花柳/B


「あ、大石さんおはようございまっす!」

花柳館の扉を開いた瞬間に俺はそのことを軽く後悔した。
「…お前だけかい。」
「そうなんすよ~。今一人で留守を任されて暇だったんです。」
少し前に花柳館の食客になった野村利三郎は嬉しそうに笑いながら俺の手を引き、無理やり無人の館内へ招き入れた。
正直、あまりこいつとは関わりたくない。
俺がどんな男か知らないわけでもないくせにこんな風に笑って、警戒もなく傍に寄ってくる。

「話し相手になって下さいよ。」
「…どうして俺が。」
「良いじゃないっすか、本当俺一人で退屈だったんすから!」
にこにこと屈託のない笑顔を浮かべる男に隠すつもりもなくため息をつく。
それでも笑顔は曇らないんだから、面倒だ。

「退屈なら手合わせでもしようか。一度お前の実力、見てみたかったんだよねえ。」
この流れになれば誰だって顔をしかめて、俺と会話を終わらせようとしてくる。
世間話なんかで時間を潰す気はないからさっさと俺に飽きてほしかった。
「俺に興味持ってくれるのは嬉しいっすけど、まだ死にたくはないんで遠慮します!」

笑顔で言ってのけるなんて、なんのつもりだ。
意図的かとも思ったが、こいつにそこまで深い考えがあるようにも見えない。
「お前…。」
呆れつつ、言葉を発するとなぜかここで顔をしかめられた。
「大石さん、俺の事呼び捨てで良いからお前、じゃなくて名前で呼んでくれません?」
いきなり何を言うのかと思えば。
どことなく真剣な表情で言うほどのことなのか。
「別に、機会があれば呼ぶけどね。」
表情の変化がおかしくて喉の奥で笑いながら言って。
言って、気づいた。

別に名前を呼びたくなかったわけじゃない。
他に人がいる前でならきっと名前で呼ぶだろう。
…つまりはそれだけ、この男と二人でいる機会が多いという事?

ちらり、と視線を向けると俺の返事に嬉しそうな顔をしている。
「でも、お前っていうのも親しい感じで悪くないっすよね。」
…全く、調子が狂う。
もう何も言う気になれず、またため息をつく。
「あれ?お疲れっすか?」
「お前の相手をしてるからね。」
「うわ、ひどっ。」

…これ以上つき合えるかと、扉へ向かう。
「そうだ大石さん。」
もう聞きたくなかったが着物をぎゅっと掴まれてしまったので、仕方なく立ち止まり振り返る。
「鍬次郎さんって呼んでもいいっすか?」
「嫌だね。」
「俺のことも利三郎で良い…って拒否早すぎっす!」

俺の前で、ころころと変化する表情。
「咲彦くんには呼ばせてるのにずるいっす!」
あれは別に許可したわけじゃないんだけど。
たかが呼び方に、なぜそんなに拘るのか。
ぎゃーぎゃーと文句をつけ続けるのがうるさくて、耳元に口を近づけて低くささやく。
「利三郎…。」

とたんに文句はやみ、顔を真っ赤にして耳元を押さえた。
予想通りの反応に口元をつり上げる。
「くくっ…好きに呼べば良いさ。」


お前に呼ばれるのは嫌いじゃないみたいだから。
一体どこまで、お前は俺の中に踏み込んでくれるのかな。
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