花柳 野倫
笑う。
いつでも笑う。
そして私には決して弱さを見せてはくれないから、いつしかその笑顔が壁であるように思えた。
道場の隅で、野村さんと相馬さんが何か言い争っていた。
多分相馬さんを誘ったけれど断られて、野村さんが文句を言っているのだろうとわずかに聞こえる声を頼りに一人稽古をしながら予想する。
ちらりと様子を窺うと、野村さんは拗ねたような表情を浮かべていて。
ああ…何だか悲しいな。
私には決して向けない表情。
そうこうしているうちに相馬さんは道場を出ていって、残された野村さんは小さくため息をついてからくるりと私を振り返る。
近寄ってくる時にはもう笑顔が浮かんでいた。
「ねえ倫ちゃん、稽古終わったなら一緒に出掛けない?」
目の前で無邪気に笑う野村さんが、無性に悲しかった。
「倫ちゃん?」
「…野村さんはどうしていつも笑うのですか?」
「え?」
…こんな質問はきっと無意味だ。
それでも聞かずにはいられなくて。
「相馬さんには怒ったり拗ねたり色んな顔をするのに…。」
「だって相馬と君じゃ、全然違うだろ。」
思案する事もなく、当然とばかりに与えられた答えは分かっていても残酷に響く。
私は野村さんに少しは親しくしてもらっている気でいたけれど、そうではなかったのだろう。
色んな表情を見せるほどの相手ではない。
そう言う…。
「違う違う!そんな意味じゃないから!」
私の考えを見透かしたように、野村さんは慌てて言った。
どこか照れているようにも見える。
「だからね…。俺はさ、君を見ると笑っちゃうんだよ。」
「…?」
「倫ちゃんに会えたのが嬉しいから、笑顔以外の顔が出来ないんだよね。」
改めて向けられる笑顔は、他の誰に対してより優しくて嬉しそうな気がして、顔が熱くなった。
「でもそれが気になるなら、頑張って違う顔もしようか?」
「いえ…。良いです。笑っていて下さい。」
だってやっと気付いたから。
いつも私の前で浮かべられる笑顔が壁のように感じていた。
だけどそれは壁でも何でもなくて。
私だけの、特権。