昔話
壁の奥は天井の高い小さな円形の部屋になっていた。壁一面に描かれた星空、白地の石にうっすらと虹色の模様が入る床、高い天井に嵌まる色鮮やかなステンドグラス。
中央に置かれたアンティークの乳母車にはフリルやレースがたっぷりと敷き詰められ、少女を埋めると上から毛布を掛け、更にはフリルたっぷりの生地を掛けては金の髪をそっと撫で付ける。
カサンドラが手を離すと、少女の葡萄色の瞳が追いかけてきたところだった。
「すまない、起こしてしまった」
「カサンドラ、私は今日も貴女を待つのね」
「ハリフォードは生まれてすぐに体を切り開かれ心臓を取られている。臓器を食べる習慣が途絶えるまで森の外へは出せない」
カサンドラは毎夜古びた教会の共同墓地へ赴いては祈りを捧げ、朝日が昇る頃に帰ってくる。周囲の村や町では土葬された死者の骨や埋葬品を目当てに墓荒らしが彷徨き、骨に薬効があるのだと信じている者へと売り捌いている。
一度聞かせはしたが、愛おしい娘は自身の境遇に「私の心臓、食べられたのね」と関心の薄い返事を返し、周囲の信仰に対しては「怖がりばかりだわ」と小さな唇を尖らせていた。
「こっそりお祈りしてはいけないかしら……? ドレスに隠れてもだめ……?」
「魔女は魔女にしか殺すことができないが、ハリフォードは違う。私の血を飲み体は生きている。奪われた臓器は無いが血は通い、死も共にある。連れてはいけない」
「ごめんなさい、カサンドラ。すこし寂しかったの。明日もうんと甘えていいかしら……?」
「勿論」
カサンドラは愛しい娘の頭をふわりと撫でてやる。
「魔女の数が減っているのは覚えているね」
「ええ、前に話してくれたわ。お墓にはたくさん魔女が眠っているって。魔女を殺してしまう魔女を待っているのね……?」
「そうだ、愛しい娘。魔女を煮詰め、死を与える道具を作った者がいる。死を司る魔女は私一人で充分だ。――魔女の七つ道具は毎夜死を迎える者への祈りを妨げる。放ってはおけない」
「いいのよ、いいのよカサンドラ。私、カサンドラがいてくれたらいいの。夜も、一緒にいて……?」
「私は夜、歩かなくてはならないのだよ。外を歩き、日の出と共に屋敷に帰って来なくては。毎夜寿命の尽きるものを、寝かしつける役割なのだよ。安らかに、まどろむように」
「……愛しているわ、カサンドラ。カサンドラを奪う夜がくるしいの。夢なんて見なくていい、眠りたくもない。ずっと貴女と一緒がいい。傍にいたいの」
カサンドラはもう一度頭を撫でてやる。
「行かずにはおれないのだよ。愛しい、愛しい私の娘。さあ、空をご覧。月明かりが愛しいおまえを見ていてくれる。揺られておやすみ、ハリフォード。朝にまた会おう」
カサンドラの黒いドレスが遠退いて、星空の壁が閉じると淡い月明かりが照らすステンドグラスから色が降り、少女の淡い金髪を彩った。
「大好きなカサンドラ、貴女を拐う夜が妬ましい」
星空の壁はカサンドラにしか開けられない。
壁一面の星空と、ステンドグラスの向こうに見える星空は少女の瞼を下ろしてしまう。
物音ひとつない森の中で、少女はカサンドラと過ごした記憶を掘り起こす。
黒い、黒い彼女に手を引かれ、すらりと伸びる影のような長身はいつでも少女の方を向き、浮き上がる真っ白な肌に差す光を灯さぬ黒い眼は愛しげに細められ。纏め上げた黒い髪に更に影を落とすようにして、彼女は常につばの広い帽子を被っていた。
「私は死を司る黒い魔女だ。人間どころか、他の3人の魔女にも畏れられている。昔はもう少しいたのだがね、今では黒赤青黄で最後だ。魔女は能力のすべてを譲渡することができるから、もう顔ぶれは違うかもしれないが」
「カサンドラは、優しいのにね。怖がりすぎるのは、どうなのかしら」
「留めきれぬ恐怖の矛先になるのも黒い魔女の役割なのかもしれないね。魔女は魔女にしか殺すことはできない」
ぱちりと少女は葡萄色の眼を見開いた。
カサンドラはよく言っていた。魔女は魔女にしか殺すことはできない。
その言葉が引っかかっていたけれども、普段と変わらぬカサンドラに心底安心した少女は何度も名を呼びよく笑った。
それだけだ。それだけでよかったのに。
屋敷中の硝子を一度に割ったような大きな音に少女は飛び起きた。
星空の壁にヒビが入っている。
そろりと乳母車から降りた少女は息を殺して壁に近寄る。初めて聞くカサンドラ以外の声。
「本当に死んだのか、青の魔女といえど私に偽りは許さんぞ」
「お慕いしておりますわ侯爵。粉々ですもの、拾い集めて海に沈めてしまいましょう?」
若さの残る男の声と、高い女の声。
少女は理解する。魔女は魔女にしか殺せない――青の魔女の裏切りである。
少女がヒビを叩こうとした瞬間、悲鳴が響き何かが壁の向こうに激突した。ぼろりと、一片が崩れると小さな穴の向こうに普段食事している広間が見えた。
「嫌ああああああああお願い、お願……」
青色のドレスを着た女が顔を押さえながらよろめいて、食器棚やテーブルにぶつかりながら椅子に躓くと床に倒れた。がりがりと長い爪を立て、青色の爪が黒く変色していく女の横でスーツの男が後ずさりしている。呻きながら顔を上げた女の皮膚は真っ黒に染まり、瞳だけが青を保つその視線上に葡萄色が映った。
「誰か、誰かいるわ!! 壁の向こ──」
青色の瞳が真っ黒に染まると女はぼろぼろと崩れ、慌てて逃げる男は首を押さえて立ち止まると喘ぐ間もなく灰になった。
星空の壁が崩れ、床一面に散らばる砕けた黒水晶に面影を探して少女は駆け寄るが、粉々でどれを手に取っても一つも合いはしない。
「嫌よ、嫌よカサンドラ……」
黒水晶は煙を立て霧散した。小さく残った黒いロケットを拾い上げると握りしめ、祈るように蹲った少女の背後に人の気配が立つ。
「青の魔女に息子を売った謝礼がこれかね? 見合わんな」
口元に布を押し当てられ、少女の意識はそこで途絶えた。
中央に置かれたアンティークの乳母車にはフリルやレースがたっぷりと敷き詰められ、少女を埋めると上から毛布を掛け、更にはフリルたっぷりの生地を掛けては金の髪をそっと撫で付ける。
カサンドラが手を離すと、少女の葡萄色の瞳が追いかけてきたところだった。
「すまない、起こしてしまった」
「カサンドラ、私は今日も貴女を待つのね」
「ハリフォードは生まれてすぐに体を切り開かれ心臓を取られている。臓器を食べる習慣が途絶えるまで森の外へは出せない」
カサンドラは毎夜古びた教会の共同墓地へ赴いては祈りを捧げ、朝日が昇る頃に帰ってくる。周囲の村や町では土葬された死者の骨や埋葬品を目当てに墓荒らしが彷徨き、骨に薬効があるのだと信じている者へと売り捌いている。
一度聞かせはしたが、愛おしい娘は自身の境遇に「私の心臓、食べられたのね」と関心の薄い返事を返し、周囲の信仰に対しては「怖がりばかりだわ」と小さな唇を尖らせていた。
「こっそりお祈りしてはいけないかしら……? ドレスに隠れてもだめ……?」
「魔女は魔女にしか殺すことができないが、ハリフォードは違う。私の血を飲み体は生きている。奪われた臓器は無いが血は通い、死も共にある。連れてはいけない」
「ごめんなさい、カサンドラ。すこし寂しかったの。明日もうんと甘えていいかしら……?」
「勿論」
カサンドラは愛しい娘の頭をふわりと撫でてやる。
「魔女の数が減っているのは覚えているね」
「ええ、前に話してくれたわ。お墓にはたくさん魔女が眠っているって。魔女を殺してしまう魔女を待っているのね……?」
「そうだ、愛しい娘。魔女を煮詰め、死を与える道具を作った者がいる。死を司る魔女は私一人で充分だ。――魔女の七つ道具は毎夜死を迎える者への祈りを妨げる。放ってはおけない」
「いいのよ、いいのよカサンドラ。私、カサンドラがいてくれたらいいの。夜も、一緒にいて……?」
「私は夜、歩かなくてはならないのだよ。外を歩き、日の出と共に屋敷に帰って来なくては。毎夜寿命の尽きるものを、寝かしつける役割なのだよ。安らかに、まどろむように」
「……愛しているわ、カサンドラ。カサンドラを奪う夜がくるしいの。夢なんて見なくていい、眠りたくもない。ずっと貴女と一緒がいい。傍にいたいの」
カサンドラはもう一度頭を撫でてやる。
「行かずにはおれないのだよ。愛しい、愛しい私の娘。さあ、空をご覧。月明かりが愛しいおまえを見ていてくれる。揺られておやすみ、ハリフォード。朝にまた会おう」
カサンドラの黒いドレスが遠退いて、星空の壁が閉じると淡い月明かりが照らすステンドグラスから色が降り、少女の淡い金髪を彩った。
「大好きなカサンドラ、貴女を拐う夜が妬ましい」
星空の壁はカサンドラにしか開けられない。
壁一面の星空と、ステンドグラスの向こうに見える星空は少女の瞼を下ろしてしまう。
物音ひとつない森の中で、少女はカサンドラと過ごした記憶を掘り起こす。
黒い、黒い彼女に手を引かれ、すらりと伸びる影のような長身はいつでも少女の方を向き、浮き上がる真っ白な肌に差す光を灯さぬ黒い眼は愛しげに細められ。纏め上げた黒い髪に更に影を落とすようにして、彼女は常につばの広い帽子を被っていた。
「私は死を司る黒い魔女だ。人間どころか、他の3人の魔女にも畏れられている。昔はもう少しいたのだがね、今では黒赤青黄で最後だ。魔女は能力のすべてを譲渡することができるから、もう顔ぶれは違うかもしれないが」
「カサンドラは、優しいのにね。怖がりすぎるのは、どうなのかしら」
「留めきれぬ恐怖の矛先になるのも黒い魔女の役割なのかもしれないね。魔女は魔女にしか殺すことはできない」
ぱちりと少女は葡萄色の眼を見開いた。
カサンドラはよく言っていた。魔女は魔女にしか殺すことはできない。
その言葉が引っかかっていたけれども、普段と変わらぬカサンドラに心底安心した少女は何度も名を呼びよく笑った。
それだけだ。それだけでよかったのに。
屋敷中の硝子を一度に割ったような大きな音に少女は飛び起きた。
星空の壁にヒビが入っている。
そろりと乳母車から降りた少女は息を殺して壁に近寄る。初めて聞くカサンドラ以外の声。
「本当に死んだのか、青の魔女といえど私に偽りは許さんぞ」
「お慕いしておりますわ侯爵。粉々ですもの、拾い集めて海に沈めてしまいましょう?」
若さの残る男の声と、高い女の声。
少女は理解する。魔女は魔女にしか殺せない――青の魔女の裏切りである。
少女がヒビを叩こうとした瞬間、悲鳴が響き何かが壁の向こうに激突した。ぼろりと、一片が崩れると小さな穴の向こうに普段食事している広間が見えた。
「嫌ああああああああお願い、お願……」
青色のドレスを着た女が顔を押さえながらよろめいて、食器棚やテーブルにぶつかりながら椅子に躓くと床に倒れた。がりがりと長い爪を立て、青色の爪が黒く変色していく女の横でスーツの男が後ずさりしている。呻きながら顔を上げた女の皮膚は真っ黒に染まり、瞳だけが青を保つその視線上に葡萄色が映った。
「誰か、誰かいるわ!! 壁の向こ──」
青色の瞳が真っ黒に染まると女はぼろぼろと崩れ、慌てて逃げる男は首を押さえて立ち止まると喘ぐ間もなく灰になった。
星空の壁が崩れ、床一面に散らばる砕けた黒水晶に面影を探して少女は駆け寄るが、粉々でどれを手に取っても一つも合いはしない。
「嫌よ、嫌よカサンドラ……」
黒水晶は煙を立て霧散した。小さく残った黒いロケットを拾い上げると握りしめ、祈るように蹲った少女の背後に人の気配が立つ。
「青の魔女に息子を売った謝礼がこれかね? 見合わんな」
口元に布を押し当てられ、少女の意識はそこで途絶えた。