帰依

「父様」

 子供は大きな背中が振り向くのを待った。白衣が翻り、柔らかな表情で子供の前に膝を折る男は「どうした」と、軽く頭を撫でてやる。

「庭の花が枯れたんです」

 男はその小さな唇が紡いだ言葉の意味を家人の報告から知っている。息子が種から育てた植物を駆け回っていた友人が踏み、喧嘩となり、双方軽い怪我をした挙句、蕾をつけていた花は枯れ、珍しくおねだりされて買い与えた小さな熱帯魚は死に、生物の死により暗い影を落とした息子の心を踏み荒らすように原因となった友人が変死を遂げたのである。
 原因不明の病、という事になってはいるが、医師である父親はひとつ心当たりがあった。

 息子に害なしたものは何かしらの不運に見舞われる事が多い。
 これまでは小さな出来事で、特に気にかける程でもなかったのだが、人の命が失われて初めて両親は思い至った。そんなはずはあるか、と己の考えを疑っていたのだが、辻褄が合ってしまう。息子の悪口を叩いていた児童の口の端が切れるなどは偶然だろうと流していたのだが、今回死亡した友人はうわごとで何度も誰かに謝罪していたと遺族から聞いている。

「紫京のせいではない」

 息子の頭を撫で続け、言葉を待つ。同じ色の髪がさらさらと流れその度に心が曇る。この愛してやまない息子に害なしたものが悪いのだと。

「家の前に、人が来たんです。お前のせいだ、返してくれ、って。すぐに晴子が飛んできて、追い返していましたけれど」

 暗鬱とした気分を悟られぬよう、男は項垂れる息子の頭を撫で続ける。
 使用人の晴子からは報告済であるのだが、幼い息子を亡くした母親だけは他者の制止を振り切って杯家の門前まで車で乗り込み人の良い顔をして学校を休み庭でぼんやりしていた息子に声をかけ門まで引き寄せては、腕が届く距離になった途端に罵声を浴びせ掠めた手がフリルシャツに留まったループタイを絡め乱しよろけた身体に爪を立てようとした為駆けつけ即引き剥がし持てる最大限の力で門ごと蹴り飛ばした、というのが数日前の話である。
 当時少し一人にしてくれ、という息子の願いを聞き入れていた晴子は庭の隅から見守っていたのだが自分が甘すぎたと現在猛省しており、荒れ狂う獣の様なので一旦護衛を妻の方に変えてもらっている。
 男の妻は晴れやかな気性であり、生まれて間もない赤子を抱きながら乱れた晴子の面倒を見るというしたたかさを併せ持つ。

「紫京、死んだ生き物は戻らない。返せ、というのは筋違いだ。ましてや紫京のせいではない。感情のまま、傷つけて良いはずもない。怖かったろう。よく、話してくれた」

 男は息子を抱きしめる。どちらかといえば、自分の考えを巡らせはせど口から出すのはほんの一握りな息子を案じてやまない。

「父様、晴子はいなくならない……?」
「勿論だとも。紫京の望みはすべて叶うよ」

 物をあまり欲しがらないかわりに、生物への執着がある息子の願いは聞き入れてきた。
 将来はお医者様になりたい、その願いも叶うのだろう。ただ、何かが。何かが息子の足を引いている気がしてならない。
 一本の電話が入る。“あの女”が運転を誤り開放骨折したのだと。

「父様? 何か良いことでもあったのですか?」
「いや、そうではない。急患だと。すまないが竜司を呼ぶから一緒にいなさい」
「はい。帰ってきたら、またお話してくれますか?」
「勿論だとも。竜司、紫京を頼む」
「はい、旦那様」

 男が退室するとほどなくして雨が降り出した。

「父様、大丈夫かなあ……」
「心配いりませんよ。凄腕のお医者様ですからすっ飛んで帰ってきますよ」
「ありがとう。竜司は雨男だよね。竜司が来るとよく雨が降るもの」
「あー、よく言われます、洗濯物を取り込み終わるまで来るなとかしょっちゅうですよ。旦那様が晴れ男なもので、お仕えしている間は晴れますけど。紫京坊ちゃんも来ませんか、雨男側に」
「曇りくらいでちょうどいいかも」
「勧誘失敗ですね。あ、そうだ。紫京坊ちゃん折り紙します? ステンドグラス折り紙」
「な、なにそれ……!」

 竜司は使用人の中で流れている噂を知っている。
 紫京の機嫌を損ねた者は事柄ひとつにつき何かしらの不運がひとつついてくるのだと。
 竜司にしてみれば、くだらない。子供の顔色を窺い自分を押し殺す方がどうかしている。同僚の晴子も似た考えらしく、使用人の中で紫京が気を張らないでいられるのはこの二人だけだった。

「紫京坊ちゃん、何かあったら何でも言っていいですからね。いやなくても話しかけますけど。あー! なんすかそれ、ステンドグラスティラノですか!?」




「兄貴、……兄貴!」
「……夏馬か」
「パパから手紙と贈り物だよ~! こっちはママから!」

 自室で資料に目を通していた紫京は手紙を受け取る。弟がノック無しに入ってくるのはいつもの事だが、人の気配に気付かぬ程に考え事をしていたなどと。
 手紙には写真が一枚添えられており、両親と使用人たちが写っている。竜司と晴子もおり、元気そうだと視線を滑らすと使用人の顔が幾つか黒い点に映り見えない。

「夏馬、この写真をどう思う」
「ん~? 集合写真でしょ~? 笑ってない顔の方が多いけど。緊張してる感じかなあ」
「そうか」
「え! 電話!? 俺もパッパとマッマの声聞きたい! 用件終わったら俺にも貸して!」

 隣でキラキラとした顔つきではしゃぐ弟を横目に、紫京は父に電話をかけ用件を手短に伝えると夏馬に渡して再度写真に視線を落とす。この黒い点は善くないものである可能性が高い。
 何事もなければいい、その点父は容赦がないのですぐに片がつくだろう。
 紫京は溜息をつく。
 このところ自覚する程の激務で疲れている。

「籠屋に行くか」
「やったー! 大瑠璃! 大瑠璃!」
「電話をするのか話すのかどちらかにしろ」

 籠屋の料理と居心地は気に入っている。
 不定休の為連絡を入れようかと過った瞬間に弟が「今から行きます!」と電話をかけていたので「代われ」と低い声が出たのだった。


 
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