宵さんの夏

 違和感に、左手を伸ばす。蒸した空気、張り付く着物。

「あつい、な」


 違和感の先に指を滑らせれば、まとわりつく水が鬱陶しい。じんじんと、あふれる水のついた手で呆然と見下ろす客の頬を撫でた。


「はじめから、言ってくださればいいでは、ないですか。私に、望むこと。こたえて、みせますのに」



 不思議なくらい笑えていた。またくるよと言ってもらえる微笑みを乗せ、相手の言葉を待つ。
 けれど、初めからわかっている。手を離し、見下ろしては立ち上がりよろけながら走り去ることも、あとから身投げすることも。それを止められないことも。


 ああ、またか。



 脇腹に突き立った小刀をなぞると皮膚が裂け、水玉が伝い水溜まりと一つになる。
 うとうとと、目を閉じようとした時に聞こえたのは暗い廊下を歩く音。
 その規則正しく乱れぬ速度、板の軋む音。

 目を見開き、無理やり体を起こして脇腹に突き立つ小刀を抜く。
 袂に隠し、赤色の滲む畳の上に膝を折り、すました顔をする。
 そして開け放たれたままの襖の前に、見慣れた小綺麗な服。仕事帰りだという白いシャツからは、変わらず薬品の匂いがした。


「お会いしとうございました、杯様」
「うそをつけ。着物も変えぬまま人に会うことをきらうお前が喜ぶはずはない」


 杯は、切れ長の目をさらに鋭くすると、この有様は何だと吐き捨てた。
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