昔話

「別れてほしいの」

 その日の彼女は暗い顔をしていた。
 大好きな本もケーキも浸透せず、緊張に震え周囲に気を配っている様子だった。

「何に怯えているの?」

 彼女は大きな瞳を潤ませたが、開きかけた唇を引き結んで首を左右に振った。言えない、僕に言えないこと。
 不躾なのは承知でレースのハンカチにペンを走らせる。
 とっくに冷めた紅茶の横を滑らせて、彼女に渡すと震えていた。

「理由が知りたいな。君との時間は楽しい」

 “脅されたのならば、君に危害が及ばぬように手を尽くそう。添い遂げられずにすまない。このハンカチは燃やしなさい、怖ければ僕に返してもいい”

 ハンカチを見つめながら彼女は涙に耐えていた。ぎゅっと握り、胸元へ持っていく。ああ、僕にはそれで充分だ。

「…………好きな人が、できたの」
「そう、お幸せに」

 席を立つ時、彼女の瞳は耐えきれずに涙を溢した。掬ってやることはできない。多めの支払いと、しばらくそっとしておいてと店員に伝えて店を出る。


「街へ出るのは最後にするよ」

 露店商の友人は、目を真ん丸にすると店を閉めて飲みに行こうと誘ってくれた。
 
「屋敷を出たらどうだ? そんで彼女と暮らせばいい」
「それこそ彼女を危険に晒すはめになる。原因は僕だ。けれど理由がわからない」
「んー? お前扱い居候なんだろう? 特に縛られる理由もなくねえ?」
「とてつもなく大切にされているのは伝わるけれど……本当は外出できるようになったのも不思議なくらい。屋敷の主人は口数が少なくてね。意図が読めないんだ」
「もしかして、主人はお前に気があるんじゃないか? そんで、うまくいってるお前らの邪魔をする。外出も見せびらかしさ、俺のものはどうだってな。おい、気を悪くするなよ、喩え話さ」
「もしそれが本当なら、僕は許すことができない。軽蔑してしまうだろう。彼女を深く傷つけたことは決して許されることじゃない。僕は彼女を愛している。……今からでも間に合うだろうか」
「おう、引き留めるなら行ってこい、逃げの馬車くらいは用意してやるよ」
「ありがとう、行ってくる」

 酒場を出た後、彼女を捜した。けれど姿は無く、どこを捜せど見つからない。結局、友人に見つからなかったと報告だけでもしに戻れば、何やら酒場の前が騒がしい。

 酔って足を滑らしたんだってよ。そんな言葉が聞こえた。
 酒場の前は大きな水路になっている。人々の群れを縫い大勢の視線の先を辿ると、ずぶ濡れで動かない友人の姿があった。
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