小さな光の粒が零れ始める。

それは赤や青や緑…七色に光ながら覇王と少女の足元に落ちていく。

少女が光を束ねて空高く投げると、それは小さな虹になり、片端に覇王、もう片端に少女がくる形で空中に留まる。

しばらく瞬いていた虹はやがて薄れていき、ついには大気に溶けていった。


「綺麗だろ?私、得意なんだ。」

少女の声に、ようやく覇王は我に返った。
視線を戻せば、片目を瞑ってみせた少女の顔が目に入ってくる。


「…確かに人ではないな。」

敢えて無感動に言い放つ。
少女がやってみせたことは、噂に聞いていたほど神秘的ではなかったが、決して人にはできない芸当だった。

少女がレインボードラゴンと認めてもいい。
だが。

「何故竜になれないんだ?そっちが本来の姿だろう。」

「しょうがないだろー。ここに来てから急に戻れなくなちゃったんだから。私が知りたいくらいだ。」

少女は子供っぽく頬を膨らませた。


覇王は困惑する。

いくら凄まじい能力を秘めていようと、説得力にかけた。

それに、世界王はこんな少女を戦場に出すつもりだったのだろうか?



「王様が昨日ここに来てさ。明日息子を連れて来るからよろしくって言ったんだ。で、その姿だと絶対信じないだろうから、なんでもいいから魔法を見せてやってくれ…って。」

あらかじめ言っておいてくれれば、こんなに苦労もしなかったし、驚きもしなかったのに。

がっくりと脱力しかけた覇王だったが、ふと重要なことを思い出した。


「お前、案内役に会わなかったか?ここのどこかにいると聞いたのだが。」

少女は呆気に取られたような顔をした。


「え…気付いてない、のか?もしかして…」

何を言っていると言い返そうとしたところを思いとどまり、覇王は少女の視線の先を負った。


そこにいたのは、


ハネクリボー。


「お前、だったわけか…。」

最早何が起こっても、何を言われても不思議ではない。
むしろこの短時間の間に覇王の常識は大分覆された。
自分はもう少し適応力を養うべきかもしれないと、本気で思った。


ハネクリボーは認められた嬉しさからか、覇王の頬に擦り寄った。
抵抗する気力もない覇王はされるがままになる。


「おお、仲良いいじゃないか。よかったよかった。」

その様子にひたすら能天気な少女が嬉しそうに手を叩く。
覇王は今日何度目になるかわからない溜息をついた。


「覇王っていくつなんだ?」

「…16だ。」

「私も。嬉しいな、同い年の友達なんてここに来て初めてできたよ。」


いつのまにか友達認定されてしまったことに一抹の疑問を感じながらも、真っ向から否定はしなかった。


「俺はもう行くぞ…お前もねぐらに帰れ、レインボードラゴン。」

覇王は呟くと、ハネクリボーを伴って、もと来た道を戻り始めた。


「あ、ちょっと待てよ!」


少女は覇王の目の前に回りこんだ。
その目には、どこか非難めいた色が浮かんでいる。

まだ何かあるのかと自分より頭ひとつ分は低い少女を見下ろすと、彼女はびっと人差し指を突き出した。


「そのレインボードラゴンって呼び辛くないか?長いしさ。」

「…別に。」

「そうか?でも私はよくないぞ。お前だって『人間』って種族でくくられて呼ばれたら、いい気はしないだろ?」


そういうものだろうか。
そもそも「覇王」は本名ではないから、この少女の気持ちがよくわからなかった。

しかし変わった魔物だ。
種族名でなく名前で呼ばれたいとは、まるで人のようではないか。




「ジョアン。」




少女の紅い唇が、異国の響きをもつ音を紡ぐ。

「私のことはジョアンって呼んでくれ。」



覇王の鳶色の瞳と、少女の翡翠が交差する。



覇王の心臓が不思議な音をたてて跳ね上がったかと思うと、鼓動がはやくなっていく。


それはやがて全身に広がって、彼を包み込んだ。


なんだ、これは?


感じたことのない事態に戸惑いながら、僅かに汗ばんだ掌を握り締める。


驚いた時のものとも違う。

戦場にいる時のものとも違う。


耐え切れなくなって、少女の瞳から目を逸らしたが、一向に納まる気配がない。


覇王は半ば逃げるように踵を返し、もと来た道を戻り始めた。



「覇王、それじゃ遠回りだぜ。」

その言葉に立ち止まって隣を飛ぶハネクリボー睨んだが、円らな瞳で見返された。


「…近道がわかるのか。」

「ああ。」


今戻ろうとしていた道がいかに歩き辛いかを、覇王は先ほど嫌と言うほど味わった。
二度もあんな目に合うのは御免被りたい。

すごすごと引き返してきた覇王は、少女の目を見ないように…そしてバツが悪そう口を開いた。


「近道を知っているなら、その…教えろ……………………………ジョアン。」


彼女は――ジョアンはとても嬉しそうに微笑み、頷く。



そしてまた一度、覇王の胸が音を立てた。






無事に施設に到着する頃には、覇王はすっかり疲れ果てていた。

「どうだった?」

用意された部屋で休んでいたら、世界王が入ってきて、開口一番にそう言った。
どうもこうもあるものか。


「…せめてジョアンが人の姿をとっていることくらいは、予め教えて頂きたかった。」

言いたいことは山ほどあったが、なんとか堪える。


「ジョアン?」

「あのレインボードラゴンのことです。」


わかりきったことを聞くな。
億劫そうに答えれば、世界王と彼についてきた科学者は顔を見合わせた。

「あれに名前があったというのか?」

「確かにそう名乗りましたが。」

世界王は唖然としていたが、やがて首を振った。

「あの竜が名乗ったことは一度もない…魔物に名前があるなど、初めて聞いた。」


覇王は、つい先程まで一緒にいたジョアンを思い浮かべた。

癖のある青い髪を振り振り、大きな翡翠の瞳を輝かせて笑っていた、天真爛漫な竜の少女。

人懐こいイメージがあっただけに意外だった。




世界王が立ち去ったあと、覇王は考えた。

何故、ジョアンに友達ができたと言われた時、否定しなかったのか。

それは彼女に、同い年の友達が欲しいと願った、幼い自分を重ねてしまったからかもしれない。

認めたくはなかったが。


「ジョアン、か。」

生まれて初めてできた同年の友人の笑顔を思い出して、覇王は小さく呟いた。


それから数日後――帝国首都より少し離れた飛行場に、一人の青年が降り立った。

前髪の一部分を白く脱色した長い紺の髪。紫水晶の瞳にどこか憂いの色を浮かべながら、青年は頭を巡らせる。

彼を警護する為に集められた数十人の兵士達。

その先頭に見知った顔を見つけると、青年の顔が明るくなった。


「エド!!エドモントじゃあないか!久しぶりだなぁ。」

「やぁ、久しぶり。」


駆け寄った青年と軽く握手をすると、兵士は銀髪を揺らして笑った。

「悪いね。姉のことを任せきりにしてしまって。」

「気にしなくていいさ。これも仕事のうちだ。」


今回派遣された銀髪の兵士――エドモント・スワルナ=パクシュは、18歳の若さにして帝国軍の少尉の任につき、また隊を一つ任されていた。
代々皇族御用達の画家や音楽家など、文官の多い彼の家系では、珍しい存在と言える。


「で?君が帰ってくるなんてよっぽどのことじゃないか。大方、御老人方に何か言われたんだろう?」

「ああ…実は。」


雑談しながら歩き出すと、再び青年の顔が曇る。


「また弟に関することなんだよ。」

「やれやれ、やっぱりか!まさか弟君が戦果を上げたから、君も戦に出ろと言われたんじゃなかろうね。」

「そうじゃないんだ…まぁここでは話せないな。」


二人が足を止めると、遠くから初老の男がやって来るのが見えた。

「…あ。そういえば僕、まだちゃんとした挨拶をしてなかった。」

「今更じゃないか。気にする必要はない。」

青年は、落ち込んだ素振りを見せるエドモントを慰めた。

「いや、ちゃんとやらなきゃ、僕の仕事に対するプライドが赦さない。」

「ではさっさと済ませておくれよ。相変わらず几帳面だな。」

「よし、」


エドモントは勇ましく軍靴を鳴らすと、青年に敬礼した。





「お帰りなさいませ。お迎えに上がりました…斎王様。」



to be continued
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