赤ちゃんがやってきた

 前の主様がまだご存命だったときの話。

 主様がこちらの世界に来たときには、既にご懐妊されていた。
「あはは、シングルマザーなの」
 元気よく笑っていらっしゃったけれど、ある夜、俺は夕方の見張り台で見てしまった。主様が少し膨らんだお腹を大事そうに撫でながら「ごめんね」と話しかけていらっしゃるところを。
「私まであなたを置いていっちゃう。でもきっと大丈夫。みんながあなたのことを育ててくれるって信じてるから」
 その言葉に思わず息を飲んだ。主様まで生まれてくる赤ちゃんを置いていく? どういう意味なんだろうか。見張り台へのドアに手をかけたままお声をかけあぐねていると、主様の方からこちらに近づいてきた。
「あれ? フェネス。何してるの?」
「あ、ああ、主様! お部屋にいらっしゃらなかったので探していました」
 俺は、もしかしたら主様にとって開けられたくない箱の中を覗いてしまったのかもしれない。少しだけ決まり悪そうに苦笑した主様は人差し指を俺の唇の前に立てた。
「あはは、聞いちゃったよね。別に隠すつもりもないから話すけど、この子の父親は事故で呆気なく死んじゃったし、私もマタニティーブルーなのかな、なんか生きているのがしんどくて。……でもこんな暗い話は私っぽくないから、他の執事たちにはナイショにしておいてほしいな、なぁんて」
 そう言って笑った主様はほんの少しだけどやつれているように思えて、俺はその小さな身体を咄嗟に抱きしめた。
「主様、つらいですよね……どうかひとりで抱え込まないでください。泣きたいときは俺でよければを呼んでください。頼りないかもしれませんがいつでもお側にいますから」
 なめらかな栗色の髪は夕闇色に染まっていく。それが余計に主様の抱える心の闇を深めるような気がして、俺は自分の体温を移すかのように何度も何度も指で梳いた。慟哭するほど泣いた主様を見たのは後にも先にもそのときだけだった。

 お腹がすっかり大きくなった頃、主様はコンサバトリーでフルーレに習って赤ちゃんの靴下を編むようになった。俺だって本の知識だけだけど、編み物は知っている。知っているけれどフルーレに敵うはずもなく、やきもきしながら談笑しているふたりを視界の端に捉えて、その会話を一言一句漏らさず耳をそば立てるより他なかった。
 フルーレが席を立ったわずかな時間に、主様が俺を呼んだ。
「いかがなさいましたか?」
 すると俺の手を自分のお腹に導いて、主様はからからと笑う。俺の手のひらにはぽこぽことした感触が伝わってきた。
「今日はとびきり元気なの。きっと私に似てお転婆だと思うわ。多分フェネスが手を焼くような親子になるから、先に謝っておくね」
 そう言った主様はまったく申し訳なくなさそうに、またからからと笑った。

 俺は主様に執事として以上の想いを寄せていた。しかし一目惚れの片想いだったそれは、花開くことなくあっけなく散ってしまう末路を辿ることとなる。

 主様は女の赤ちゃんを産むと一ヵ月足らずで亡くなってしまった。もちろんルカスさんは打てる手は全て打った。それでも主様を、彼女を助けることができなかった。
 最期に主様は俺を枕元に呼んだ。
「赤ちゃんをお願い」
 そう言い遺すと、一筋の涙を流して逝ってしまった。俺はその光景を、おそらく一生抱えながら生きていくことになるのだろう。

 主様の埋葬後、天使狩りをする執事たちがいる環境に、主様が遺していった赤ちゃんを置いておくのは危険だという意見も出た。けれど俺はここでお育てしたいと、自分でも驚くほどきっぱりと意思表示して、ハナマルさんも育児経験があるから俺に任せておけと言ってくれた。主様が俺たちを信頼して託した命。何が何でも守りたいと思ったし、そのためであればハナマルさんへの協力を惜しむつもりはない。結局話し合いで俺の熱量に他の執事たちが折れて、デビルズパレスでお育てすることが決まった。
 しかし、ここで想定外のことが起こった。ハナマルさんがいくらあやしても泣き止まない赤ちゃんが、俺が抱っこするだけでぴたりと泣き止むのだ。
「こりゃあフェネスが中心になって育児した方が手っ取り早いな」
 ハナマルさんは早々に育児から手を引き、主に俺がお世話することになってしまった。
後に主様となる赤ちゃんの、お母さんの話
(このシリーズはユメショではありません)

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