宵さんの夏

 顔が見たいと言われれば顔を上げる。話がしたいと言われればその通りにする。
 籠屋の店主を困り顔にさせることなど望まない。
 待ちかねた、待ちかねたと上機嫌に空の酒瓶を傾ける客が料理を美味しいという。ずっと話がしたかったのだという。
 普段厨房にいてお座敷には出ないものだから、呼び出しは珍しいことではない。


「ありがとうございます」


 再度深く頭を下げるとぐいと肩を掴まれた。
 まとわりつく蒸した夜の空気に酒の匂いが混ざり、ああ料理酒はどれにしようかなどと献立を考える。名を呼ばれ、顔を上げると頭の先から首筋を何度も視線が行き来する。
 幾度か繰り返すこともある。それほどまでに頭を下げているだろうかと自嘲するも気にする者がいるはずもない。
 酔っ払い三十路近そうなこの男、大丈夫なのだろうか。焦点が合わない眼をした客は、機嫌良く笑うと手を引きぐいと抱き寄せた。


 ああ、またか。


 目を細め、そのまま閉じる。抵抗せず、されるがままに。いつもこうだ。会いたいというものなんて。



「また、いらしてくださいな。腕をふるいます」


 言葉は途中で客の怒号に掻き消された。
 いきなり何だと金茶の目を見開くも、聞き取れたものではなく耳をつんざくばかり。これでは受付嬢は泣く。
 首を掴まれ畳に倒されると、そのまま両手に力が込められちりと痛みが走った。次いで僅かに感じた熱さ。食い込む爪が皮膚を裂いたのだろう、きっと両手を離したときにはよく染まっている。うっとりそんなことを思いながら、息のできぬ圧迫感に初めて己の手が意思とは別に動いた。




 ぱちん。
 客の頬を叩いてしまった右手が強く掴まれる。
 離れた客の手の先は斑に染まっていたけれども、咳き込みよく見ることができずにいた。
 振り上げる、小刀も、手のひらの一部に見えるほど。
2/5ページ
スキ