第5話

「……父上…。」




覇王は寝台に横たわる父を、静かに見下ろした。

点滴を打たれ、無数のコードを額につけられている世界王。
痛々しいことこの上なかったが、覇王の顔を曇らせたのはそれだけではない。


肌は青白く変色し、整えられていた黒髪は老人のように白くなっている。


屈強な体躯だった世界王は、一夜にして死人のようになってしまった。
その他に何か症状が出たわけでもなく、ただ体中が変色し、意識が戻らないだけ。

皇族付きの医者達に診断させたが、原因不明だと首を振るばかり。
一応感染病の可能性があるとして、覇王を含めた皇族達も検査をしたが、特に病原菌などは見つからなかった。


「父上は大丈夫なのかい?」

「どうかご心配なさらず。覇王様が先にいらしております。」


扉が開くと、側近に連れられて、斎王姉弟が入ってきた。
覇王と目が合うと、安心したように目元を和ませる。


「良かった…看ていてくれたんだね。父上の様子はどうだい?」

「眠っておいでです。」


いかにも覇王らしい簡潔な物言いだったが、
彼自身大分混乱していた為、正直兄達が来てくれてほっとしていた。

斎王は覇王の向かいに回ると、世界王の節くれだった手を握る。


「なんで、こんなこと。無事に建国記念日を迎えたばかりだというのに。」

「さぁ…。」


覇王は首を傾げるしかなかった。



「既に国民に報道したそうよ。正午からの会見で、お祖父様が詳しく説明すると仰ていました。」

皇女――斎王と覇王の姉が、眉根を寄せる。
斎王と覇王を交互に診ると、決意したように口を開いた。


「父上がこうなった以上、私達がしっかりするしかありません。家族みんなで力を合わせましょうね。」


家族、みんなで。


経験のない覇王にはよくわからなかったが、異論はない。
彼はその時、他の二人同様…純粋に父を心配する子供の一人だったのだ。



『皇子、これからの御予定なのですが…。』

控えめに顔を覗かせたのは、部屋の外で待っていたユベルだった。
覇王は皇子としての仕事の他に、軍人としての仕事があった。

気遣わしげに姉と兄を振り返る。


「私達がここにいますから。貴方は安心してお仕事に行ってらっしゃい。」

「…お願いします。」


深く一礼すると、覇王はその場を立ち去った。



『陛下の御容態は?』

「わからん。良いのか悪いのか。」

『そうですか…。』


覇王の隣を漂うユベルは俯いた。

ユベルは覇王の乳兄弟である為、幼い頃から世界王と面識があり、付き合いも長かった。
落ち込む気持ちはわかる。


『申し訳ありません。せっかく御姉弟でお話されていたのに。』

「構わない。」


長居しても何を話せばよいのかわからない。
それに、仕事は仕事だ。

帝国の君主が意識不明の重態。
おそらく既に国外にまで広まっているだろう。

帝国はその繁栄の裏で、多くの憎しみと妬みを買っている。
皇帝が倒れた混乱に生じて、攻めてくる輩がいないとも限らない。


そういえば。

かつてレインボールインで流行った伝染病は、感染者の体が黒く変色するという話だったが、何か関係があるのだろうか。

しかしあれは魔物や精霊にのみかかる病だったはず。
人間は感染しないはずだ。


「……まさかな。」


いずれにせよ、門外漢の自分がいくら考えても仕方のないことだ。


覇王は外で待っていた黒塗りの車に乗り込むと、これから向かう軍本部の会議資料を広げた。

しかし紙面に目線を向けたものの、内容は全くと言っていいほど頭に入ってこない。

集中しようと神経を研ぎ澄ませたが、無理だった。



――あいつも…。


ジョアンも、かつてこんな気分を味わったのだろうか。

病にかかった家族を想い、付き添い。
何か用があって傍を離れる時は、焦燥に胸を焦がしていたのだろうか。

脳裏に無邪気な笑顔が過ぎる。


無性に、彼女に会いたくなった。








「…賛成しかねます。」

「何も今すぐせよと言っているわけではない。ただ時期を早めて今年中にやれと言っているのだ。」

「早すぎると言ってるんです。あの子はまだ16歳…ほんの子供ですよ。」

「魔物と人間を同等に扱うなと言っているだろう!」


突然声を荒げられ、機械を操作していたレイがびくりと肩を震わせた。
対して怒鳴られた方のジェロームはどこ吹く風。
飄々としたものである。

彼とレイ、主にレインボードラゴンの生態に関する調整、実験を請け負う彼らには、配属される際にもうひとつ、重要な任務が与えられていた。


レインボードラゴンの繁殖実験だ。


当初の予定では2、3年後の予定だったが、今日突然、計画を早めるように言われたのだ。

当然許可することなどできない。
サンプルが身体的に未成熟であることもあったが…そもそも人間が他の生物の生態を弄るという行為に、ジェロームは賛同することができなかった。

例え上司の命令だとしても、だ。



「何をあんなに焦っているんでしょう、主任。」

会議に召集されたとかで出て行った上司の後姿を見、レイはぼやいた。


「大体、生態もよくわからないのに繁殖だなんて。調査にどれだけ時間がかかると思っているんでしょうね。」

「…実はもうほとんどわかっているんだよ。レインボードラゴンの繁殖法。」

「そうなんですか!?」


ジェロームはレイの隣に腰掛ける。


「彼らが突然変異種の竜だっていうのは知ってるだろ。通常、そういう遺伝子は受け継ぎにくいから、一代だけで消えてしまうものなんだけど。」


足元で蹲るカレンに微笑みを向けてから、ジェロームは話を続ける。


「ところが彼らは、少数だけど一族を増やしてきた。つまり遺伝子そのものが優性に変化したんだと思う。だから片親がレインボードラゴンなら、子供も同じになるんじゃないか…ってね。」

「成程…ってジョアンちゃんをどこの馬の骨とも知れない竜に、お嫁にやるつもりなんですか!?そんなのってないですよ!!」

「だから俺も反対してるんだよ。」


レイはここの研究員にしては珍しく、精霊に偏見がない。
ジョアンにも人一倍親身になって接している。
何か理由があるのかと聞いたら、幼い頃から精霊が身近な存在だった為だという。

自分やレイがいない間、魔物として、何よりサンプルとして、ジョアンはどのような扱いを受けてきたのだろう。


「Hey,boy.何をしてるんだい?」

「僕特製スタミナ弁当を作るんです!腹が立つから、今日のジョアンちゃんのお昼はとびきり豪華にするんですっ!で、全部経費で落としてやる!」

実に姑息だが平和的な復讐に、ジェロームは苦笑した。
大股で部屋を出て行くレイを見送ると、自分もジョアンの診察の準備を始める。

しかし、何故上層部は急にこんなことを言い出したのだろう。
つい先日まで、あと2、3年は待てることになっていたはずだ。


大量生産して軍備の強化を計りたいというのもあるのだろうが、帝国には既に最新鋭の兵器が多種揃い、開発されている。

そのうえレインボードラゴンの繁殖を急ぐ理由とはなんなのか。


カレンが取ってきてくれたテンガロンハットと白衣の組み合わせは、ミスマッチこの上なかったが、ジェロームは気にしない。

テンガロンハットを被ると、口笛を吹きながら、表面上はなんでもないというように振舞った。


「…カレン、ちょっと付き合ってくれるかい?」


若葉色の瞳が、鋭く光った。





人工の潮風に髪を弄らせながら、ジョアンはお気に入りの岩に座っていた。

普段元気よく輝かせている瞳に明らかな哀惜の色を宿し、海の遥か遠く…立体映像で造られた地平線を見つめている。


「…悲しいのか、ルビ―。」


膝の上で体を震わす精霊の背を優しく撫でる。
静かに諭すように、彼女は呟いた。




「皆、いつかは終わりが来るんだ。遅いか、早いかの…ただそれだけの違いだよ。」



それは涙を零すルビーに向けられたのか、はたまたジョアン自身に向けられたものだったか。

真実は彼女のみぞ知る。








「…別に会見を開けだと?」

「はい。殿下がご出席なされば、国民の不安も紛れるかと。」


軍事会議に出席した帰り、後援者の貴族から出た言葉に、覇王は耳を疑った。

正午の会見では、既に現宰相が担当することになっている。
それで充分ではないか。
他に何を説明しろというのだ。


「今後の御話です。陛下に、その、もしものことがありましたら、殿下に指揮を執って頂きたいと申す者がたくさんおりまして…。」

ようやく覇王は彼の――後援者達の言わんとしていることを理解した。


彼らは既に、次の玉座のことを考えているのだ。


自らの保身の為に。


斎王が皇帝となり、宰相一族が実権を握れば
、立場が危なくなるのは覇王を皇帝に推していた貴族達だ。
彼らとしては、なんとか斎王の戴冠を阻止したいらしい。


おかしな話ではないか。
父はまだ生きているというのに。


「貴公は陛下が助からぬと言いたいのか?」

「滅相もない!万が一の御話です。」


覇王の表情に剣呑な色が宿ったのを見て取ったのか、慌てて否定する。


「わかっておいででしょう、兄君の祖父君が殿下をどう思っているか…ここは国民の目があった方がよいかと…。」

結局同じではないか。


「気が進まん。」

「殿下!」

『おやめ下さい。』


言い募る男の前に、どこからともなくユベルが現れた。
覇王を庇うように立ちはだかると、異色の瞳を細める。


『皇子がやらないと言ったら、それでよいではありませんか。何かご不満でも?』

「無礼な!精霊風情は黙っていろ!」

『皇族に意見することの方が余程無礼なことだと、そうボクは思いますが。』


ユベルの言い分に、男は押し黙った。
碧く紅を引いた唇を歪め、ユベルは男を見据えた。


『主君はどちらです?そのことをお忘れなきよう。』



皆が皆幸せになれるわけじゃない。
どこかで誰かが犠牲になる必要がある。

だがそれを自ら受け入れる者などいない。
理性ではわかっていても、感情が受け入れることを許さない。

だから奪い合う、殺し合う。
自分が不幸にならない為に、誰かを不幸にする。

それに自分には国を発展させ、国民の暮らしを守る義務がある。
その為には冷酷にならなければならない。



そう思って、自分は何も知らない息子を利用した。




5年前のあの戦いに――。







意識が緩やかに浮上してきた。
まだ重い瞼をうっすらと開くと、白い天井が映った。

ここはどこだろう。


「………父上!?」


すぐ傍らで聞こえた声に視線を向けると、彼の子供達が、驚きと喜びの混じった顔で、こちらを見下ろしているのが見えた。


ああ、そうだ。
自分は倒れたのだ。



「よかったわ…!本当に…。」

「誰か!父上が意識を取り戻した!」


透明な膜に隔てられているようだと、世界王は思った。
握り締められた手のぬくもりも、人を呼ぶ声も、どこかぼんやりしてうまく捉えることができない。

それでも涙を零す子供達を慰めようと、骨ばった手を包む暖かい指先を、弱弱しく握り返した。





「失礼致します殿下!…覇王様!」


けたたましい音を立てて扉が開かれると、若い小姓が飛び込んできた。
一体何事かと、部屋にいた覇王達は固唾を飲んで見守る。


「たった今、陛下が意識を取り戻されたと連絡が入りました!」

「なんだと!?」


驚きの声を上げたのは覇王ではなく、帝国貴族の方だった。
ユベルの不快そうに歪められていた顔に安堵の色が浮かび、覇王は密かに息をつく。


「心配も杞憂だったようだ…今のところは。」




家族との思い出はほとんどない。
いつも忙しそうな父と、大人達に囲まれた兄、臆病な姉。

覇王は幼いながら、自分があまり周囲に歓迎されていないことに気付いていた。

大人達の使う難しい言葉や制度を理解することはできなかったが、どうやら自分の母が兄達とは別だというのが原因だということはわかった。

だから、普段からあまり彼らに声をかけないようにしていた。
自分と接すれば大人達から怒られるのは姉兄達だったし、責めらるのは父の方だから。

自分さえ関わらなければ、家族は何も気兼ねすることなく過ごせるに違いないと、幼い覇王は本気でそう思っていた。

寂しくてもユベルが一緒にいてくれた。
覇王にとってはユベルが家族だった。

どんなことがあっても、自分のことを一番よくわかっているのはユベルだと、そう信じていたから――子供の頃は。


世界王の病室の前で、覇王はドアノブにかけた指先をぴたりと止めた。
部屋の中から聞こえてくる声に、しばし耳を傾ける。
無事を喜ぶ姉兄達と、低いが穏やかな父の声。

生まれてから今日まで――長い年月をかけて形成されてきた「家族」の姿が、確かに見えた。


『皇子?』

背後に控えていたユベルが怪訝そうに話しかける。
覇王は無言でノブから手を離すと、踵を返した。


『皇子、どちらへ行かれるのです?』

「…他にやることがあった。」


うろたえた様子で駆けてくるユベルに、覇王は感情の篭らない調子で言い捨てる。
もちろん嘘だった。


『何を仰っているのです!父上がやっと、』

「悪いが一人にしてくれ。」


覇王は声を荒げたユベルを遮ると、そのまま立ち去った。



壊したくない。せっかく「家族」が揃っているのだ。

わからない。どうしたら自分も「家族」になれるのだろう。

どう接したら、どう輪の中に入って行けば、姉の言っていたような「家族」になれるのだろう。



今更自分が割って入っていって……本当にそこに自分の居場所はあるのか?



堂々巡りを繰り返す思考に、覇王は苛立つしかなかった。

「一命を取り留めたか…まったく冷や冷やさせる…。」

ジェロームは地下施設に向かいながら、小さく呟く。

「世界王が意識を取り戻した。」

その知らせは既に帝国全土に伝わっている。
だからといって、ジェロームは安心できなかった。
意識が戻ったと言っても、詳細を聞いてみれば、体調は安定しないままだったし、原因も不明のまま。

正直彼は、世界王に残されている時間はそう長くないと考えていた。


「……What?」

考え事をしながら歩いていた彼の視界に、ふと黒い影が映る。
よくよく見ればそれは影ではなく、漆黒の衣装に身を包んだ覇王だった。

何やら不審な動きを取っているので、なんとなく気になってしばらく観察することにした。

エレベーターのある方向に歩いていったかと思うと、すごすご戻ってくる。
かと思えば再びエレベーターに向かった…かと思ったらまた戻ってきて、溜息をつく。

何がしたいのかさっぱりわからなかったが、これではただの不審者だ。

耐えかねたジェロームは声をかけることにした。


「Excuse me…殿下?」

「!!!!…驚かすな。」


覇王は思いの他飛び上がり、きっと睨みつけてくる。

――あまりのリアクションに、驚いたのはジェロームの方だったのだが。


「こんなところで何をなさってるんです?施設に行きたいのであれば、お連れしますが。」

「いい。父上の断りも無しに行ったら、また周りの奴らが煩いからな。」


確かにそうかもしれない。
皇族というものには自由がないに等しい。
特に兄弟間の争いが激しい彼らにとって、ちょっとした行動が命取りになる可能性が大いにあった。

ジェロームが覇王くらいの頃は、カレンを連れて化石発掘だの、密林探検だの好き放題やっていた。

だがこの少年は、そういう楽しみも知らずに日々を過ごしている――大人の社会に、無理矢理放り込まれる形で。


「あいつは…。」

「What?」


小さく呟かれた言葉を聞き取れず、ジェロームは聞き返した。
覇王は酷い仏頂面のまま、もう一度繰り返す。

「あの『馬鹿女』はどうしている。」


『馬鹿女』…?

と疑問に思ったジェロームだったが、やがて思い当たってああ、と手を叩く。
彼がこんな乱暴な物言いをする相手は、一人しかいなかった。

『馬鹿女』とはなかなか酷いネーミングだが、前回の『純粋少年』に対する仕返しのつもりなのかもしれない。

「ジョアンなら、特に変わりはありませんよ。よく食べるし、よく遊びます。さっきもレイが振り回されてました。」

「あいつらしい…。」


覇王の目元が緩んだのを見て、ジェロームは目を見張った。
困ったような、だが慈しみの篭った…そんな表情。

彼のこんなに優しい顔を見るのは、初めてだった。


「…本当はジョアンに会いたかったんですね。」


尋ねると、覇王ははっと顔を引き締め、元の無愛想に戻ってしまった。


「相変わらず馬鹿なのかと、哀れんでやっただけだ!」

言い訳もほとんど聞かず、すっかり微笑ましい気分になったジェロームは、長身を屈めて覇王の目線に合わせてやる。


「何か、伝言は?良かったらお伝えしますよ。」

「伝言…。」


小さく繰り返すと、一生懸命に考えている。
腕を組み、首を捻り…数分悩んで、ようやく決まったようだ。


「ちゃんと部下の言うことを聞けハネクリボーをこき使うんじゃない迷惑かけるな人前で着替えるな俺に変なあだ名をつけるな野菜を」

「Stop!…メモを取っていいですか?」


普段の覇王からは想像もつかないほどの口数に、ジェロームは待ったをかけると、慌てて手帳を取り出した。








液状の薬をシリンジの中に注ぐと、注射筒を手前に軽く引く。
針が柔らかな肌を破り、血管にまでたどり着くと、先程引いた筒を再び押し戻す。

うっと、ジョアンが苦しそうに眉をしかめた。


「これでOK.しばらくこすらないようにね。」

「あ―……痛かった。」


消毒綿を当ててマッサージされながら、ジョアンは不機嫌そうにそっぽを向いてしまう。

「薬を体に入れるなら、飲み薬にすればいいじゃないか。なんでわざわざ痛い方法を取るんだよ!」

「はは、そうかもしれないね。でも、ちゃんと我慢できたご褒美に、レイが明日のお昼を豪華にしてくれるって。」

「ほんとに?またスタミナ弁当?」


ジョアンがもし犬だったら、ちぎれんばかりに尻尾を振っていただろう。
それくらい彼女は嬉しそうだった。

「No.今度は『スタミナ愛情健康弁当乙男スペシャル』だと言ってたな。また経費で落とすんだろうけど。」


「そこまで合体するか…それに経費…まあ、でも、せこいが素晴らしい!」


あまりに長いタイトルと無駄遣いに、一瞬辟易したジョアンだったが、美味しいものが食べられるということで妥協したらしい。
消毒綿をめくって注射の痕を確認しながら、にっこりと笑ってみせた。


「あ、あと殿下から伝言があるよ。」

「覇王が?珍しいな。」


先程の覇王の様子を思い出し、ジェロームは笑いをかみ殺しながら手帳を取り出した。

ジョアンは隣に並んで覗き込むが、帝国の文字を読めずに首を傾げる。
ジェロームは指で文字をなぞりながら読み上げてやった。

「ちゃんと部下の言うことを聞けハネクリボーをこき使うんじゃない迷惑かけるな人前で着替えるな俺に変なあだ名をつけるな野菜を…」

「わ――!!!また説教!!」


ジョアンは聞きたくないという風に耳を塞ぐが、楽しげだ。
傍でハネクリボーとルビーが真似をして遊んでいる。


「お父上が今病気だからね。なかなか会いに来ることができないんだよ。」

「そういう時って、居ても経ってもいられないものだから。私もそうだった。」


ジョアンはじゃれ合う精霊達の頬をつつく。
青い巻き毛が、俯き加減の横顔にかかる。


「…お兄さんのこと?」

「まあ、ね。でも結局、自分が一番しっかりしてないといけないんだよな。」


片目を瞑ってみせると、ジョアンは立ち上がる。

潮風を正面から受けながら、少女は無言で砂浜に向かって歩いて行った。







「ユベル。お前が私に仕えて何年になる。」

『十一年です。』


覇王の代わりに世界王を見舞い、ユベルは寝台の傍らに立った。

たったの数日で面変わりしてしまった皇帝に驚きが隠せないようだった。
今年で彼は四十九歳のはずだが、一回り余分に年を取ってしまったように見えた。


「お前にはいろいろと苦労をかけたな…礼を言っても言い足りない。私も覇王も、お前に迷惑ばかりかけてしまう。」

『何を仰います。もう慣れました!』

「違いない。」


おどけたようにユベルが言うと、世界王は弱弱しい笑い声を立てた。


「…私は報いを受けるようだ。」

ふと笑い声が止まったかと思うと、世界王が哀しみとも、諦めともつかない表情をつくった。
ユベルは静かに、だが強く問う。


『なんの報いを?陛下は何も悪いことはなさっていません。』

「お前も気付いているだろう。私が5年前、息子に何をやらせたか。」

『それで救われた者もたくさんいます。どのみち彼らとは決着をつけることになったでしょう……わかり合えないのです。「光」と「闇」は。』


ユベルが言ったことは本当だった。
領土を広げ、国力を上げたことで帝国が世界の頂点に立って睨みを効かせているからこそ、他国は無駄な戦争を起こし辛い。

例えそれが力で他を圧倒する、恐怖政治と変わりのないものだとしても。


「違うのだ、ユベル。そうではいけなかったんだ。」


世界王は首を振る。
やつれてはいたが、瞳に強い光を宿している。


「どれか一つしか選べないと、初めから諦めてはいけなかった。共に歩む道を探すべきだったのだ。」

『限りなく不可能に近いとしても…?』

「…ああ。」


不可能だという気持ちに捕らわれて、自分はいつも何もできずに――いや、目を逸らしてきた。

世界のことも、家族のことも。

今になってこんなことがわかるとは皮肉だった。



「ユベル、覇王に伝えて欲しい。私は、」

突如響いたノックの音に、世界王は口をつむいだ。


「失礼致します…。」


おどおどした医者の声が扉の向こうから聞こえたかと思うと続いて響いた少年の声に、世界王とユベルは目を見張った。


「覇王です、父上。…そちらに行ってもよろしいか。」








「お前と二人きりで話すのも久しぶりだな。」

「…そうですか。」

世界王の寝台の脇にあった椅子に、覇王はぎこちなく腰を降ろした。
向かい合ったなり、黙り込んだ覇王が口を開くのを待つ。

彼が口下手になる時は、相手に気を遣っているからなのだということに気付いたのは、最近になってからだった。

いかに覇王のことを知らなかったかがわかり、世界王は自分を恥じた。
自分の大切な子供だと言うのに。


「…恨んでいるのなら、そう言ってくれてもかまわない。」


覇王がはっと顔を上げた。
世界王の視界が僅かに歪む。


「私は当然の仕打ちをしてきた。恨み言を聞く覚悟は出来ている。だから…」

「違います!」


椅子を蹴って覇王は立ち上がった。



「俺も恨んでいるのだと、ずっとそう思っていた…だけど、違う!恨んでなんかいない!!!俺はっ!!!!」


母が暗殺されても、宰相一族を恐れて病死と判断した父を、家族同然であったユベルに改造手術を受けさせた父を。

家族に馴染めずにいた自分を、見て見ぬ振りをした父を。


恨んでいると思っていたのに。



その時、彼が抱いていた感情はなんだったろう。
哀しみ、怒り、困惑…何もかもが入り混じり、特に何がとは限定できなかったけれど。


唯一つ確かだったことは、その時彼は「覇王」としてではなく――息子として父に訴えていた。


「……俺は……。」



「俺は、」なんと言いたかったのだろう。







覇王を世界王はしばらく見つめていたが、もう一度椅子に座らせる。
皺の寄った手が、若々しい手を包む。



「不器用だな、お前は。」

「……父上に似たのです。」



覇王は俯いたままその手を握り返した。


「――私には、守りたいものがたくさんあった。同時に、守らなければならないものもたくさんあった。」


父の手はこんなにも小さかっただろうか。
父の声は、こんなにもしゃがれていただろうか。


「その時私は守らなければならないものを優先したが…本当は…お前達を一番に守りたかった。駄目な父親だ、まったく…。」


ぽつりとシーツに落ちた水滴が浸み込んでいくのを、覇王は見つめていた。


「お前はいい息子だった。私などには勿体ないくらいに。」


顔を上げるなんて真似は絶対にせず、ただ一心に、耳を傾けてくれる。
それを世界王がどれだけ有り難く感じていたか、覇王はわかっていないだろうけど。


お前がどんな力を宿していようと、何者であろうと構わない。








「ありがとう…。」



私のもとに産まれてきてくれて。







話していないことがたくさんあった。
謝らなければならないことも。

この先彼を待ち受ける苦難を、世界王は予見していた。


それでも彼の幸せを願わずにはいられない。
それが父親として、彼が最後にしてやれることだったから。







遠く光の差さない地の底から、柔らかな歌が聞こえる。



「Hey,girl.歌かい?」

「うん。だって今日はお葬式なんだろ。」

「弔ってあげているんだね。」

「レインボードラゴンの歌踊を送られた奴は、幸せになれるんだってさ。だから、死んだ人が来世で幸せになれるように。」


今世ではなく、来世で。


独特の音階を持つ中性的な歌声。
一つの終わりを慰め、新たな始まりを祝福する竜の歌は、天上に昇った彼に届いただろうか。






倒れてから五日後の早朝、世界王は崩御した。


皇帝の突然死に、国民も驚きを隠せない。
病死か、暗殺か。
勘ぐる者も数多くいたが、結局解明することはできなかった。

世界王は政治面においては官僚達の言いなりで、決して為政に長けた人物ではなく、先代達と同様政治家の傀儡の皇帝として、その一生を閉じたのだった。


国葬が行われたのはその翌日だ。
棺を見送る一行を、スワルナ=パクシュ少尉の率いる隊が警護を努め、葬儀はしめやかに行われた。



「覇王!…こんなところにいたんだね。」

「兄上。」


一人浜辺にいた覇王の元に現れたのは、斎王だった。
彼が黒を纏うのは珍しく、なんとなく着慣れていない感じがする。
反対に、黒服ばかりを好む覇王はいつもと変わらない。


「父上と話をしたんだってね。父上はとても喜んでいたよ。」

「そうですか…。」


あれでよかったのだろうか。
自分はただ感情をぶつけただけで、まともなことや、気遣うことは一言も言わなかった。

あれでも父は嬉しかったというのか。


斎王は少し戸惑った後、覇王の隣に並んだ。


「あれからよく考えたんだけど…僕達も話をする必要があるんじゃないかと思う。」


こちらを見上げる覇王の視線が痛い。
だがここで恐れてはいけないと、斎王は自身を奮い立たせた。

「僕も姉上も、今までお祖父様の言いなりだった。だけど、そんなのはもうやめにしようと思うんだ。」


次期皇帝の座を巡って、いずれ――いや、
既に周囲で争いが勃発している。
祖父はライバルである覇王を追い落とそうと躍起になるだろう。


しかし斎王は、今度こそ祖父の言いなりになる気はなかった。


「僕達、これから家族になるんじゃ遅いかな。」


黙って聞いていた覇王だったが、話が終わったと思ったのか、斎王を後に残して浜辺を歩き出した。

「覇王!」

慌てて斎王は呼び止める。
やはり、無理なのか。
自分達がわかりあうのは――?


「兄上、次に食事会をする時は呼んで下さい。」

「え?」


覇王が振り返ることはない。
目も合わせずに、小さく答える。


「…必ず行きます。」


ぽかんとしていた斎王だったが、やがてその真意を理解すると、何度も大きく頷いた。


「ああ…ああ!もちろん!」


そうだ、自分は兄で、彼は弟。
それだけ、家族なだけなのだ。



彼が何者かなんて関係ない。
自分が見た『夢』なんて関係ない。




「必ず呼ぶから…約束だ、覇王!」



去っていく弟の背中に、斎王はもう一度大きく、呼びかけた。







「こんな感じで、いいのか…。」


ふと唇からもれた声はあまりにも情けない。
覇王は苦笑して、空を仰いだ。







事件が起こったのは、世界王の国葬から更に五日後のことだった。



本来の勤務時間を大幅に過ぎた夜十時頃。

ジェロームはカレンを連れ、真剣な面持ちでキーボードを叩いていた。

「やはり。」

計器と画面に映し出された数字の羅列を見比べ、眉をしかめた。
帝国がレインボードラゴンの繁殖を急ぐ理由。
それをついに突き止めてしまったらしかった。

もちろん、正規の方法ではないが。


「…こういうことだったとはね。」


ジェロームは肘をつく。

これが真実であるとすれば、今日(こんにち
)の、少なくともここ数年の帝国の繁栄は、レインボードラゴンのおかげと言っても過言ではない。

数を増やしたいのも当然のことだろう。
その血を絶やしたりしたら、帝国の今後に――ひいては世界の情勢に関わるかもしれない。


「こういうのは好きじゃないなぁ…ん、これは?」

心配げに見上げてくるカレンの頭を一撫でしていたジェロームは、ふと手を止めた。
画面に映った大きな結晶の塊を怪訝そうに見つめ、文字を読み取っていき…。


「『オリハルコンの眼』!?なんてものを…!」


その時。


ジェロームの背後で、かちりと金属音が響いた。


「調べすぎたなクック。」

「の、ようですね。」


銃を構え、自分に照準を合わせる男――自分の上司に、ジェロームは不適に笑ってみせた。


「But,どっちを知りすぎたせいで殺されるんでしょう?レインボードラゴンを増やす理由?それとも、秘密裏に斎王派が『オリハルコンの眼』を開発していたこと?」

「お前が知る必要はない。」

「冥土の土産とかいうのにしたいんですよ。一度言ってみたかったんですよね。」


周囲を取り囲む兵士の数を冷静に数えながら、白衣のポケットへとさりげなく手を忍ばせる。
上司だった男は苦笑する。


「いや、いや。お前を殺すわけにはいかない。お前が死んだら、我々の計画も駄目になってしまうからな。」

「…どういう意味です。」

「本当に生態調整の為だけに呼ばれたと思っていたのか?」


ジェロームを侮っているような言い方だった。
自分が呼ばれた真の理由――気にはなるが。


「是非ともお聞かせ願いたいですけど…今はやめておきます、よっと!!!」

ジェロームは素早く発煙筒を放った。
途端に周囲に煙が立ちこめ、怒号と悲鳴が上がった。






「Unbelievable!帝国もなかなかの悪のようだね、カレン!」


夜風に汗を散らせながらも、ジェロームは飄々と笑った。
向こうがいくら人数を集めようと、こちらにはカレン、すなわち精霊の特殊能力がある。
包囲網を突破するなど容易かった。

恐らく故郷や借家にも追っ手が回ってくるだろうが、問題ない。
カレンの仲間の精霊達に頼んで、妻子は既に逃がしてあった。




「これからこの国は大変なことになるぞ――ドラゴンガールも、あの朴念仁な皇子様も。なんとかしなくちゃな。」



無口な相棒にそう告げると、ジェローム・ガビアル・クックは闇夜に消えた。




To be continued
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