第3話
「レインボードラゴンの検査?」
「ええ。生態がよくわからない分、いつ具合が悪くなるかわかりませんから。」
覇王はドーム状の装置に入れられたジョアンを、強化ガラスの向こうから見つめた。
裸身の上に簡易な布をかけられ、微動だにせず、眠ったように横たわる少女の姿は、普段とは全く違う印象を与えた。
長い睫は影を落とし、艶のある青い髪が肌の白さを引き立てている。
人ならざるものの精神性と肉をもつ生者の艶やかさ。
究極宝玉神レインボードラゴンは、伝説に謳われていた以上に美しかった――黙っていれば。
「検査完了。もういいぞ。」
スピーカーから研究員の声が響くと同時に、閉ざされていたジョアンの瞳がぱっちり開く。
周囲をきょろきょろ見回していた目が覇王で止まると、ぱっと輝いた。
「やぁやぁ!なんだ、来てるなら声かけろよなー。」
元気よく体を起こすと、上にかけられていた布がずり落ち、形のよい乳房、腹部…と露になっていく。
あまりの事態に一時停止してしまった覇王のもとに、ジョアンは至極無邪気な笑みで走りよる。
少女の華奢な肢体が、彼の網膜に鮮明に焼きついた。
「おい?お~い!なんだよ、何そっぽ向いてんだよ!」
「服を着ろ馬鹿女!!!」
「男の前で裸になるとはどういう了見だ!!」
「裸になるって…脱いでたらそっちが勝手に来たんだろー。」
「やかましい!大体お前はだな…!」
個室から出てくるなり、覇王はジョアンを叱りつけた。
検査中ということできちんと着こみはしなかったが、今のジョアンは薄い診察着を着せられている。
それでも先ほどの光景が想起され、ジョアンを直視することができない。
あれから何度か顔を合わせ、彼女の奇行にも大分慣れた覇王だったが、今度ばかりは頂けない。
そもそもジョアンは女としての自覚がなさすぎるのだ。
この辺りで指摘してやった方がいい。
わかりやすいほど真っ赤になって叱責を飛ばす覇王を、周囲は驚きを含んだ眼差しで見守る。
「その辺りにしておけ、覇王。」
「しかし・・・」
永遠に続くかと思われた説教は、世界王の苦笑と共に打ち切られた。
覇王はまだ言いたりない様子でジョアンをねめつけるが、ジョアンはこれ幸いとばかりにと世界王の後ろに隠れてしまった。
顔だけをちょこんと覗かせ、非難の篭った目で覇王を見ている。
「もともと竜に服を着る習慣はないからな・・・偶にこういうこともある。反省はしているようだから、許してやれ。」
「その通りだぜ!」
「・・・反省しているようには見えませんが。」
ジョアンは自信たっぷりに世界王――つまりは皇帝の腕を無遠慮に叩く。
――そもそも誰の為に言ってやったと思っている!
そう言おうと息を大きく吸いかけたが、その時初めて周囲に見られていることに気付き、慌てて口を押さえた。
一ヶ月に一度ある検査を除いて、ジョアンがあの地下世界を出ることはない。
だから例えそれが無骨な電子器具しかない殺風景な施設の中であっても、彼女にとっては嬉しいものらしい。
その気持ちはわかる。
わかるのだが。
「すっげぇ!これ新しい機械だろ?かっこいい!」
「なあなあ、これ何に使うんだ?」
「お、あそこになんかあるな。おじさん!あの高いところにあるやつをよく見たいから、肩車してくれ!」
「…おい。」
ジョアンは検査を受けながらも周囲を楽しげに観察しては、研究員の白衣の裾を引いて質問する。
今しがた肩車を頼まれた巨漢は、どうしたものかとおろおろしている。
見兼ねた覇王は軽くジョアンの頭を小突いた。
「うちの部下を勝手に使うな。」
「固いこと言うなよ―、覇王の子分なら私の子分でもあるんだし!」
断じて違う。
いかにも旧知といった感じだが、俺とお前はまだ会って一月くらいだろう。
そもそも「子分」という安っぽい呼び方をやめろ。
最早どこから追求すればよいのかわからない。
本来この検査に覇王が付き添う必要はなかった。
だが、ジョアンの言動にいちいち戸惑う研究員達を見ていたらいてもたってもいられなくなってしまい――自分が手こずらされただけに、困惑する彼らが気の毒で仕方がなかったのだ――半ば保護者のような形で彼女を見張っている。
しかし、当然ただ見張っていればよいというわけではない。
この好奇心旺盛な少女は、移動の途中に何か興味を引くものを見つけると探検しに行ってしまう。
その度に覇王はジョアンの襟首を掴み、猫の仔のように吊るし上げて連行しなければならなかった。
「なあ、ルビーとハネクリボーはどこにいるんだ?」
一時的な休憩を貰い、ジョアンと覇王は固い椅子に並んで座った。
注射針を刺された箇所を押さえて顔を苦しげに歪めながら、ジョアンは覇王に問う。
「あいつらも検査を受けているのか?」
「うん、特にルビーは・・・ええと・・・『ミカクニンセイブツのセイタイを詳しく調査するため』って。」
思わず覇王は顔をしかめる。
帝国は科学を何よりも重視し、説明できない物や事は徹底的に調べつくす。
その性質が帝国をここまで発展させ、今日までの栄光に導いたのだが、それはある種の残虐性を示していた。
あらゆる実験、あらゆる検査をして、対象の隅々までを調べる・・・ということは、下手をすれば解剖や薬物投与をされる可能性も出てくる。
ジョアンがここに捕らえられてから5年、これまでルビーが無事でいたのなら、科学者達にその価値を認められ、「生かしておく」選択が為されたということであるから、今更殺される心配はないだろう。
しかし、殺すまではいかなくてもいつ何をされるかわかったものではない。
正直ルビーがどうなろうと別に構わなかったが、そうしたらこの少女は本当に一人ぼっちになってしまうのではないか。
そうなってしまうのはなんとしても避けたかった。
「・・・お前のペットなら大丈夫だろう。馬鹿は風邪をひかぬと言うからな。」
何故ジョアンにここまで肩入れしてしまうのか――内心戸惑いながら、覇王は彼女を元気付けるように、言葉を選んだ。(これでも彼は選んだつもりだった。)
ジョアンはそうだなと快活に笑ったが、ふと何かひっかかったのか、首を傾げる。
「ルビーはペットじゃないぞ。私の家族だ。」
「家族?」
覇王は苦笑した。
ジョアンとルビーは同じ魔物とは言えどう見ても別の種族だったし、言語も異なる。
家族というよりは、ペットと言った方が妥当ではないか。
「小さい頃からなんでも一緒で、一緒に育ってきた・・・だからルビーは、私の家族なんだよ。」
「そういうものか。」
「そうさ!それにあいつにはいっつも世話になってるんだ。ルビーがいなかったら、私、すぐに迷子になるからな。」
ジョアンは頭を掻いてあははと笑う。
そういうことなら、自分もルビーに感謝する必要があるかもしれない、と覇王は考えた。
ただでさえ予測不可能な行動を取るのに、迷子にまでなられたら手に負えない。
「お前にもいるだろ?血が繋がってなくても、家族だって思える奴が。」
覇王の脳裏に、いつも何も言わずに付き従ってくれる漆黒の人工精霊の姿が過る。
「…ああ、いるな。」
姉のように、兄のように、いつも自分を見守ってくれる存在。
「覇王」になってからは頼ることを嫌がり、あまり話さなくなってしまったけれど。
変わってしまった今でも、大切だった。
ジョアンはそれを聞いて優しく微笑む。
「よかったじゃないか。あんまり迷惑をかけないようにしろよ。」
「お前ほど迷惑をかけていない。」
「よく言うぜ!自分ひとりじゃ髪も梳かせないくせに。」
「こういう髪型だ馬鹿者。お前のぼさぼさ髪と一緒にするな!」
外側に大きく跳ねた覇王の髪をつんつん引っ張っるジョアンへの仕返しとして、彼女の収まりの悪い髪を一房、軽く掴んでやる。
「私のこれは髪じゃなくて、鬣(たてがみ)だ。生まれつきこういう形なんだぞ。」
「へらず口を・・・」
遠くで作業する研究員達には、彼ら二人が何を話しているか聞き取ることはできない。
しかし――あの覇王に対して無礼とも取れる行為を平気で行うジョアンの姿を遠目から見る研究員達が青ざめる一方で、世界王は微笑ましいとでも言うように頷いている。
少なくとも、今少女に反撃を試みている覇王は「歴戦の軍人」ではなく「ただの少年」だった。
「Woderful!こいつはまた可愛いドラゴンだな!」
ひょうきんな声と共に奥の部屋から顔を覗かせたのは、ジェロームだった。
特徴的なテンガロンハットを脱ぎ、他の研究員と同じ白衣を着ているが、彼のすぐ隣をカレンがのしのしと歩いている為、異様な印象は変わらない。
「君は?」
「ジェローム・ガビアル・クック博士です。この度はプロジェクト参加への要請、ありがとうございました。身に余る光栄です。」
深く一礼する彼の横で、カレンが世界王を見上げる。
無機質な印象を与える爬虫類独特の瞳だったが、妙に愛嬌があった。
「彼女はカレン。私の精霊です。」
ジェロームはそう言って優しくカレンの背を叩く。
挨拶だ、とでも言うようにカレンは小さく鳴いた。
そしてすぐにジョアンへと目を戻す。
「あの子がレインボードラゴン・・・驚いたな、人間とほとんど変わらない。翼も角も出ていない・・・ここまで完璧に人型を取る精霊は初めて見ました。」
若葉色の瞳は面白いものを見つけたように輝いたが、決して研究対象を観察するような、嫌なものではなかった。
純粋に感心しきった様子で、ジェロームは腕を組む。
「君はあれを精霊と呼ぶのだね。」
「私の考えでは、魔物なんてものはいません。何が善で何を悪に分けるかなんて、人間の勝手ですから。」
ジェロームは少し真剣な面持ちになった。
本来、精霊と魔物は同種の存在で、ただ単に呼び方の違いしかない。
通常は人間に友好的なものを精霊と呼び、人間に敵対するものが魔物と――軽蔑の意を込めて呼ばれるのだ。
レインボードラゴンは神の二つ名を持つことから、精霊と呼んでも差し支えないはずだったが、彼らは闇を信仰する帝国と敵対する光の眷属。
帝国人からすれば、彼らもまたこの上なく邪悪な「魔物」なのだ。
「控えろクック。陛下の御前だぞ。」
「Sorry!出過ぎたことを言いました。」
上司からの非難にも悪びれた様子もなく、ジェロームは肩を竦めてみせた。
ルビーとハネクリボーの入った小型カプセルを助手から受け取ると、ぽつりと付け加える。
「ただ我々が精霊と呼ぶ存在と・・・あの子にどんな違いがあるのかと疑問に思っただけですよ。」
「検査って今まで嫌いだったけど、話し相手がいると楽しいもんだな!」
「お前が一方的にしゃべっているだけだろう。」
「え―そうかぁ?カードのことになると結構喰いついてたぞお前。」
そう言われればそうだったかもしれない。
どうにも自分は――決して認めたくないのだが――ジョアンを前にすると子供っぽくなってしまうような気がする。
先程もそうだ。
人前であんなに感情感情的になることなど滅多にないというのに…みっともないことこの上ない。
いや。
あれは明らかにジョアンが悪い。
人前であんな…裸…。
思い出した途端、頬が熱くなった。
「やっぱりお前が悪い!!」
「覇王は怒ってばっかだなぁ。」
「いつもは違う!」
前後関係のわからない糾弾をされても、ジョアンは気分を害した様子もなく、のほほんと笑っている。
覇王は額を抑えた。
どんどんジョアンのペースに引き込まれている気がしてならない。
このままではダメだ。
「やあ、君がジョアンか。Hello!ドラゴンガール!」
真剣に自分の今後について悩み始めた覇王の視界に入ってきたのは、ワニを連れた長身の男だった。
その腕にはルビーとハネクリボーが抱きかかえられている。
「ルビー!ハネクリボー!」
「両名とも特に異常なし。至って健康体だよ。」
小さな魔物達はジョアンを見るや否や、彼女の胸に飛び付いた。
男はその様子を微笑ましそうに見ていたが、ややあって覇王に向き直ると敬礼する。
「…貴様は。」
「ジェローム・ガビアル・クック博士です。本日付で特務科学部門に配属されました。」
「よろしくな、おじさん!」
元気に言い放たれたジョアンの一言に、ジェロームは衝撃を受けたようだったが、咳払いと共になんとか踏みとどまった。
せいぜい二十代後半くらいだろうから、まだ「おじさん」というには若すぎるだろう。
「今度から俺が生態調整を担当するからね。あと、もう一人・・・。」
「失礼します。」
小柄な少年がジェロームの隣に並ぶと、ぎこちなく敬礼する。
「レイといいます。どうぞよろしく…。
あ、覇王様、この前はどうも…。」
「ああ。」
覇王は先日の人生最初で最後とも言える給食を苦々しく思い出した。
「レイはいつも私の弁当を作ってくれるんだ。料理得意なんだぜ。」
「あ、あと錬金術も担当してます。」
おずおずと少年の口から発せられた言葉に、覇王は首を傾げる。
「錬金術?」
「ええ。この研究所は最先端の科学だけじゃなくて、そういうものも扱ってるんです。今僕が研究しているものは、精霊や魔物の魂を他の媒体に保存して、自在に操って使役するというとても画期的な・・・。」
レイはそこまで言いかけて、おそらくジョアンに気を遣ったのだろう、口を噤んでしまった。
魂をどこかに閉じ込めて利用されるなど、確かに精霊や魔物達に聞かせられた内容ではない。
しかし当のジョアンは「へえ、そんなこともできるのか!」と、にこにこしている。
気を遣うだけ無駄だったらしい。
どちらにせよそんな非科学的なことにまで予算を割くとは、帝国政府も暇人の集まりだ。
「まあとにかく、これからよろしく頼むよ。」
「ああ!」
ジョアンはジェロームの手を握ると、覇王にしたように、遠慮なくぶんぶんと降る。
覇王と違ったのは、彼がそれを笑顔で受け止めたことだった。
「そうだ、ジョアンちゃん。もうそろそろ戻らなきゃダメだよ。」
「診断開始からもう二時間か・・・。うん、戻った方がいいな。」
「えー・・・。」
時計を確認するジェロームとレイに、ジョアンは子供っぽく口を尖らせる。
帝国はもともと光の波動に満ちた環境ではない。
まだ生態系に謎の多いレインボードラゴンの生息が可能かわからない以上、長居はさせられなかった――ジョアンが捕虜であることもあったが。
「嫌そうな顔しないの!ここにいたら君の体にも良くないんだから。さ、着替えて。」
「ちぇっ。わかったよ。」
ジョアンが渋々と検査服の裾を持ち上げた瞬間、覇王は素早く彼女を近場の部屋に放り込んだ。
また裸になれられたら困る。
「特に異常はないと思うけど、万が一の時はもう一回来てもらうよ。」
「なんか異常があったらいいのに。」
「僕らは良くないよジョアンちゃん…。」
砂浜に降り立ったジョアンのぼやきに、レイは溜め息をつく。
ジョアンはルビーとハネクリボーを抱いて白い砂浜に降り立つと、もう一度覇王達を振り返りしばし佇む。
しかしもう一度急き立てられると、今度こそ踵を返して歩き出した。
自然環境を模しているとは言え、5年も地下に幽閉されるというのは、あの人好きのする少女には辛いことなのではないだろうか…。
彼女の後ろ姿を見ながら覇王はそんなことを考えて、頭(かぶり)を振った。
ジョアンはレインボードラゴンで、人ではない。
強大な力を秘めた未知の生命体なのだ。
一歩間違えばこちらが危険になる可能性がないとも言い切れないのだから、念には念を入れて管理した方が良いし、その上捕虜なのだから、監禁されても文句は言えない。
これは然るべき対応だ。
自分は何て馬鹿なことを考えたのだろう。
職業軍人が聞いて呆れる。
完全に扉が閉ざされた後、覇王は踵を返した。
漆黒のマントを翻す息子の姿を見て、世界王が呼び止める。
「どこへ行くのだ。」
「仕事です。」
それ以上に何があるというのか。
相手を切るような鋭い口調で返答して、覇王はエレベータに乗り込んだ。
地上に着くまでの間、苛立たしげに剣の柄を弄う。
「最悪だ…。」
あの竜のせいで調子が狂いっぱなしだ。
馬鹿なことを考えたり、したりしてしまう。
まるで昔の…子供の頃のように。
冗談じゃない。
今までなんの為に感情を殺して、勉学と修練に打ち込んできたのだ。
俺はもうあの頃の子供じゃない。
俺は成長したんだ。
画面に映し出された少女の立体映像を指しながら、研究員は世界王に向き直った。
「健康体です。念願の実験も可能になりそうですね。」
「そうだな・・・。」
研究員の報告に、世界王は気の進まない様子で頷く。
ジョアンを定期的に診断するのは、地下世界の環境を整える為にも必要だったが、もう一つ大切な理由があった。
――生物実験と繁殖実験。
レインボードラゴンを兵器化し、増やすこと。
5年前に帝国がレインボールインを滅ぼした時、世界王と一部の重臣達は斎王を除く上級士官達にある命令をしていた。
レインボードラゴンを――特に雌は繁殖用に殺さず生け捕れ、と。
最終的に襲いかかってきた方のレインボードラゴンはやむを得ず殺してしまったが、雄だったので特に問題視されず、斎王が雌を捕獲したことで、当初の計画通りに事は運んでいった。
この施設に収容された時から、ジョアンには数年後の実験を目的とした調整を施してきた。
長年の計画がもう少しで遂行されるというのに、世界王は晴れない表情でカルテを見直す。
以前の世界王ならば、なんの躊躇いもなく計画を進められただろうが…それは若干の同情があったとは言え、ジョアンを動物として、サンプルとして見ていたからできたことだ。
今、世界王の中のジョアンは動物でもサンプルでも、兵器でもない。
覇王の友人だった。
心を閉ざしてしまった息子がようやく得た、たった一人の友達。
それを奪うことなど、世界王には到底できそうになかった。
だが自分にそれを止める権利はない。
数世代に渡って施設、軍への資金を援助してきた貴族、重臣…彼らが許さないだろう。
帝国は王国と比べて確かに統治者の権限は多いが、歴史が長いとなると皇族の弱体化も、臣下の腐敗も進む。
どんなに濾過し、汚れを取り除いた水でも、たった一滴の油で呆気なく澱み、清廉さを永遠に失ってしまうように。
下降するのは容易いのに、上昇するのはこんなにも難しい。
だから子供達にもそんな思いをさせまいとあらゆる手を尽くしてきたが、それは単なる自己満足に終わった。
特に、覇王は…自分が追い詰めてしまったようなものだ。
「…それでいい。何もかも、計画通りに進んでいる。」
自分に言い聞かせるように――無力な皇帝は、力なく頷いてみせた。
『誰一人として逃れられぬ定めを受け入れろ。』
『お前の使命を全うせよ。』
『運命に、従え。』
ごとりと本が机に当たる音で斎王は目を覚ました。
まだ昼前だというのに、転た寝してしまったらしい。
…誰かに呼ばれたような気がする。
斎王は、未だはっきりしない目元を擦った。
夢の中で何者かに何かを言われた気がしたのだが、それがなんだったのかさっぱり思い出せない。こういうことが起こるようになったのは数年前からだ。
別にただの夢だからどうでもいいのだが。
閉じた本を戻そうとした時、それに挟まっていた手紙が床に落ちてしまい、慌てて拾う。
それは斎王の滞在していた神殿からのものだった。
斎王は手紙にしろなんにしろ紙類を近くにある本に挟んでしまう癖がある。
大切な書類を挟んで姉に酷く叱られたこともあり、なるべく気をつけてはいるのだが、それでも無意識のうちにやってしまうことがあった。
自分に呆れながら、既に切られた封から薄い紙を取り出すと、視界に彼の面倒を見てくれた女司祭の流麗な文字が広がる。
何か変わりはないか。
きちんと食事をとっているか。
神の戒めを守っているか。
その他事細かに生活のことを色々と。
斎王は彼女のことを自分のもう一人の母親のように思っていたから、こういった便りは嬉しかった。
それと同時に、遠く離れた土地が恋しくなる。
神殿は、生まれ故郷以上に斎王が安心していられる場所だった。
そこには弟の悪口を言う者はいなかったし、醜い権力争いに巻き込まれることもなかった。
…現実逃避できる場所だったのかもしれない。
全てを忘れて。
全てから逃げて。
そうして今、再び様々な思惑が絡みあった世界に飛び込んだ斎王は、神殿を恋しく思っている。
情けないことだとは、思う。それでも。
「帰りたいな…。」
斎王がそう呟いた時、扉が軽くノックされた。
皇族の部屋を尋ねるには軽快過ぎるそれで、すぐに見当がつく。
「どうぞ、スワルナ=パクシュ少尉。」
「どうも。失礼するよ。」
銀髪の青年――エドは、軽く挨拶して片目を瞑ってみせる。
あまりにも気安い態度の為、これではどちらが皇族かわからない。
「今日はどうしたんだ?また仕事の愚痴でも?」
「いや、残念ながら違うんだ。」
勧められた椅子に腰掛けて、エドは足を組む。
「実は今度の軍のパレード。君の弟と一緒にやることになった。」
「本当か!よくお祖父様が赦したなぁ…。」
思わず破顔した斎王とは反対に、エドはつまらなそうだった。
淹れたての紅茶を一口啜ると肩を竦める。
「要するに、弟君に近付いてこいと上層部は言いたいのさ…この僕にね!」
「成程ね…。お祖父様らしいけど。」
斎王は苦笑する。
結局あの後も、斎王はジョアンの件について父とは話さなかった。
祖父は斎王にジョアンと面会するよう言ってきたが、そんなあからさまなことをすれば、覇王一派を煽るだけだという理由をつけて却下した。
会っても良かったのだが、斎王はレインボールインに攻め込み、滅ぼし、彼女を捕虜にした張本人。
ジョアンに対して多大な罪悪感がある為、正直会うのが苦痛だったのだ。
最近ジョアンは覇王によく懐いているというから、祖父達はそれを勘繰ってエドに偵察を命じたのだろう。
「しかし、何故君が選ばれたんだ?君の家はこちらの陣営で有名だし…それだけでも充分に警戒される要素だろう。それに覇王は賢いから、おべっかが通用するとも思えない。」
「大活躍して弟君を牽制してこい、といったとこかな。調子にのるなってね。」
「…穏やかじゃないな。」
「スパイみたいな真似をするよりはマシだろう。」
エドは机にカップを置くと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、パレードに使う飾りの一つなんだけど…あれは君のいた神殿にあった物に似ている。ええと確か…。」
エドが言わんとしているものが何か、すぐにわかった。
「七精門のことか。あの飾りはそっくりそのままレプリカにしたものだからね。似ているのも無理はない。」
七精門とは、斎王のいた神殿の前にある、昔儀式に使われたという柱の集まりだ。
初めは門にしたつもりはなく、ただ長い七本の柱が打ち立てられただけのものだったが、後の時代にその後ろに神殿が建てられ、あたかも門のように見えることから、そう呼ばれる。
「なんでも昔は生け贄を捧げたりして、神の到来を願ったらしい。」
「無知とは恐ろしいな。儀式だか魔術だか知らないが、そんなものを信じて捧げる必要なかったろうに…。科学主義の文明に生まれてよかった。」
それに同意しかけてから、ふと斎王は、あの地下施設では七精門のことも研究対象に入るのだろうか、と疑問に思った。
オリハルコンの眼を造ろうとしているくらいだから、ひょっとしたらとっくに調査済みかもしれない。
それ以前に、あれにそこまでの価値はないだろう。
ただの飾りだ。
そうして別の話題に移りながら、斎王の中で七精門の話は隅に追いやられ、それについて考えることをやめてしまったのだった。
白刃が、風を切る。
一定のリズムで続けられていたそれは、やがてどんどん遅くなっていき、ついにはぴたりと止んだ。
覇王がじっとりと滲んだ汗を拭いていると、ユベルが飲料水を手渡す。
『少しはお休みになって下さい…。』
「これくらいどうということはない。」
愛剣を鞘に納めると、覇王は鷹揚な態度でそれを受け取った。
いかに剣術が趣味と言っても、始めてから悠に二時間は経過している。
その間休まず一心不乱に剣を振るう覇王の様子に、ユベルは心配になってしまった。
彼がこうして鍛錬に打ち込む時は、大抵何か不快なことがあった時だ。
覇王が汗を含んだインナ―を目の前で脱ぎ出したのを見て、慌ててユベルは後ろを向く。
――彼は本当にもう少し気を使うべきだ。
まったく変なところが子供っぽいのだから。
「・・・何をしている。」
『いえ、あの。ボクの前で着替えは、ちょっと・・・。』
ごにょごにょと言い澱んでいると、覇王の舌打ちが聞こえた。
「俺も、あいつと同じということか。」
『あいつ?』
「ジョアンだ。レインボードラゴンの。」
覇王はふてくされたような口調で言い放つと、ユベルの用意した椅子に腰掛けた。
それを聞いてああ、とユベルは納得した。
ここ最近覇王が不調だったり不機嫌だったりする(それにしては満更でもない様子だったが)時は、必ずと言っていいほどその名前が出る。
ユベル自身は彼女に会ったことはないが、覇王の話をもとに適当な人物像を――この場合人と言っていいのか疑問だったが――描いていた。
つまり「覇王と同年の、青色の猫毛をした変わり者」を思い浮かべていた。
『また彼女が何かやらかしたのですか?』
純粋に気になって尋ねると、覇王が飲料水のボトルを叩きつける勢いで机に置く。
「・・・思い出させるな。」
『し、失礼しましたっ。』
自分で言っておいて・・・と理不尽に思ったが、胸の内に留めておく。
今日は生態検査に立ち会ったという話だが、余程酷い目に遭ったらしい。
今までにない機嫌の悪さだった。
「人妖」「殺人兵器」「黒い悪魔」
「覇王」の字なの他に数々の異名を持つ彼を恐れず、且つ手こずらせるとは、さすがはレインボードラゴン・・・神の名を持つ伝説の竜だ。
ここまでくると呆れを通り越して感心する。
「ユベル、今度の軍のパレードで俺の副官を務める奴は誰だ。」
忌まわしい出来事を忘れようとしているのか、膝に肘をついて顔を覆いながら覇王が尋ねる。
「スワルナ=パクシュ少尉です。あの有名な。」
「斎王派か・・・面倒なことになりそうだ。」
覇王は顔を覆ったまま、息をつく。
エドモント・スワルナ=パクシュ。
文官の多い家系の中で珍しく武官になり、その明晰な頭脳で以って異例の出世をした若者。
宰相一族の遠縁にあたるスワルナ=パクシュ家は、何か皇族の間でいざこざがある度に、彼らの援護をしてきた。
故に現当主のエドモントも例外に漏れず、そうでなくても斎王の親友であるため、必然的に宰相派の一人として名を連ねている。
以前遠くから見たことがあったが、背中まで長く伸ばした髪といい、人を小馬鹿にしたような態度といい、覇王の好まない部類の人間だった。
彼が副官として選ばれた大方の予想はついている。
おそらくはジョアンのことだろう。
いつも世界王に半ば強制的に連行される覇王としては迷惑この上ない話だったが、宰相一派はすっかり彼がレインボードラゴンを手中に納めようと、父に取り入っているものと思い込んでいる。
覇王の性格を考えればそんなことは絶対にあり得ないというのに。
『どうなさるおつもりですか?』
「どうにもしない。好きに泳がせるさ。」
そう言い切ると、覇王は立ち上がって再び剣を抜いた。
刃は人工の光の下で、光の加減によって赤や青に煌いて、幻想的な美しさを醸し出していた。
刀身に汚れや傷はなく、これまで数百人という人間の血を吸ってきた剣とは思えない。
『いつ見ても不思議な輝きですね・・・オリハルコンというのは。』
「合金だがな。」
13歳の誕生日に、覇王の名と共に父から送られたもの。
貴重なオリハルコン分子を練った特殊合金で作られた剣だった。
覇王はさして剣やオリハルコンに興味はなかったが、これは使い勝手がいい方だと思う。
初陣から数えて3年、あらゆる戦で多用してきたにも関わらず、全く衰えが見えない。
皇族お抱えの研ぎ師が、定期的に研ぎ直しているおかげもあるだろうが、それにしても頑丈だ。
帝国におけるオリハルコンの登用が急増したのは数年前で、それによって軍事力は飛躍的に上がった。
どこかで鉱脈でも発見したのか・・・入手元を知っているのは世界王や上層部の一部の者達だけで、覇王は知る由もない。
背筋をまっすぐに伸ばすと、再び剣で風を切り始める。
わからないことだらけだろうが関係ない。
ただ自分はこの力と共に進んでいくだけだ。
俺はもうあの頃の愚かな子供ではないのだ。
覇王の背を見つめていたユベルは、静かに闇に溶けていった。
飛び散る血しぶき。
人々の怒号。
剣が肉を裂く音と、銃弾が臓器を破壊する音。
炎と地響き。
返り血に塗れて広間に立っている、あの男は
。
「―――ッ!!」
斎王は勢いよく飛び起きた。
手足は震え、心臓は煩く早鐘を打っている。
――なんだ、今のは。
悪夢というものを見るのは久しぶりだった。
なにもかもが現実味がある、不気味な夢。
人間の焼ける匂い、耳をつんざくような悲鳴・・・鮮血・・・。
ただの夢じゃないか。
私は何を恐れているんだ。
斎王は自分の神経の惰弱さに苦笑しながら、手元の明かりをつける。
すっかり目が覚めてしまった。
まだ夜中のようだったが、とてもではないがもう一度眠る気になれない。
読書でもして朝を待とう。
やっとの思いで机に辿り着くと、ふとしたはずみで脇に束ねておいたカードが落ちてしまった。
緩慢な動作で屈んだ斎王は、何気なく表に返したカードを見て、思わず強張った。
漆黒の衣を纏った髑髏頭の男が、不気味に笑いながら鎌を大地に突き立てている。
その正位置が意味するものは。
「死・・・?」
問うたところで誰が答えてくれるわけでもない。
斎王の不安を含んだ声は、夜の帳の中に消えていった。
to be continued
「ええ。生態がよくわからない分、いつ具合が悪くなるかわかりませんから。」
覇王はドーム状の装置に入れられたジョアンを、強化ガラスの向こうから見つめた。
裸身の上に簡易な布をかけられ、微動だにせず、眠ったように横たわる少女の姿は、普段とは全く違う印象を与えた。
長い睫は影を落とし、艶のある青い髪が肌の白さを引き立てている。
人ならざるものの精神性と肉をもつ生者の艶やかさ。
究極宝玉神レインボードラゴンは、伝説に謳われていた以上に美しかった――黙っていれば。
「検査完了。もういいぞ。」
スピーカーから研究員の声が響くと同時に、閉ざされていたジョアンの瞳がぱっちり開く。
周囲をきょろきょろ見回していた目が覇王で止まると、ぱっと輝いた。
「やぁやぁ!なんだ、来てるなら声かけろよなー。」
元気よく体を起こすと、上にかけられていた布がずり落ち、形のよい乳房、腹部…と露になっていく。
あまりの事態に一時停止してしまった覇王のもとに、ジョアンは至極無邪気な笑みで走りよる。
少女の華奢な肢体が、彼の網膜に鮮明に焼きついた。
「おい?お~い!なんだよ、何そっぽ向いてんだよ!」
「服を着ろ馬鹿女!!!」
「男の前で裸になるとはどういう了見だ!!」
「裸になるって…脱いでたらそっちが勝手に来たんだろー。」
「やかましい!大体お前はだな…!」
個室から出てくるなり、覇王はジョアンを叱りつけた。
検査中ということできちんと着こみはしなかったが、今のジョアンは薄い診察着を着せられている。
それでも先ほどの光景が想起され、ジョアンを直視することができない。
あれから何度か顔を合わせ、彼女の奇行にも大分慣れた覇王だったが、今度ばかりは頂けない。
そもそもジョアンは女としての自覚がなさすぎるのだ。
この辺りで指摘してやった方がいい。
わかりやすいほど真っ赤になって叱責を飛ばす覇王を、周囲は驚きを含んだ眼差しで見守る。
「その辺りにしておけ、覇王。」
「しかし・・・」
永遠に続くかと思われた説教は、世界王の苦笑と共に打ち切られた。
覇王はまだ言いたりない様子でジョアンをねめつけるが、ジョアンはこれ幸いとばかりにと世界王の後ろに隠れてしまった。
顔だけをちょこんと覗かせ、非難の篭った目で覇王を見ている。
「もともと竜に服を着る習慣はないからな・・・偶にこういうこともある。反省はしているようだから、許してやれ。」
「その通りだぜ!」
「・・・反省しているようには見えませんが。」
ジョアンは自信たっぷりに世界王――つまりは皇帝の腕を無遠慮に叩く。
――そもそも誰の為に言ってやったと思っている!
そう言おうと息を大きく吸いかけたが、その時初めて周囲に見られていることに気付き、慌てて口を押さえた。
一ヶ月に一度ある検査を除いて、ジョアンがあの地下世界を出ることはない。
だから例えそれが無骨な電子器具しかない殺風景な施設の中であっても、彼女にとっては嬉しいものらしい。
その気持ちはわかる。
わかるのだが。
「すっげぇ!これ新しい機械だろ?かっこいい!」
「なあなあ、これ何に使うんだ?」
「お、あそこになんかあるな。おじさん!あの高いところにあるやつをよく見たいから、肩車してくれ!」
「…おい。」
ジョアンは検査を受けながらも周囲を楽しげに観察しては、研究員の白衣の裾を引いて質問する。
今しがた肩車を頼まれた巨漢は、どうしたものかとおろおろしている。
見兼ねた覇王は軽くジョアンの頭を小突いた。
「うちの部下を勝手に使うな。」
「固いこと言うなよ―、覇王の子分なら私の子分でもあるんだし!」
断じて違う。
いかにも旧知といった感じだが、俺とお前はまだ会って一月くらいだろう。
そもそも「子分」という安っぽい呼び方をやめろ。
最早どこから追求すればよいのかわからない。
本来この検査に覇王が付き添う必要はなかった。
だが、ジョアンの言動にいちいち戸惑う研究員達を見ていたらいてもたってもいられなくなってしまい――自分が手こずらされただけに、困惑する彼らが気の毒で仕方がなかったのだ――半ば保護者のような形で彼女を見張っている。
しかし、当然ただ見張っていればよいというわけではない。
この好奇心旺盛な少女は、移動の途中に何か興味を引くものを見つけると探検しに行ってしまう。
その度に覇王はジョアンの襟首を掴み、猫の仔のように吊るし上げて連行しなければならなかった。
「なあ、ルビーとハネクリボーはどこにいるんだ?」
一時的な休憩を貰い、ジョアンと覇王は固い椅子に並んで座った。
注射針を刺された箇所を押さえて顔を苦しげに歪めながら、ジョアンは覇王に問う。
「あいつらも検査を受けているのか?」
「うん、特にルビーは・・・ええと・・・『ミカクニンセイブツのセイタイを詳しく調査するため』って。」
思わず覇王は顔をしかめる。
帝国は科学を何よりも重視し、説明できない物や事は徹底的に調べつくす。
その性質が帝国をここまで発展させ、今日までの栄光に導いたのだが、それはある種の残虐性を示していた。
あらゆる実験、あらゆる検査をして、対象の隅々までを調べる・・・ということは、下手をすれば解剖や薬物投与をされる可能性も出てくる。
ジョアンがここに捕らえられてから5年、これまでルビーが無事でいたのなら、科学者達にその価値を認められ、「生かしておく」選択が為されたということであるから、今更殺される心配はないだろう。
しかし、殺すまではいかなくてもいつ何をされるかわかったものではない。
正直ルビーがどうなろうと別に構わなかったが、そうしたらこの少女は本当に一人ぼっちになってしまうのではないか。
そうなってしまうのはなんとしても避けたかった。
「・・・お前のペットなら大丈夫だろう。馬鹿は風邪をひかぬと言うからな。」
何故ジョアンにここまで肩入れしてしまうのか――内心戸惑いながら、覇王は彼女を元気付けるように、言葉を選んだ。(これでも彼は選んだつもりだった。)
ジョアンはそうだなと快活に笑ったが、ふと何かひっかかったのか、首を傾げる。
「ルビーはペットじゃないぞ。私の家族だ。」
「家族?」
覇王は苦笑した。
ジョアンとルビーは同じ魔物とは言えどう見ても別の種族だったし、言語も異なる。
家族というよりは、ペットと言った方が妥当ではないか。
「小さい頃からなんでも一緒で、一緒に育ってきた・・・だからルビーは、私の家族なんだよ。」
「そういうものか。」
「そうさ!それにあいつにはいっつも世話になってるんだ。ルビーがいなかったら、私、すぐに迷子になるからな。」
ジョアンは頭を掻いてあははと笑う。
そういうことなら、自分もルビーに感謝する必要があるかもしれない、と覇王は考えた。
ただでさえ予測不可能な行動を取るのに、迷子にまでなられたら手に負えない。
「お前にもいるだろ?血が繋がってなくても、家族だって思える奴が。」
覇王の脳裏に、いつも何も言わずに付き従ってくれる漆黒の人工精霊の姿が過る。
「…ああ、いるな。」
姉のように、兄のように、いつも自分を見守ってくれる存在。
「覇王」になってからは頼ることを嫌がり、あまり話さなくなってしまったけれど。
変わってしまった今でも、大切だった。
ジョアンはそれを聞いて優しく微笑む。
「よかったじゃないか。あんまり迷惑をかけないようにしろよ。」
「お前ほど迷惑をかけていない。」
「よく言うぜ!自分ひとりじゃ髪も梳かせないくせに。」
「こういう髪型だ馬鹿者。お前のぼさぼさ髪と一緒にするな!」
外側に大きく跳ねた覇王の髪をつんつん引っ張っるジョアンへの仕返しとして、彼女の収まりの悪い髪を一房、軽く掴んでやる。
「私のこれは髪じゃなくて、鬣(たてがみ)だ。生まれつきこういう形なんだぞ。」
「へらず口を・・・」
遠くで作業する研究員達には、彼ら二人が何を話しているか聞き取ることはできない。
しかし――あの覇王に対して無礼とも取れる行為を平気で行うジョアンの姿を遠目から見る研究員達が青ざめる一方で、世界王は微笑ましいとでも言うように頷いている。
少なくとも、今少女に反撃を試みている覇王は「歴戦の軍人」ではなく「ただの少年」だった。
「Woderful!こいつはまた可愛いドラゴンだな!」
ひょうきんな声と共に奥の部屋から顔を覗かせたのは、ジェロームだった。
特徴的なテンガロンハットを脱ぎ、他の研究員と同じ白衣を着ているが、彼のすぐ隣をカレンがのしのしと歩いている為、異様な印象は変わらない。
「君は?」
「ジェローム・ガビアル・クック博士です。この度はプロジェクト参加への要請、ありがとうございました。身に余る光栄です。」
深く一礼する彼の横で、カレンが世界王を見上げる。
無機質な印象を与える爬虫類独特の瞳だったが、妙に愛嬌があった。
「彼女はカレン。私の精霊です。」
ジェロームはそう言って優しくカレンの背を叩く。
挨拶だ、とでも言うようにカレンは小さく鳴いた。
そしてすぐにジョアンへと目を戻す。
「あの子がレインボードラゴン・・・驚いたな、人間とほとんど変わらない。翼も角も出ていない・・・ここまで完璧に人型を取る精霊は初めて見ました。」
若葉色の瞳は面白いものを見つけたように輝いたが、決して研究対象を観察するような、嫌なものではなかった。
純粋に感心しきった様子で、ジェロームは腕を組む。
「君はあれを精霊と呼ぶのだね。」
「私の考えでは、魔物なんてものはいません。何が善で何を悪に分けるかなんて、人間の勝手ですから。」
ジェロームは少し真剣な面持ちになった。
本来、精霊と魔物は同種の存在で、ただ単に呼び方の違いしかない。
通常は人間に友好的なものを精霊と呼び、人間に敵対するものが魔物と――軽蔑の意を込めて呼ばれるのだ。
レインボードラゴンは神の二つ名を持つことから、精霊と呼んでも差し支えないはずだったが、彼らは闇を信仰する帝国と敵対する光の眷属。
帝国人からすれば、彼らもまたこの上なく邪悪な「魔物」なのだ。
「控えろクック。陛下の御前だぞ。」
「Sorry!出過ぎたことを言いました。」
上司からの非難にも悪びれた様子もなく、ジェロームは肩を竦めてみせた。
ルビーとハネクリボーの入った小型カプセルを助手から受け取ると、ぽつりと付け加える。
「ただ我々が精霊と呼ぶ存在と・・・あの子にどんな違いがあるのかと疑問に思っただけですよ。」
「検査って今まで嫌いだったけど、話し相手がいると楽しいもんだな!」
「お前が一方的にしゃべっているだけだろう。」
「え―そうかぁ?カードのことになると結構喰いついてたぞお前。」
そう言われればそうだったかもしれない。
どうにも自分は――決して認めたくないのだが――ジョアンを前にすると子供っぽくなってしまうような気がする。
先程もそうだ。
人前であんなに感情感情的になることなど滅多にないというのに…みっともないことこの上ない。
いや。
あれは明らかにジョアンが悪い。
人前であんな…裸…。
思い出した途端、頬が熱くなった。
「やっぱりお前が悪い!!」
「覇王は怒ってばっかだなぁ。」
「いつもは違う!」
前後関係のわからない糾弾をされても、ジョアンは気分を害した様子もなく、のほほんと笑っている。
覇王は額を抑えた。
どんどんジョアンのペースに引き込まれている気がしてならない。
このままではダメだ。
「やあ、君がジョアンか。Hello!ドラゴンガール!」
真剣に自分の今後について悩み始めた覇王の視界に入ってきたのは、ワニを連れた長身の男だった。
その腕にはルビーとハネクリボーが抱きかかえられている。
「ルビー!ハネクリボー!」
「両名とも特に異常なし。至って健康体だよ。」
小さな魔物達はジョアンを見るや否や、彼女の胸に飛び付いた。
男はその様子を微笑ましそうに見ていたが、ややあって覇王に向き直ると敬礼する。
「…貴様は。」
「ジェローム・ガビアル・クック博士です。本日付で特務科学部門に配属されました。」
「よろしくな、おじさん!」
元気に言い放たれたジョアンの一言に、ジェロームは衝撃を受けたようだったが、咳払いと共になんとか踏みとどまった。
せいぜい二十代後半くらいだろうから、まだ「おじさん」というには若すぎるだろう。
「今度から俺が生態調整を担当するからね。あと、もう一人・・・。」
「失礼します。」
小柄な少年がジェロームの隣に並ぶと、ぎこちなく敬礼する。
「レイといいます。どうぞよろしく…。
あ、覇王様、この前はどうも…。」
「ああ。」
覇王は先日の人生最初で最後とも言える給食を苦々しく思い出した。
「レイはいつも私の弁当を作ってくれるんだ。料理得意なんだぜ。」
「あ、あと錬金術も担当してます。」
おずおずと少年の口から発せられた言葉に、覇王は首を傾げる。
「錬金術?」
「ええ。この研究所は最先端の科学だけじゃなくて、そういうものも扱ってるんです。今僕が研究しているものは、精霊や魔物の魂を他の媒体に保存して、自在に操って使役するというとても画期的な・・・。」
レイはそこまで言いかけて、おそらくジョアンに気を遣ったのだろう、口を噤んでしまった。
魂をどこかに閉じ込めて利用されるなど、確かに精霊や魔物達に聞かせられた内容ではない。
しかし当のジョアンは「へえ、そんなこともできるのか!」と、にこにこしている。
気を遣うだけ無駄だったらしい。
どちらにせよそんな非科学的なことにまで予算を割くとは、帝国政府も暇人の集まりだ。
「まあとにかく、これからよろしく頼むよ。」
「ああ!」
ジョアンはジェロームの手を握ると、覇王にしたように、遠慮なくぶんぶんと降る。
覇王と違ったのは、彼がそれを笑顔で受け止めたことだった。
「そうだ、ジョアンちゃん。もうそろそろ戻らなきゃダメだよ。」
「診断開始からもう二時間か・・・。うん、戻った方がいいな。」
「えー・・・。」
時計を確認するジェロームとレイに、ジョアンは子供っぽく口を尖らせる。
帝国はもともと光の波動に満ちた環境ではない。
まだ生態系に謎の多いレインボードラゴンの生息が可能かわからない以上、長居はさせられなかった――ジョアンが捕虜であることもあったが。
「嫌そうな顔しないの!ここにいたら君の体にも良くないんだから。さ、着替えて。」
「ちぇっ。わかったよ。」
ジョアンが渋々と検査服の裾を持ち上げた瞬間、覇王は素早く彼女を近場の部屋に放り込んだ。
また裸になれられたら困る。
「特に異常はないと思うけど、万が一の時はもう一回来てもらうよ。」
「なんか異常があったらいいのに。」
「僕らは良くないよジョアンちゃん…。」
砂浜に降り立ったジョアンのぼやきに、レイは溜め息をつく。
ジョアンはルビーとハネクリボーを抱いて白い砂浜に降り立つと、もう一度覇王達を振り返りしばし佇む。
しかしもう一度急き立てられると、今度こそ踵を返して歩き出した。
自然環境を模しているとは言え、5年も地下に幽閉されるというのは、あの人好きのする少女には辛いことなのではないだろうか…。
彼女の後ろ姿を見ながら覇王はそんなことを考えて、頭(かぶり)を振った。
ジョアンはレインボードラゴンで、人ではない。
強大な力を秘めた未知の生命体なのだ。
一歩間違えばこちらが危険になる可能性がないとも言い切れないのだから、念には念を入れて管理した方が良いし、その上捕虜なのだから、監禁されても文句は言えない。
これは然るべき対応だ。
自分は何て馬鹿なことを考えたのだろう。
職業軍人が聞いて呆れる。
完全に扉が閉ざされた後、覇王は踵を返した。
漆黒のマントを翻す息子の姿を見て、世界王が呼び止める。
「どこへ行くのだ。」
「仕事です。」
それ以上に何があるというのか。
相手を切るような鋭い口調で返答して、覇王はエレベータに乗り込んだ。
地上に着くまでの間、苛立たしげに剣の柄を弄う。
「最悪だ…。」
あの竜のせいで調子が狂いっぱなしだ。
馬鹿なことを考えたり、したりしてしまう。
まるで昔の…子供の頃のように。
冗談じゃない。
今までなんの為に感情を殺して、勉学と修練に打ち込んできたのだ。
俺はもうあの頃の子供じゃない。
俺は成長したんだ。
画面に映し出された少女の立体映像を指しながら、研究員は世界王に向き直った。
「健康体です。念願の実験も可能になりそうですね。」
「そうだな・・・。」
研究員の報告に、世界王は気の進まない様子で頷く。
ジョアンを定期的に診断するのは、地下世界の環境を整える為にも必要だったが、もう一つ大切な理由があった。
――生物実験と繁殖実験。
レインボードラゴンを兵器化し、増やすこと。
5年前に帝国がレインボールインを滅ぼした時、世界王と一部の重臣達は斎王を除く上級士官達にある命令をしていた。
レインボードラゴンを――特に雌は繁殖用に殺さず生け捕れ、と。
最終的に襲いかかってきた方のレインボードラゴンはやむを得ず殺してしまったが、雄だったので特に問題視されず、斎王が雌を捕獲したことで、当初の計画通りに事は運んでいった。
この施設に収容された時から、ジョアンには数年後の実験を目的とした調整を施してきた。
長年の計画がもう少しで遂行されるというのに、世界王は晴れない表情でカルテを見直す。
以前の世界王ならば、なんの躊躇いもなく計画を進められただろうが…それは若干の同情があったとは言え、ジョアンを動物として、サンプルとして見ていたからできたことだ。
今、世界王の中のジョアンは動物でもサンプルでも、兵器でもない。
覇王の友人だった。
心を閉ざしてしまった息子がようやく得た、たった一人の友達。
それを奪うことなど、世界王には到底できそうになかった。
だが自分にそれを止める権利はない。
数世代に渡って施設、軍への資金を援助してきた貴族、重臣…彼らが許さないだろう。
帝国は王国と比べて確かに統治者の権限は多いが、歴史が長いとなると皇族の弱体化も、臣下の腐敗も進む。
どんなに濾過し、汚れを取り除いた水でも、たった一滴の油で呆気なく澱み、清廉さを永遠に失ってしまうように。
下降するのは容易いのに、上昇するのはこんなにも難しい。
だから子供達にもそんな思いをさせまいとあらゆる手を尽くしてきたが、それは単なる自己満足に終わった。
特に、覇王は…自分が追い詰めてしまったようなものだ。
「…それでいい。何もかも、計画通りに進んでいる。」
自分に言い聞かせるように――無力な皇帝は、力なく頷いてみせた。
『誰一人として逃れられぬ定めを受け入れろ。』
『お前の使命を全うせよ。』
『運命に、従え。』
ごとりと本が机に当たる音で斎王は目を覚ました。
まだ昼前だというのに、転た寝してしまったらしい。
…誰かに呼ばれたような気がする。
斎王は、未だはっきりしない目元を擦った。
夢の中で何者かに何かを言われた気がしたのだが、それがなんだったのかさっぱり思い出せない。こういうことが起こるようになったのは数年前からだ。
別にただの夢だからどうでもいいのだが。
閉じた本を戻そうとした時、それに挟まっていた手紙が床に落ちてしまい、慌てて拾う。
それは斎王の滞在していた神殿からのものだった。
斎王は手紙にしろなんにしろ紙類を近くにある本に挟んでしまう癖がある。
大切な書類を挟んで姉に酷く叱られたこともあり、なるべく気をつけてはいるのだが、それでも無意識のうちにやってしまうことがあった。
自分に呆れながら、既に切られた封から薄い紙を取り出すと、視界に彼の面倒を見てくれた女司祭の流麗な文字が広がる。
何か変わりはないか。
きちんと食事をとっているか。
神の戒めを守っているか。
その他事細かに生活のことを色々と。
斎王は彼女のことを自分のもう一人の母親のように思っていたから、こういった便りは嬉しかった。
それと同時に、遠く離れた土地が恋しくなる。
神殿は、生まれ故郷以上に斎王が安心していられる場所だった。
そこには弟の悪口を言う者はいなかったし、醜い権力争いに巻き込まれることもなかった。
…現実逃避できる場所だったのかもしれない。
全てを忘れて。
全てから逃げて。
そうして今、再び様々な思惑が絡みあった世界に飛び込んだ斎王は、神殿を恋しく思っている。
情けないことだとは、思う。それでも。
「帰りたいな…。」
斎王がそう呟いた時、扉が軽くノックされた。
皇族の部屋を尋ねるには軽快過ぎるそれで、すぐに見当がつく。
「どうぞ、スワルナ=パクシュ少尉。」
「どうも。失礼するよ。」
銀髪の青年――エドは、軽く挨拶して片目を瞑ってみせる。
あまりにも気安い態度の為、これではどちらが皇族かわからない。
「今日はどうしたんだ?また仕事の愚痴でも?」
「いや、残念ながら違うんだ。」
勧められた椅子に腰掛けて、エドは足を組む。
「実は今度の軍のパレード。君の弟と一緒にやることになった。」
「本当か!よくお祖父様が赦したなぁ…。」
思わず破顔した斎王とは反対に、エドはつまらなそうだった。
淹れたての紅茶を一口啜ると肩を竦める。
「要するに、弟君に近付いてこいと上層部は言いたいのさ…この僕にね!」
「成程ね…。お祖父様らしいけど。」
斎王は苦笑する。
結局あの後も、斎王はジョアンの件について父とは話さなかった。
祖父は斎王にジョアンと面会するよう言ってきたが、そんなあからさまなことをすれば、覇王一派を煽るだけだという理由をつけて却下した。
会っても良かったのだが、斎王はレインボールインに攻め込み、滅ぼし、彼女を捕虜にした張本人。
ジョアンに対して多大な罪悪感がある為、正直会うのが苦痛だったのだ。
最近ジョアンは覇王によく懐いているというから、祖父達はそれを勘繰ってエドに偵察を命じたのだろう。
「しかし、何故君が選ばれたんだ?君の家はこちらの陣営で有名だし…それだけでも充分に警戒される要素だろう。それに覇王は賢いから、おべっかが通用するとも思えない。」
「大活躍して弟君を牽制してこい、といったとこかな。調子にのるなってね。」
「…穏やかじゃないな。」
「スパイみたいな真似をするよりはマシだろう。」
エドは机にカップを置くと、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、パレードに使う飾りの一つなんだけど…あれは君のいた神殿にあった物に似ている。ええと確か…。」
エドが言わんとしているものが何か、すぐにわかった。
「七精門のことか。あの飾りはそっくりそのままレプリカにしたものだからね。似ているのも無理はない。」
七精門とは、斎王のいた神殿の前にある、昔儀式に使われたという柱の集まりだ。
初めは門にしたつもりはなく、ただ長い七本の柱が打ち立てられただけのものだったが、後の時代にその後ろに神殿が建てられ、あたかも門のように見えることから、そう呼ばれる。
「なんでも昔は生け贄を捧げたりして、神の到来を願ったらしい。」
「無知とは恐ろしいな。儀式だか魔術だか知らないが、そんなものを信じて捧げる必要なかったろうに…。科学主義の文明に生まれてよかった。」
それに同意しかけてから、ふと斎王は、あの地下施設では七精門のことも研究対象に入るのだろうか、と疑問に思った。
オリハルコンの眼を造ろうとしているくらいだから、ひょっとしたらとっくに調査済みかもしれない。
それ以前に、あれにそこまでの価値はないだろう。
ただの飾りだ。
そうして別の話題に移りながら、斎王の中で七精門の話は隅に追いやられ、それについて考えることをやめてしまったのだった。
白刃が、風を切る。
一定のリズムで続けられていたそれは、やがてどんどん遅くなっていき、ついにはぴたりと止んだ。
覇王がじっとりと滲んだ汗を拭いていると、ユベルが飲料水を手渡す。
『少しはお休みになって下さい…。』
「これくらいどうということはない。」
愛剣を鞘に納めると、覇王は鷹揚な態度でそれを受け取った。
いかに剣術が趣味と言っても、始めてから悠に二時間は経過している。
その間休まず一心不乱に剣を振るう覇王の様子に、ユベルは心配になってしまった。
彼がこうして鍛錬に打ち込む時は、大抵何か不快なことがあった時だ。
覇王が汗を含んだインナ―を目の前で脱ぎ出したのを見て、慌ててユベルは後ろを向く。
――彼は本当にもう少し気を使うべきだ。
まったく変なところが子供っぽいのだから。
「・・・何をしている。」
『いえ、あの。ボクの前で着替えは、ちょっと・・・。』
ごにょごにょと言い澱んでいると、覇王の舌打ちが聞こえた。
「俺も、あいつと同じということか。」
『あいつ?』
「ジョアンだ。レインボードラゴンの。」
覇王はふてくされたような口調で言い放つと、ユベルの用意した椅子に腰掛けた。
それを聞いてああ、とユベルは納得した。
ここ最近覇王が不調だったり不機嫌だったりする(それにしては満更でもない様子だったが)時は、必ずと言っていいほどその名前が出る。
ユベル自身は彼女に会ったことはないが、覇王の話をもとに適当な人物像を――この場合人と言っていいのか疑問だったが――描いていた。
つまり「覇王と同年の、青色の猫毛をした変わり者」を思い浮かべていた。
『また彼女が何かやらかしたのですか?』
純粋に気になって尋ねると、覇王が飲料水のボトルを叩きつける勢いで机に置く。
「・・・思い出させるな。」
『し、失礼しましたっ。』
自分で言っておいて・・・と理不尽に思ったが、胸の内に留めておく。
今日は生態検査に立ち会ったという話だが、余程酷い目に遭ったらしい。
今までにない機嫌の悪さだった。
「人妖」「殺人兵器」「黒い悪魔」
「覇王」の字なの他に数々の異名を持つ彼を恐れず、且つ手こずらせるとは、さすがはレインボードラゴン・・・神の名を持つ伝説の竜だ。
ここまでくると呆れを通り越して感心する。
「ユベル、今度の軍のパレードで俺の副官を務める奴は誰だ。」
忌まわしい出来事を忘れようとしているのか、膝に肘をついて顔を覆いながら覇王が尋ねる。
「スワルナ=パクシュ少尉です。あの有名な。」
「斎王派か・・・面倒なことになりそうだ。」
覇王は顔を覆ったまま、息をつく。
エドモント・スワルナ=パクシュ。
文官の多い家系の中で珍しく武官になり、その明晰な頭脳で以って異例の出世をした若者。
宰相一族の遠縁にあたるスワルナ=パクシュ家は、何か皇族の間でいざこざがある度に、彼らの援護をしてきた。
故に現当主のエドモントも例外に漏れず、そうでなくても斎王の親友であるため、必然的に宰相派の一人として名を連ねている。
以前遠くから見たことがあったが、背中まで長く伸ばした髪といい、人を小馬鹿にしたような態度といい、覇王の好まない部類の人間だった。
彼が副官として選ばれた大方の予想はついている。
おそらくはジョアンのことだろう。
いつも世界王に半ば強制的に連行される覇王としては迷惑この上ない話だったが、宰相一派はすっかり彼がレインボードラゴンを手中に納めようと、父に取り入っているものと思い込んでいる。
覇王の性格を考えればそんなことは絶対にあり得ないというのに。
『どうなさるおつもりですか?』
「どうにもしない。好きに泳がせるさ。」
そう言い切ると、覇王は立ち上がって再び剣を抜いた。
刃は人工の光の下で、光の加減によって赤や青に煌いて、幻想的な美しさを醸し出していた。
刀身に汚れや傷はなく、これまで数百人という人間の血を吸ってきた剣とは思えない。
『いつ見ても不思議な輝きですね・・・オリハルコンというのは。』
「合金だがな。」
13歳の誕生日に、覇王の名と共に父から送られたもの。
貴重なオリハルコン分子を練った特殊合金で作られた剣だった。
覇王はさして剣やオリハルコンに興味はなかったが、これは使い勝手がいい方だと思う。
初陣から数えて3年、あらゆる戦で多用してきたにも関わらず、全く衰えが見えない。
皇族お抱えの研ぎ師が、定期的に研ぎ直しているおかげもあるだろうが、それにしても頑丈だ。
帝国におけるオリハルコンの登用が急増したのは数年前で、それによって軍事力は飛躍的に上がった。
どこかで鉱脈でも発見したのか・・・入手元を知っているのは世界王や上層部の一部の者達だけで、覇王は知る由もない。
背筋をまっすぐに伸ばすと、再び剣で風を切り始める。
わからないことだらけだろうが関係ない。
ただ自分はこの力と共に進んでいくだけだ。
俺はもうあの頃の愚かな子供ではないのだ。
覇王の背を見つめていたユベルは、静かに闇に溶けていった。
飛び散る血しぶき。
人々の怒号。
剣が肉を裂く音と、銃弾が臓器を破壊する音。
炎と地響き。
返り血に塗れて広間に立っている、あの男は
。
「―――ッ!!」
斎王は勢いよく飛び起きた。
手足は震え、心臓は煩く早鐘を打っている。
――なんだ、今のは。
悪夢というものを見るのは久しぶりだった。
なにもかもが現実味がある、不気味な夢。
人間の焼ける匂い、耳をつんざくような悲鳴・・・鮮血・・・。
ただの夢じゃないか。
私は何を恐れているんだ。
斎王は自分の神経の惰弱さに苦笑しながら、手元の明かりをつける。
すっかり目が覚めてしまった。
まだ夜中のようだったが、とてもではないがもう一度眠る気になれない。
読書でもして朝を待とう。
やっとの思いで机に辿り着くと、ふとしたはずみで脇に束ねておいたカードが落ちてしまった。
緩慢な動作で屈んだ斎王は、何気なく表に返したカードを見て、思わず強張った。
漆黒の衣を纏った髑髏頭の男が、不気味に笑いながら鎌を大地に突き立てている。
その正位置が意味するものは。
「死・・・?」
問うたところで誰が答えてくれるわけでもない。
斎王の不安を含んだ声は、夜の帳の中に消えていった。
to be continued