二.花と貴方へ

「おかえり羽鶴~ぅ!! 花祭り一緒に行こーぜ!!」

 廊下で羽鶴を見つけるや飛び付きぎゅっと腕を絡めた雨麟はとびきりの笑顔を寄越す。皆休んでいると聞いた筈だがお化粧はばっちり、ピンクのオールバックは黒地から目に刺さるドピンクへのグラデーションが激しい兎柄の着物を赤帯で締めぴょんぴょん跳ねている。ふわりと鼻を擽る桃の香りにおや、と羽鶴が首を傾げた。

「つつ兄がな~! 着物くれたンよ~!! 客前じゃあ着れねぇが、お祭りならばっちり!! なー羽鶴はせーふくのままなンかー? 好きな着物引っ張り出してこいや~!! 雨麟ちゃンが着付けてやンよ~!!」
「お兄さんと雨麟の趣味が滲み出てていいと思う。似合ってるよ。僕外行きの着物持ってないから制服で行こうかなあ」
「あンがと! そいやー俺らが着付けたきり欲しいとか言わねえもンなあ。うひひ好きなの持ってっちまおーぜ!」
「え? は!? それ泥棒っていう!!」
「あンなに着物あンだから文句なんざ言わねぇよ、増えてく一方だしよ。みンな好きなだけ持ってるから持っとけ持っとけ!」

 雨麟にぐいぐい引っ張られていった羽鶴は箪笥だらけの小部屋に入るとぐるりと見渡した。
 古い衣装箪笥がいくつも並ぶ他に物がなく、畳の良い香りが満ちる室内を丸窓の障子が柔らかに照らし、雨麟が箪笥の間に腕を突っ込み引く仕草をしている。がちん、古めかしい金属がかち合う音がすると天井から紫色の縄がぶらりと垂れ、雨麟が引くと壁の一面が横にずれていく。

「箪笥の中にも仕舞ってるけどよ、こっちのが上物~」

 羽鶴は壁奥から現れた衣桁に掛かる着物の数々に気圧される。白黒から始まる色が連なる一面のどれもが衣桁の先に飾り札が下げられ墨で着物の名が書かれており、裏面には印が押されている。適当に視線を滑らせた先には“雪一乃”、“廓八景”など書かれた古い木札、息が詰まるこの圧力、すべての着物に見られている気がする。
 これは触ったらやばいやつだ。直感がそう告げている。

「雨麟僕にも着れる程度のお手柔らかな着物で頼む」
「どした? 羽鶴顔色へンだぞ?」
「上等すぎて着れないという……ましてやお祭りだし……」
「うーン、大瑠璃はひょいひょい着てくけどなあ。宵ノ進も女物でも似合うしよ。気負うこたぁねぇけどなぁ。じゃあこっちのにすっか!」

 紐を引いて壁の隠し扉を閉めた雨麟は衣装箪笥を開けてゆき、揃えられたとう紙に包まる着物を出しては羽鶴に見せてゆく。月白の着物に市松模様の藤煤竹の帯を締め、新たに下駄を出してもらった。着物は銀糸の流線が美しく、水面に絡まる植物が描かれている。

「日が暮れたらさみぃから、羽織はこの辺にすっか! 持っとけ持っとけ~!!」

 にかっと笑って雨麟が似せ紫の羽織を広げてみせる。裏地に月夜、水底の魚。

「ありがとう。夜一人で出歩くなって言われてるけどさ、雨麟が一緒なら大丈夫だよね」
「ふふンこの雨麟ちゃンと一緒なら振り向かねえ限り大丈夫! 呼ばれても振り向くンじゃねぇぞ~!」
「何気におっかないな……! うんでも前白鈴に送ってもらった時も振り向かないでって言われたし。わかった、遠回りでも前に進んで行けばいいね」
「そーそー、一本道だしよ。ぐるーって回れるようになってっから、それでいいンよ。たっぷり遊ンで帰ろーぜ! そンでもって花酒もあれば最高~!!」
「雨麟ほんとお酒好きだなあ。そういえば香炉も一緒に行くんでしょ? 支度できたら下りてくるかな?」
「うンやー香炉は留守番してるってよ。さすがに疲れちまったからなぁ。なンかお土産買ってこーぜ!」
「大変だったもんなぁ…………」

 ぐったりした副板前の訴えにも似た留守中のあれこれをうんうん聞いていた板前が「まぁ!」と声を上げたのは耳に新しい。

「ンフフ髪飾りも付けてこー! ほれどーよ羽鶴!」
「もはや女の子だな」
「よっしゃ!! 女子カウントされたらなンか奢りな!!」
「甚だ不利だけどなら男なんじゃないかって思われた時点で雨麟の奢りね」
「なー今から行こーぜ~遊び通したい~」
(やけにご機嫌だな……)「わかった、お財布取ってくるから玄関近くで待ってて」

 いい返事をした雨麟を階段下に残し自室へ向かった羽鶴は一段ずつ上りながらふとドピンク頭を浮かべる。

(ツツジさん、あんなに雨麟大好きでべったりなんだから、お祭り一緒に行ったらよかったのに……でも、疲れちゃったかな……今度会えたら大福とか持って行こうかなあ……榊がめったに会えないって言うの相当だし……)

 悶々と階段を上り自室への襖に手をかけた羽鶴はちらりと奥の彫刻を見るや、鞄を放り込み財布を持ち出してはそちらへ歩いてゆく。
 名を呼び、待つことしばし。見事な彫刻の扉の隙間から千代紙が顔を出す。摘み上げると、細い墨字で「ほっといて」。これは完全に引きこもります宣言なのではなかろうか。

「雨麟と花祭りに行ってくるよ」

 返答はなく、もしかしたら扉の向こうでまた寝たのかもしれないなどと思いながら羽鶴は階段を下りてゆく。

(何かお土産買っていこう)

 一階が見えると雨麟がにかっと笑って手を振っている。急ぎ足で返した羽鶴は出してもらった下駄を履くと、見るからに女の子な雨麟と賑わう外へと出かけて行った。




 




「では白鈴も、夜明け前には戻りますように。わたくしもそのように致しますゆえ」
「はい。お約束ですから。あの……宵ノ進」
「どうしました?」

 夕刻、身支度を整え千鳥柄の巾着ひとつを持った宵ノ進の羽織の端を控えめに白鈴が引いた。白く柔らかな指がそうするのは昔から会話を求める時であるが、すぐにぱっと離され不安げに胸元で握られた手に穏やかな眼を向ける。内気な彼女の自己主張がいとおしい。ずうっと昔なら、気付けど素通りにして置き去ってしまっていたその仕草をいつの間にか拾うようになろうとは。

「楽しんできて、ください……」

 おや、これは意外なことを言われた。顔に出てしまったのだろう、白鈴が大きな薄紅色の眼を瞬かせて眉を下げている。
 宵ノ進は微笑むと、「ええ」と一言告げながらこそりと巾着の紐を持ち直す。

「そのようにいたしましょう。行って参ります、すず」
「あ……」

 すず、と。昔よりも棘の取れた呼び方に怯んだ白鈴は褐返色の色無地を見送ってしまう。さくさくとんとんと昔から、白鈴の見る限りではなんでもやってしまう彼との会話のタイミングがうまいことかち合ったことはない。自分より長いこと一緒に暮らしてきた朝日に相談すれば「すずちゃん押せばいいのに~!」である。別段仲がよろしくない訳でもないが、一定の距離を保ったまま今に至る気がする。

(はあ…………。どうして会話くらいうまくできないのでしょう…………うう~……思えば初めて会った頃は今よりも怖かったですし……! その頃は我儘を言って困らせてしまいましたし! いつぞやの泥酔した乱暴者を絞め上げた時など怖すぎましたし!! でもいつからか逆になっておりましたし!! …………あぁ、なんと声をかけたらいいのでしょう…………私、今でも怖いのですね、宵ノ進が…………)

 白鈴は朱塗りの下駄を履いて日の落ちた外を見つめると玄関の先に構える籠屋の大門の下で恋人を待った。ぶわりと様々な花の混じった香りがする。遠くから聞こえるお囃子と、熱を孕んだ人々の声。火の入らぬ大提灯を見上げ、知らず漏れた息。

『ここは……こわい…………』

 消え入りそうな自分の声を憶えている。拾い上げられなければ吹き消されていたというのに、ずっと思っていた。“逃げねば”と。
 直接何か危害が及んだ事はない。昔、何が怖いのかもわからずによく泣いて、きりきりと立ち振る舞っていたなりたての板前を困り顔にさせていた。

 その困り顔さえ怖かった。どうすればこれは泣き止むのか、その表情が妙に刺さった。一度、困り果てた末に頭に置かれた手に怯えて大泣きしてしまった。その、ぎこちなく離れた手が再び触れることは無く、紙風船やら飴玉やらに変わった。わんわん泣くこともなくなった頃には、すっかり距離が開いていた。
 ひらりひらり、どこからか菊の花びらが横切っては門の下へ落ちた。


「……? 鈴?」

 迎えに来た榊が黒い眼に心配を覗かせている。

「行きましょう、榊さん」

 昼間ならばまだしも、柊町挙げての大規模な花祭りは夜となれば見知った顔とすれ違うことさえ稀だ。

「まぁ鈴の悩み相談をしながら行くかぁ」
「ふぁえ!?」
「たっぷり遊んで美味しいものも食べよう」
「あわわわわわわわ」
「大抵、シンプルだよ。ほったらかしが毒になりうるだけで。意外にすとんと纏まるよ」

 榊がはぐれないようにと手を差し出す。ゆっくりとその手を取った白鈴に、嬉しさを隠しもしない笑顔が映った。
43/53ページ
スキ