宵さんの夏

 客が去った部屋は散らかっている。下げられぬままの膳、転がった酒瓶や茶碗。汁物がこぼれていないことに胸をなで下ろすも、降り注ぐ杯の視線がなんともいえぬ圧力を乗せていて苦笑した。

「宵ノ進、立て」
「はい、杯様」


 すっと立ち上がり穏やかに笑ってみせる。
 杯の眉間にしわが寄り、脇腹を目で指した。



「それはなんだ」
「へまをしまして。私も転ぶことだってあります。どうか上のお部屋へ。ここでは杯様に不釣り合いかと」


 まさかお得意様にこのような場と姿を見られようとは。
 過ごしていただくのは整った、整った場であるべきだと慌ただしくなる頭の中をなだめ杯に目をやれば、不機嫌極まりない顔をしてまっすぐに睨まれる。


「宵ノ進」
「はい」
「だれがそんな顔で笑えと言った」



 杯の手が脇腹に触れる。濃紺の着物にこびりつくものを確かめるようにして、未だじわじわと疼く傷を見るなり低い声がまた名を呼んだ。
 知っている。最初から、誤魔化さずに話せと言われていることくらい。知らないふりで返すことも、相手だって知っている。

 だけれど意思とは別のところ、体は遂にふらりと傾いて天井を向いた。
 畳に打ち付けられるはずが腕一つで阻まれて、首を仰け反らせたままぼんやり謝罪の言葉を口にした。ああ、あつい。


「もう少しで、やっと、らくになれましたのに」


 眠ることが、できましたのに。


「その癖はいつまでも直らんようだな」



 杯の声が刺さる。また簡単に手当てをして、介抱されるのだろう。それを断ることくらい、知っているくせに。


「おまえがいなくなって泣く者はいるか」


 容赦なく傷口の手当てをしながら杯が言う。仰け反った首とぼんやりしていく頭に巡るものが心地よい。いくつか浮かんだ顔と姿は、皆目元を手で覆うだろうか。


「いるのでしょうね」

 思いのほか声が出ず、力の抜けた指が小刀を放り出す。
 ああ。かくしていたのに。

 小さな音を立て、杯の目がそちらへ向くとゆっくり寝かされしばし間が空く。


「さかずきさま」


 返事をするような男でないのはわかっている。小刀を眺め何を思っているのだろう、おもむろに拾い上げた杯の目を読むことすらおぼろげで、思考がついていかず瞬きで済ます。


「先程私の弟が橋から飛び降りようとした男を捕まえたそうだ」
「生きて、らっしゃる」
「お前の名と謝罪を繰り返していたと」


 珍しいこともあるのですね、どうしてか、その言葉を紡ぐことができなかった。


「さかずきさまは、わたしがいなくなったらなかれますか」

 上手く言葉が出ない。いつもすらすら出るくせに。刺された、くらいで。


「楽しみにしていろ。花くらいは手向けてやる」
「なにいろ、でしょうね」



 ああ、あつい。
 抱え上げられながら、思考を深追いせぬままに目を閉じた。
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