2.月に口付け星をかぶせ
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《貴様!愚民の分際で!》
「ヒィィ!」
噴水のように広がる水のカーテンから、般若のような顔が飛び出してきて思わずホースを取り落としてしまう。足止めは出来たが私の命もここで止まりそうだ。
《よくやった!クイン!》
両手を上げてガクブルしているとジャズが明るい声でそう言った。
彼はファングが止まった一瞬の隙を突いて、腰からするりと離れると、自分よりも大きな左手を捻り、外側に開く。
その技は訓練学校で習った、人間の逮捕術に似た関節技だった。
《ぬわああああ!》
金属でできた彼らにも、人間のように痛みを感じる回路がちゃんと備わっている。痛みを逃がそうとするファングが、自然と地面に膝を着いた。
そのままうつ伏せに倒れたファングの体に跨ると、ジャズはすかさず掴んでいた腕を背中に回して完全に動きを封じた。
今回は持ち前の小回りの良さを活かしたジャズの勝利だ。流れるような見事な関節技に、思わずパチパチと拍手を送る。
《おぉぁぁぁ!離せチビ!!》
《ったく…地球で再会したのも400万年ぶりだっつのに……お前は全く変わんねえ、な!》
《イテエエエエェ!!!!》
(い、痛そう……!)
チビ、という単語は「ジャズに言ってはならないワード集」のトップに含まれる禁句だ。
この世には、温厚な人を怒らせてはいけないという法則があるが、それが今、まさに目の前で起こっている。
ジャズがさらに力を込めるとファングの肩関節は大きく軋み、太い鉄の配線や細かい歯車のパーツの間からちいさな火花がいくつも散った。
ジャズだから大丈夫だけど、押さえている人が違えばすぐにこんな配線千切れてしまえそうだ。なんだか可哀想になってきた。曲がりなりにも彼は私の相棒なのだ。
「ジャズ、ありがとうございます。でも、ファングも落ち着いたと思うので、離してあげて下さい」
《殺す!》
「やっぱりもう少しお願いします」
《ふざけるなっ!》
「あ!」
ファングは押さえられていない右手でジャズの足を掴むと、のしかかって簡単にはどかせないはずの彼をいとも容易く投げ飛ばしてしまった。さ、さすが、ファング。ゴリ押しになると負けないなあ。
ジャズの逮捕術も素晴らしいものだったが、ファングの怪力とは相性が悪かったようだ。解放されて私を睨みつけているであろう彼と視線を合わせたくはなかったが、合わせないのは合わせないで逆に怖い。
投げ飛ばされたジャズを追った方向から、顔の向きを恐る恐るファングの方へ戻す。
─でも、ファングは私を睨みつけてなんていなかった。
そんなことが出来ないくらいに満身創痍で、排気を乱して俯いていた。
なぜなら、ジャズを投げた時に、そのまま一緒に自分の腕も引きちぎってしまっていたからだ。
彼は立ち上がったが、その痛みに耐え切れずに膝から崩れ落ちると歯を食いしばって黙りこくってしまった。
痛覚回路の切断には相応のプロセスがあるそうだ。トランスフォーマー達いわく、ちゃんとした手順を踏まないと正しく回路が切断できないらしい。要するに痛覚を感じなくするためには、少なからず時間がかかるのだ。
だからファングは今、苦しんでいる。
私が彼から逃げようとしたから、痛がっている。
投げ飛ばされたジャズも心配だったけれど。普段みたいに暴言のひとつも吐けなくなってしまっているファングが。
あの、誰にも負けない自信に満ち溢れて笑っているファングが、脂汗をかいているかのような苦しげな表情でいる所を目の当たりにしてしまって、心臓が嫌な音を立てていた。
全身は血の気が引いて冷たいのに、そのくせ目の奥はじんわりと熱かった。
「そんな!ファング!死なないでください!」
あぐらをかいた彼の右脛によじ登り、俯いた顔に叫んだ。
「水をかけてすみませんでした、貴方がそうなったのは私のせいです!本当にごめんなさい…なにをすれば貴方は助かるんでしょう?!」
《とりあえず降りろ。そしてそのやかましい口を閉じてくれ》
「わわわ、わかりました…」
冷ややかな青色のオプティックに見下ろされて少し落ち着いた。恐ろしかったはずのその冷たさが、どういうわけか私を安心させていた。
言われた通りにすると、ファングはまた少し黙ってしまったが、閉じていた目をゆっくり開けると背を丸めて屈み、私と視線を合わせてくれた。
(あ…)
こんなに近くで彼の顔を見たのは初めてで、感動した。だって、彼の目が本当に綺麗で、澄んでいて、いつまでも見ていられると思えてしまったから。
徐に彼の人差し指が伸びてきて、私の頬に触れるように添えられた。
尖った指先が壊れ物を扱うかのように触れてきたのも初めてで、なんだかやっと、"彼に私を見てもらえた"ような気になった。
私の心臓は、意図の掴めない彼の行動にいちいち、とくとくと甘い鼓動を高鳴らせていた。
《こうなったのはオレの選択の結果だ。お前が責任を感じる必要は無い。自分が傷ついたわけでもないのに……、そんな顔をする必要はない筈だ。体をスキャンしたからわかる。お前が痛みを感じる要因など、どこにも無いんだぞ。…なぜだ?……それなのになぜ、お前が泣く》
「……自分が傷ついてなくても痛くなるんです。"ここ"が」
心臓がある場所の上に手を持ってくると、言葉にすると、何故か胸がもっと痛くなったのに、こそばゆいような切ないような感情になって、困ってしまってはにかんだ。
《……………》
ファングはたじろいだがその後すぐ、心底わからない、といったように顔をしかめ唸り声をあげていた。
痛覚回路をうまく切断できたみたいで、もう痛みは無いらしい。
辛そうにしていた顔が嘘のように和らいで、私は胸のつかえが取れたように晴れやかになった。
……私は、涙ぐんでいたのか。
どうりで、顔は少ししか濡れていないのに視界が悪いわけだ。
鼻をすすり、目をきゅっと瞑って堪えると、顔の熱っぽさは残っていたが涙は収まった。
腕のちぎれたファングの肩を見上げた。
そしてどうして自分がこんなにも取り乱してしまったのか、理由を考えて、私は以前、父が戦場で死にかけた時のことを思い出した。
(あ、そうか)
物心着いたばかりの子供時代、当たり前にあると思っていた日常。そこに当然いる大切な人。
それを失ってしまっていたかもしれない、あったかもしれない未来。
私の父はその未来を歩まずに無事に帰ってきてくれたけど、当時の私は大怪我を負って帰ってきた父に驚いて、ただひたすらにショックで悲しくて大号泣して、しばらく父の傍を離れようとしなかった。
遠い昔の経験だったから今の今まで忘れていたけれど、あの時の記憶は自分が思うよりもずっと自分の中で深い思い出になっていたのかもしれない。
だからきっと私は、ファングの痛々しさにショックを受けて泣いてしまったのだ。
(大切な人か)
未だ顎に手を当てて考え込んでいるファングを見上げる。
静かに思いに耽っているファングは中々レアで、私は思わずその姿に見とれてしまった。
そうして、未だに鳴り止まない胸の鼓動に戸惑い、こちらを一瞥したファングに慌てて視線を逸らす。
耳まで熱くて、これじゃ、これじゃまるで本当に…。
「クイン〜?これはどういう事だ??」
「…ッハ!!」
肩に乗った無骨な手と、わざとらしいくらい明るい声の死刑宣告で熱に浮かされていた思考がサッと現実に引き戻されていく。
「ちち、違うんですよ!」
「何が違うんだ?ん?言ってみろ。この間欠泉のような水道はなんだ」
「ああ、えっとその……。あ、でも!ミストみたいで涼しくて良いですよ!レノックス少佐も一緒にミスト浴びません??」
「……クイン」
これまたわざとらしいくらいの温かい目に、なんとか微笑んでみせる。
ジャズが投げ飛ばされた時に壊れた倉庫。
《ボディに傷がぁあ!!》と叫ぶ彼。
満身創痍のファングに破壊の限りを尽くされた水道、そしてずぶ濡れの私。
最悪の現状もポジティブに捉えればなんとk「とりあえず反省文と上に提出する始末書を、各自5000字で書いてもらう。あとついでに資料室の掃除もやっとけ」
「そんな!!掃除が反省の意を込めてるなら反省文は意味ないのでは!?」
「心に刻んで貰わなきゃ反省させる意味が無いだろ?掃除だけじゃそれが不十分だと言ってるんだ。四の五の言わずにやれ」
「ハイ。」
片手をひらひらさせながら立ち去る上司に言い訳する時間も逆らう勇気なんて物も無く……。八割はファングのとばっちりなのに!
これが全て終わったら、お気にのマグカップにアツアツのコーヒーを淹れて、読みそびれていた小説たちを寝落ちするまで呼んでやる、と心に決めるのだが、それが死亡フラグになるとは……資料室の散らかり具合を知らないこの時の私は、そんなこと露ほども思っていないのだった。