二.花と貴方へ

 抱きしめられて朝を迎えた。とろりとろりと瞼が開いて、眠る杯の顔をまじまじと見てしまう。
 あのように扱われたことなどなかった。丁寧に、丁寧に、優しい言葉をかけながら。何度も涙を掬いながら、優しく髪を撫で付けて。

 身体が痛まぬことなどなかった。目が覚めれば、誰も近くにいないまま、冷えた身体を引き摺って歩いていたのに。

 はらり、涙が頬を滑る。
 
「じゅうぶん、じゅうぶんです……」

 掠れた小さな声は涙に呑まれた。何度も杯の腕を濡らしてしまう。
 目を伏せると、ゆるゆると耳のそばを撫でられた。

「また、泣いているのか」

 ほんの少しぼんやりとした杯が、頭の後ろを撫でると今以上に抱き寄せる。身体が熱い。
 涙に濡れた金の眼は、切れ長の眼に収まる淡藤色の瞳に共に見た藤を重ねた。

(ほんとうは、ほんとうは貴方の眼を、見ていたくて)

(あんまり、綺麗だから)


「……あ」

 ぼやりとした杯が、黙って見つめたままでいるので宵ノ進はだんだんと熱が上がるのを瞬きで誤魔化した。

「杯様、もう少しこのままで、宜しゅうございますか?」
「……名で呼べ」
「ひゃ! ……もしやきちんと起きてらっしゃいますか? …………。紫京さま、お目覚めですか?」

 返事がない。すこんと寝てしまっている。

「お飲み物等……これでは、御用意できませんね」

 宵ノ進はほんの少し笑った。医者の休日ももしかしたら早くないのかもしれない。

(知らぬ土地ですし、杯様にお任せしても良いでしょうか。ふふ、良く御休みです)

「どうぞ後でお叱りくださいませ」


 宵ノ進は眠る杯の鎖骨や首筋へと口づけてゆく。
 抱きしめられて身動きが取れないゆえに腰を撫で、存在を確かめるように背に指を滑らせた。







「宵ノ進」
「はい」

 和やかな返事に杯は頭が痛い。綺麗な秋晴れの下、シャツの襟ギリギリで見え隠れする位置に痕を残された。珈琲を飲むまで頭が起きずに、食事の後に気付いた始末。宿を出る際の何も見ませんでしたという受付の嘘のつけない視線、対し非常に丁寧で機嫌の良い着物。院に戻ればこのささやかな悪戯を見つけ目を輝かせながら訊いてくる後輩が眼に浮かぶ。
 呼んだはいいが既に何の話で名を呼ばれたかを理解している着物はふわふわにこにこと小言を待っている。

「……どこも変わりないか」
「……意地悪なさらないでくださいまし」
「変わりないようだな」
「まあ……! ふふ、お慕いしております、紫京さま」

 幸せそうに笑った宵ノ進の影が見当たらなかった。
 綺麗な秋晴れ、山に囲まれ人気も無く、さらりと吹いた風に花の香りが乗る。
 二人きりでの散歩、小川の流れと揺れる葉の音。
 他の生物がいない。

 手を握ると宵ノ進が嬉しそうに笑う。少し足を早めた杯を、ゆるゆると流れる雲が追った。
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