ヴィル監
「監督生さん。非常に言いにくいのですが……」
学園長にそう告げられ呆気なく元の世界に帰る願いは潰えた。そして私はナイトレイブンカレッジを卒業した後、小さな街に住みついた。石畳みの道が続く可愛らしい街だ。私が元いた世界で大人気のテーマパークよりも少し大きいぐらい。大きなブティックやコスメショップもないが、新鮮な野菜や果物が揃う市場やいつもいい匂いを漂わせるベーカリーがある。市場が広がる道の外れにある古いアパートが私の住居。1LDKのこれまた小さな私の城。あまり物を持っていないので暮らすのにちょうどいい。そして、このアパートの二軒先にある古本屋が私の勤務先だ。本を読むことが好きな私は幼少期から本に囲まれた仕事がしたいと思っていた。まさかこちらの世界で夢が叶うとは。人生何が起きるかわからないものだ。小さな店なので従業員は私と店長の2人だけ。店長は無口であまり喋らないけど、育てた野菜を分けてくれたりなにかと気にかけてくれている。この店には人が頻繁にやってくるわけではなく、のんびりと仕事をしている。住人は皆優しい。穏やかで充実した日々を過ごしている。
今日もひと仕事を終え、帰りに買ったほうれん草とベーコンのキッシュをメインディッシュに早めの夕飯を済ませた。そしてシャワーを浴びてから、読みかけの本を読んでぼんやり過ごす。一日中晴れる予報だったが、外では屋根を叩くように雨が降っている。ひとり暮らしだとこんな夜は心細い。今日はもう眠ってしまおうか迷っていると、突然呼び鈴が鳴った。こんな夜更けに誰だろう。怪訝に思いながらも私はネグリジェの上にカーディガン羽織って、客人を迎えることにした。
「え……」
思わず口から驚きの声が漏れた。間近で観るのはいつぶりだろう。テレビで見ない日はない───ヴィル・シェーンハイトが立っていた。美しいラベンダーに染まった毛先は濡れてている。上質なペチコートも雨に濡れて茶色く変色してしまっていた。
「ようやく見つけた」
かろうじて聞き取れた声はそう言っているように聞こえた。
「見ての通り雨に濡れてしまったの。中に入れてちょうだい」
濡れそぼった人を放っておけないという善意からか、縁を切ったはずの人に見つけられたことに気が動転していたからか。気がついたらヴィル先輩を家の中に入れていた。
「えっと…。シャワー、浴びますか?」
「そうね。悪いけど使わせてもらおうかしら」そう言ってヴィル先輩は案内した浴室に消えていった。そうだ着替え。確かクローゼットの奥に新品のバスローブがあった筈だ。古本屋の店長が引っ越し祝いにとくれたものだ。でも私には大きすぎたし、何より使うタイミングがいまいち掴めなかったため、お蔵入りとなっていた。
「ありがとう。助かったわ」
バスローブはヴィル先輩には小さかったようだ。綺麗に引き締まった腕やら脚やらが袖や裾からはみ出している。
「これってもしかして恋人の?」
「え!?いえ、それは勤務先の店長がくれたもので……」
「そう。安心したわ」
気まずい沈黙が流れる。どうしよう、何を話したらいいか分からない。重たい空気に耐えきれなかった私は口を開いた。
「お腹空いてませんか」
「いいえ」
「何か飲みます?」
「けっこうよ」
さてどうしようかとヴィル先輩の顔色を窺おうとして驚いた。今にも泣き出しそうな顔をしていたのだ。
「ずっと探していたのよ」
突然力強く抱きしめられる。
「ごめんなさい」
私は叱られた子供のように小さく言うことしかできなかった。
ナイトレイブンカレッジを卒業した後、私は懇意にしていた人たちと連絡を絶った。これ以上彼らに甘えてしまうことを恐れたのだ。みんな自分たちの力で道を歩んでいる。それが自分はどうだ。先生たちは衣食住だけでなく学習の場を用意してくれた。友達はいつも側もにいてくれた。先輩たちは陰から見守っていてくれた。彼らには時に理不尽に厄介ごとを押しつけられたが、そうやって私の居場所が作られていたのだ。無力な自分と優秀な道を歩んでいくみんなを比べては、自分に何ができるか自問自答を繰り返してきた。まずは自分の力だけで生きていかなければ。いつからかそんなあせりが生まれた。そしてその気持ちは卒業が近づくにつれて強くなっていった。就職先はどうするんだ。うちにくるか?なんて手を差し伸べてくれた人もいたけど、私は手を取らなかった。もう誰にも頼らない。いつまでも守られているだけの自分ではいられない。そう思った私は名前も知らぬ国で仕事を見つけ、身ひとつで飛び立った。
「どれだけ心配したと思っているの?」
震えた声にはっと顔を上げる。ヴィル先輩の顔にはひと筋の雫がつたっていた。
「自分の、力だけで……生きたくて」
自分でも驚くほど弱々しく呟いた。ああ、だめだ。私は少しも学生時代の自分と変わっていない。情けなくて、悔しくて、爪を手のひらに食い込ませた。
「馬鹿ね。そんなのアタシが絶対許さない」
ヴィル先輩はきつく握りしめた私の指をほどき、そして包み込むように柔らかく握った。そそのまま私と目を合わせながら跪き、祈るように呟いた。
「お願いだから逃げないで」
アメジストの双眼は凛として私をとらえた。
「離れないで、そばにいて」
「アタシを……」
ヴィル先輩の右手が私の頬をなぞっていく。
「アタシを求めて」
ふっと力が抜けていくのを感じた。もう自分を許していいんだ。こんな自分でも必要としてくれる人がいるんだ。気がつけば涙が溢れていた。ヴィル先輩は私をもう一度抱きしめて、背中を撫でてくれた。私はその胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。外では優しく雨が降り続いている。しばらくして泣き疲れた私たちは同じベッドで眠った。シングルベッドに2人でぎゅうぎゅうづめになった。狭いね、落っこちちゃうかもなんていいながら、大きな温もりに抱かれて眠った。誰かの体温を感じながら眠るのは一体いつぶりだろう。私はふわふわの相棒と最後に過ごした日のことを思い出して、また少し泣いた。それに気づいたのか、ヴィル先輩は一層きつく抱きしめてくれた。
私が目を覚ますとヴィル先輩は、既に身支度を整えていた。すっかり乾いたコートを身につけてベットに腰掛け、私を見つめていた。
「名残惜しいけど仕事に戻らなくちゃ。無理を言って出てきたのよ」
監督にドヤされるかも。そう言ってヴィル先輩は困ったように笑った。
「どうして……。ここにいるって分かったんですか?」
「……この街、アタシが初めて出演した映画で撮影した所なの」
あの時はすごく緊張したわ。ミスしちゃって、アタシのせいで何度も撮り直し。休憩時間になって、共演者のそばにいるのが居た堪れなくって、気晴らしのために辺りを散策したの。そこで出会った人がアタシに優しくこの街のことを教えてくれたわ。そして、事を成し遂げるための心構えもね。そのお陰で撮影は大成功。遅れは完璧に取り戻せたわ。その人とは今でも手紙を送ったりして、連絡を取り合っているの。近況とか、とりとめもないことが大半ね。この間受け取った手紙にはこう書かれてたわ。働き者の新人が入った。魔法が使えないのに、魔法の知識が豊富で今まで扱えていなかった魔導書まで仕入れられるようになったって。
「その人って……まさか、店長?」
私の呟きを肯定するようにヴィル先輩は微笑んだ。
「『魔法が使えないのに魔法の知識が豊富』。アタシこれを読んだ時真っ先にアンタのことが思い浮かんだのよ」
そういってヴィル先輩は私の手を握りしめる。私の手なんてすっぽり覆ってしまうほど、綺麗で大きな手。この手が取り逃がさないよう私に伸ばされていたのだ。
「必死だったわ、もう絶対に逃したくなかったから……」
「ヴィル先輩が……そんなに私のことを気に入ってただなんて知りませんでした」
「知られないようにしていたもの」
突然肩を押されて起こしていた上半身がベットに沈む。声をあげるまもなくヴィル先輩は私に覆い被さった。
「アタシ、アンタのことが大好きなのよ」
「……」
「まただんまり?」
彼は悲しそうな目をした。これだけは許してとヴィル先輩は私の口を手で塞ぎその上から口づけを落とした。
「アンタの唇はどんなに柔らかいのかしらね」
ヴィル先輩の手が私の唇をなぞりながら離れていく。まるでメロドラマだ。どこを切り取っても絵になる光景。私の頭は他人事みたいにそんなことを考えていた。
「ふふ。顔が真っ赤じゃない」
「当たり前じゃないですか!憧れの人から急にそんなことされたら……」
「本当?」
食い気味にヴィル先輩に迫られたので、慌てて訂正した。
「れ、恋愛感情かどうかは微妙なところです」
「……ふうん。そういうことにしておいてあげる」
ヴィル先輩は私の上から退くと腕時計を外した。そして、私の腕を引っ張ったかと思うと、その時計を手のひらの上に載せた。
「あの、これは一体?」
「忘れ物」
その言葉の意味を飲み込めないうちにヴィル先輩は立ち上がる。
「さ、もう行かなくちゃ。バスに乗り遅れちゃう」
「え!?待ってください!」
「あら、寂しくなっちゃったの?」
かわいいわねとおでこにキスをされる。私が口を滑らせてから自信をつけたのだろうか。
「また来るわ。今度は忘れ物を取りにね」
わざと置いていくものを忘れ物とは言わない。その言葉は玄関の扉に阻まれもう届かない。まんまと次に会うための口実をつくられたわけだ。今度ヴィル先輩が来たらお砂糖と生クリームたっぷり、カロリー無視のケーキでもご馳走してみようか。次に会った時の仕返しを考えながらカーテンを開ける。昨晩の大雨が嘘のように、憎たらしいほどの青空が広がっていた。
学園長にそう告げられ呆気なく元の世界に帰る願いは潰えた。そして私はナイトレイブンカレッジを卒業した後、小さな街に住みついた。石畳みの道が続く可愛らしい街だ。私が元いた世界で大人気のテーマパークよりも少し大きいぐらい。大きなブティックやコスメショップもないが、新鮮な野菜や果物が揃う市場やいつもいい匂いを漂わせるベーカリーがある。市場が広がる道の外れにある古いアパートが私の住居。1LDKのこれまた小さな私の城。あまり物を持っていないので暮らすのにちょうどいい。そして、このアパートの二軒先にある古本屋が私の勤務先だ。本を読むことが好きな私は幼少期から本に囲まれた仕事がしたいと思っていた。まさかこちらの世界で夢が叶うとは。人生何が起きるかわからないものだ。小さな店なので従業員は私と店長の2人だけ。店長は無口であまり喋らないけど、育てた野菜を分けてくれたりなにかと気にかけてくれている。この店には人が頻繁にやってくるわけではなく、のんびりと仕事をしている。住人は皆優しい。穏やかで充実した日々を過ごしている。
今日もひと仕事を終え、帰りに買ったほうれん草とベーコンのキッシュをメインディッシュに早めの夕飯を済ませた。そしてシャワーを浴びてから、読みかけの本を読んでぼんやり過ごす。一日中晴れる予報だったが、外では屋根を叩くように雨が降っている。ひとり暮らしだとこんな夜は心細い。今日はもう眠ってしまおうか迷っていると、突然呼び鈴が鳴った。こんな夜更けに誰だろう。怪訝に思いながらも私はネグリジェの上にカーディガン羽織って、客人を迎えることにした。
「え……」
思わず口から驚きの声が漏れた。間近で観るのはいつぶりだろう。テレビで見ない日はない───ヴィル・シェーンハイトが立っていた。美しいラベンダーに染まった毛先は濡れてている。上質なペチコートも雨に濡れて茶色く変色してしまっていた。
「ようやく見つけた」
かろうじて聞き取れた声はそう言っているように聞こえた。
「見ての通り雨に濡れてしまったの。中に入れてちょうだい」
濡れそぼった人を放っておけないという善意からか、縁を切ったはずの人に見つけられたことに気が動転していたからか。気がついたらヴィル先輩を家の中に入れていた。
「えっと…。シャワー、浴びますか?」
「そうね。悪いけど使わせてもらおうかしら」そう言ってヴィル先輩は案内した浴室に消えていった。そうだ着替え。確かクローゼットの奥に新品のバスローブがあった筈だ。古本屋の店長が引っ越し祝いにとくれたものだ。でも私には大きすぎたし、何より使うタイミングがいまいち掴めなかったため、お蔵入りとなっていた。
「ありがとう。助かったわ」
バスローブはヴィル先輩には小さかったようだ。綺麗に引き締まった腕やら脚やらが袖や裾からはみ出している。
「これってもしかして恋人の?」
「え!?いえ、それは勤務先の店長がくれたもので……」
「そう。安心したわ」
気まずい沈黙が流れる。どうしよう、何を話したらいいか分からない。重たい空気に耐えきれなかった私は口を開いた。
「お腹空いてませんか」
「いいえ」
「何か飲みます?」
「けっこうよ」
さてどうしようかとヴィル先輩の顔色を窺おうとして驚いた。今にも泣き出しそうな顔をしていたのだ。
「ずっと探していたのよ」
突然力強く抱きしめられる。
「ごめんなさい」
私は叱られた子供のように小さく言うことしかできなかった。
ナイトレイブンカレッジを卒業した後、私は懇意にしていた人たちと連絡を絶った。これ以上彼らに甘えてしまうことを恐れたのだ。みんな自分たちの力で道を歩んでいる。それが自分はどうだ。先生たちは衣食住だけでなく学習の場を用意してくれた。友達はいつも側もにいてくれた。先輩たちは陰から見守っていてくれた。彼らには時に理不尽に厄介ごとを押しつけられたが、そうやって私の居場所が作られていたのだ。無力な自分と優秀な道を歩んでいくみんなを比べては、自分に何ができるか自問自答を繰り返してきた。まずは自分の力だけで生きていかなければ。いつからかそんなあせりが生まれた。そしてその気持ちは卒業が近づくにつれて強くなっていった。就職先はどうするんだ。うちにくるか?なんて手を差し伸べてくれた人もいたけど、私は手を取らなかった。もう誰にも頼らない。いつまでも守られているだけの自分ではいられない。そう思った私は名前も知らぬ国で仕事を見つけ、身ひとつで飛び立った。
「どれだけ心配したと思っているの?」
震えた声にはっと顔を上げる。ヴィル先輩の顔にはひと筋の雫がつたっていた。
「自分の、力だけで……生きたくて」
自分でも驚くほど弱々しく呟いた。ああ、だめだ。私は少しも学生時代の自分と変わっていない。情けなくて、悔しくて、爪を手のひらに食い込ませた。
「馬鹿ね。そんなのアタシが絶対許さない」
ヴィル先輩はきつく握りしめた私の指をほどき、そして包み込むように柔らかく握った。そそのまま私と目を合わせながら跪き、祈るように呟いた。
「お願いだから逃げないで」
アメジストの双眼は凛として私をとらえた。
「離れないで、そばにいて」
「アタシを……」
ヴィル先輩の右手が私の頬をなぞっていく。
「アタシを求めて」
ふっと力が抜けていくのを感じた。もう自分を許していいんだ。こんな自分でも必要としてくれる人がいるんだ。気がつけば涙が溢れていた。ヴィル先輩は私をもう一度抱きしめて、背中を撫でてくれた。私はその胸に顔を埋めて声を上げて泣いた。外では優しく雨が降り続いている。しばらくして泣き疲れた私たちは同じベッドで眠った。シングルベッドに2人でぎゅうぎゅうづめになった。狭いね、落っこちちゃうかもなんていいながら、大きな温もりに抱かれて眠った。誰かの体温を感じながら眠るのは一体いつぶりだろう。私はふわふわの相棒と最後に過ごした日のことを思い出して、また少し泣いた。それに気づいたのか、ヴィル先輩は一層きつく抱きしめてくれた。
私が目を覚ますとヴィル先輩は、既に身支度を整えていた。すっかり乾いたコートを身につけてベットに腰掛け、私を見つめていた。
「名残惜しいけど仕事に戻らなくちゃ。無理を言って出てきたのよ」
監督にドヤされるかも。そう言ってヴィル先輩は困ったように笑った。
「どうして……。ここにいるって分かったんですか?」
「……この街、アタシが初めて出演した映画で撮影した所なの」
あの時はすごく緊張したわ。ミスしちゃって、アタシのせいで何度も撮り直し。休憩時間になって、共演者のそばにいるのが居た堪れなくって、気晴らしのために辺りを散策したの。そこで出会った人がアタシに優しくこの街のことを教えてくれたわ。そして、事を成し遂げるための心構えもね。そのお陰で撮影は大成功。遅れは完璧に取り戻せたわ。その人とは今でも手紙を送ったりして、連絡を取り合っているの。近況とか、とりとめもないことが大半ね。この間受け取った手紙にはこう書かれてたわ。働き者の新人が入った。魔法が使えないのに、魔法の知識が豊富で今まで扱えていなかった魔導書まで仕入れられるようになったって。
「その人って……まさか、店長?」
私の呟きを肯定するようにヴィル先輩は微笑んだ。
「『魔法が使えないのに魔法の知識が豊富』。アタシこれを読んだ時真っ先にアンタのことが思い浮かんだのよ」
そういってヴィル先輩は私の手を握りしめる。私の手なんてすっぽり覆ってしまうほど、綺麗で大きな手。この手が取り逃がさないよう私に伸ばされていたのだ。
「必死だったわ、もう絶対に逃したくなかったから……」
「ヴィル先輩が……そんなに私のことを気に入ってただなんて知りませんでした」
「知られないようにしていたもの」
突然肩を押されて起こしていた上半身がベットに沈む。声をあげるまもなくヴィル先輩は私に覆い被さった。
「アタシ、アンタのことが大好きなのよ」
「……」
「まただんまり?」
彼は悲しそうな目をした。これだけは許してとヴィル先輩は私の口を手で塞ぎその上から口づけを落とした。
「アンタの唇はどんなに柔らかいのかしらね」
ヴィル先輩の手が私の唇をなぞりながら離れていく。まるでメロドラマだ。どこを切り取っても絵になる光景。私の頭は他人事みたいにそんなことを考えていた。
「ふふ。顔が真っ赤じゃない」
「当たり前じゃないですか!憧れの人から急にそんなことされたら……」
「本当?」
食い気味にヴィル先輩に迫られたので、慌てて訂正した。
「れ、恋愛感情かどうかは微妙なところです」
「……ふうん。そういうことにしておいてあげる」
ヴィル先輩は私の上から退くと腕時計を外した。そして、私の腕を引っ張ったかと思うと、その時計を手のひらの上に載せた。
「あの、これは一体?」
「忘れ物」
その言葉の意味を飲み込めないうちにヴィル先輩は立ち上がる。
「さ、もう行かなくちゃ。バスに乗り遅れちゃう」
「え!?待ってください!」
「あら、寂しくなっちゃったの?」
かわいいわねとおでこにキスをされる。私が口を滑らせてから自信をつけたのだろうか。
「また来るわ。今度は忘れ物を取りにね」
わざと置いていくものを忘れ物とは言わない。その言葉は玄関の扉に阻まれもう届かない。まんまと次に会うための口実をつくられたわけだ。今度ヴィル先輩が来たらお砂糖と生クリームたっぷり、カロリー無視のケーキでもご馳走してみようか。次に会った時の仕返しを考えながらカーテンを開ける。昨晩の大雨が嘘のように、憎たらしいほどの青空が広がっていた。
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