目の前には誰がいる?
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エスポワールの街にある、とある屋敷で演奏会があるとのことで、その招待状をミヤジさんから貰った。
「ラトくんと一緒に行こうかとも思ったんだけど、生憎その日は他に用事があってね。主様と行ってくるといいよ」
そういうわけで、今、俺と主様は馬車に揺られている。
「フェネス、今日はいつもと違う匂いがする」
主様はそう言って、鼻をスンと鳴らした。
「いつも使っているヘアオイルの香りと喧嘩しないフレグランスをつけてみたのですが……おかしいでしょうか?」
主様は少しだけ面白くなさそうに唇を突き出した。
「フェネスだけずるい」
思いがけない反応に、瞬きの回数が増えてしまう。
「そんな楽しそうなこと、ひとりだけずるい。私もフェネスの香りと調和する香水が欲しかったなー」
「あ、ああ、主様⁉︎」
思っていた以上の反応に、俺の顔に熱が集まる。
「音楽会まで時間があるから、香水屋さんに立ち寄ってもいい?」
主様の言葉は、多分何でもなければ嬉しかったのだろう。でも、
「いけません!」
それは自分でも驚くほどの声量で、主様以上に俺がぽかんとした。
「す、すみません、大声を出してしまって」
謝ることしかできない俺に、今度は主様が声を荒げる。
「なんで! なんでダメなの⁉︎」
「それは……その、執事と主がそのようなこと、許されるはずが……」
俺の言い訳は、しかし思いがけない方面から切り崩された。
「お母さんだったらよかったの?」
「——え……」
その言葉は俺の胸に突き立った。
「私が気づいてないと思ってた? フェネスはちっとも私のことを見てない。私を通してお母さんの面影ばかりを追いかけてる」
俺は絶句するより他ない。
主様の言う通り、俺は、俺は——
「あのね、私はフェネスを追い詰めたり謝罪の言葉を要求したいわけじゃないの。そんなことに何の意味も価値もないもの。
そうじゃなくて、私はあなたの心が欲しい。ねぇフェネス? 私はあなたのことがずっと前から好きでした。それは今でも変わらない。フェネスの気が変わるまで伝え続けるんだから」
あぁ、俺は主様になんて失礼なことをしてきたのか。
「ほ、本当にすみません、俺、主様が前の主様に似ていくことが怖かったんです」
降参して、俺は抱えてきた心の一部を解放することにした。
「確かに俺は前の主様に……執事以上の感情を持っていました。そして——日に日に主様が前の主様に似ていって、また恋をしてしまうんじゃないかと怯えていました」
「なんで? どうして恋をしてはいけないの?」
「主様が、また俺のことを置いて逝ってしまうのが悲しくてつらくて、俺、どうしていいのかわからなくて……」
あぁ、そうだ。あの日の日記にも書かなかったし書けなかったけど、あの日一日が本当に悲しかったんだ。赤ちゃんを託されて泣いてばかりいられなかった。でも本当は主様の部屋の、そこかしこにある前の主様の残像と残り香がただただ切なかった。
そして今日俺がつけている香水は、前の主様の香りの邪魔にならないと思って選んだもの……。
香りは記憶に結びつく。
俺は今の主様を通して、前の主様との擬似的なデートを楽しんでいただけなんだと思い知る。
思い出せば思い出すほどに自分の馬鹿さ加減に泣けてきた。俺はなんて愚かで卑怯な男なんだ。今の主様は前の主様とまったくの別人格だというのに。そのことを今更痛感するだなんて。
ほろほろと涙をこぼす情けない俺に、主様はこう声をかけてくださった。
「いい? フェネス。確かに私はあなたほど長生きできない。多分私の方が先に死んじゃう。でもね、だからこそ楽しい思い出ばかりをあなたの心に詰め込みたいの。そんな都合のいい話、ダメかな」
涙声の主様にハンカチを差し出して、俺は手の甲で涙を拭う。そのハンカチには、前の主様が使っていたものと同じ香水をつけていて……今度はこの香りが、俺と今の主様との思い出に結びついていくのだろう。
ずいぶん前に馬車はエスポワールに着いてしまっていたけど、御者台にいるハウレスが声をかけてくることはなかった。
「ラトくんと一緒に行こうかとも思ったんだけど、生憎その日は他に用事があってね。主様と行ってくるといいよ」
そういうわけで、今、俺と主様は馬車に揺られている。
「フェネス、今日はいつもと違う匂いがする」
主様はそう言って、鼻をスンと鳴らした。
「いつも使っているヘアオイルの香りと喧嘩しないフレグランスをつけてみたのですが……おかしいでしょうか?」
主様は少しだけ面白くなさそうに唇を突き出した。
「フェネスだけずるい」
思いがけない反応に、瞬きの回数が増えてしまう。
「そんな楽しそうなこと、ひとりだけずるい。私もフェネスの香りと調和する香水が欲しかったなー」
「あ、ああ、主様⁉︎」
思っていた以上の反応に、俺の顔に熱が集まる。
「音楽会まで時間があるから、香水屋さんに立ち寄ってもいい?」
主様の言葉は、多分何でもなければ嬉しかったのだろう。でも、
「いけません!」
それは自分でも驚くほどの声量で、主様以上に俺がぽかんとした。
「す、すみません、大声を出してしまって」
謝ることしかできない俺に、今度は主様が声を荒げる。
「なんで! なんでダメなの⁉︎」
「それは……その、執事と主がそのようなこと、許されるはずが……」
俺の言い訳は、しかし思いがけない方面から切り崩された。
「お母さんだったらよかったの?」
「——え……」
その言葉は俺の胸に突き立った。
「私が気づいてないと思ってた? フェネスはちっとも私のことを見てない。私を通してお母さんの面影ばかりを追いかけてる」
俺は絶句するより他ない。
主様の言う通り、俺は、俺は——
「あのね、私はフェネスを追い詰めたり謝罪の言葉を要求したいわけじゃないの。そんなことに何の意味も価値もないもの。
そうじゃなくて、私はあなたの心が欲しい。ねぇフェネス? 私はあなたのことがずっと前から好きでした。それは今でも変わらない。フェネスの気が変わるまで伝え続けるんだから」
あぁ、俺は主様になんて失礼なことをしてきたのか。
「ほ、本当にすみません、俺、主様が前の主様に似ていくことが怖かったんです」
降参して、俺は抱えてきた心の一部を解放することにした。
「確かに俺は前の主様に……執事以上の感情を持っていました。そして——日に日に主様が前の主様に似ていって、また恋をしてしまうんじゃないかと怯えていました」
「なんで? どうして恋をしてはいけないの?」
「主様が、また俺のことを置いて逝ってしまうのが悲しくてつらくて、俺、どうしていいのかわからなくて……」
あぁ、そうだ。あの日の日記にも書かなかったし書けなかったけど、あの日一日が本当に悲しかったんだ。赤ちゃんを託されて泣いてばかりいられなかった。でも本当は主様の部屋の、そこかしこにある前の主様の残像と残り香がただただ切なかった。
そして今日俺がつけている香水は、前の主様の香りの邪魔にならないと思って選んだもの……。
香りは記憶に結びつく。
俺は今の主様を通して、前の主様との擬似的なデートを楽しんでいただけなんだと思い知る。
思い出せば思い出すほどに自分の馬鹿さ加減に泣けてきた。俺はなんて愚かで卑怯な男なんだ。今の主様は前の主様とまったくの別人格だというのに。そのことを今更痛感するだなんて。
ほろほろと涙をこぼす情けない俺に、主様はこう声をかけてくださった。
「いい? フェネス。確かに私はあなたほど長生きできない。多分私の方が先に死んじゃう。でもね、だからこそ楽しい思い出ばかりをあなたの心に詰め込みたいの。そんな都合のいい話、ダメかな」
涙声の主様にハンカチを差し出して、俺は手の甲で涙を拭う。そのハンカチには、前の主様が使っていたものと同じ香水をつけていて……今度はこの香りが、俺と今の主様との思い出に結びついていくのだろう。
ずいぶん前に馬車はエスポワールに着いてしまっていたけど、御者台にいるハウレスが声をかけてくることはなかった。
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