二.花と貴方へ




(ああ、いやだ)

(雪を、いただいているようで)


「宵ノ進。…………宵ノ進」
「え、あ、はい」


 湯飲みを両手に持ったまま体が跳ね上がる。宿に来てからというもの、ずいぶんと長いことだんまりしていたようで、心配が容易く滲む視線に知らずこてんと首が傾いた。

「……隣に座っても宜しいですか?」
「構わないが。待て、どうした」

 こじんまりとした和室の座卓を挟んで色付きの浅い紅葉が影となっている。日は落ちたというのに星ひとつ見えぬ藍染めを格子が切り取って、部屋中に提げられた飾り行灯のぼんやりとした色と模様とを際立てている。


「菊酒を頂きませんか? どうぞ」
(早い)「酒に酔うことはないのだったな?」
「ええ、わたくし、どうしても酔えぬのですよ。お花を生けるのも忘れて、菊酒を下ろすことさえ忘れてきてしまいました。香炉が難儀していなければよいのですが」

 味見、とはしゃいだ勢いで仕込んだ酒を全部飲み干しかねないピンク頭の届かぬ棚に置いた壺は香炉の細腕では到底動かせない。

(大瑠璃か虎雄様でしたら……)


 盃に唇を寄せ菊酒をいただきながらこんこんと考えてしまう宵ノ進は、盆の上に置くとそっと体を傾ける。寄り掛かられた杯は、行き場をなくしていた手を指先をつけてから握ってやる。びくりと、未だに声をかけねば硬直する体、詫びようと口を開きかければ、先に小さく声が漏れる。

「……と。……もっとお側に寄っても宜しいでしょうか」

 片手をやんわりと杯の頬に添えて、唇を重ねてはすぐに離れて淡藤色の瞳を見つめる。

「触れてくださいませんか、……」

 かたん、格子の外で物音が。杯がそちらの方を向くも、宵ノ進は白いシャツを引く。
 飾り行灯の灯りがじりじりと弱まって、外での物音に引き摺られては次々と消えていく。ぽつりと残った小さな丸行灯に、杯の影だけが映された。
 薄闇で見つめては何度も口づけて、抵抗も拒絶も無い杯に虚しさが込み上げる。

「……存外、怖がりなのですね」

 そう言ってまた口付ける。

「なにも仰らず、はねのけもせず。これでは――」

 宵ノ進は杯から離れると、口許を押さえて咳き込んだ。背を丸め、畳を掻き、荒れた呼吸に視界が霞む。
 昔の雇い主は、気に入らぬ者をその場で斬り殺し、気紛れに傷口の血を舐めとれと言い付けた。従わなければ死体が増えた。――死体。一瞬でも重ねてしまった己が憎い。その唇を重ねてしまった己が憎い。

(わたくし、なにを――……)

 “あれはもう手遅れだ”

「ぅ、げほ、けほっ……っ、はあ、……う」

 丸まった背に手のひらが乗る。肩を大きく上下させて、宵ノ進は顔を上げることができぬままに更に咳き込んだ。

「……初めから無理をしていた。言葉が見つからずにいた。宵ノ進、おまえは無理をしすぎる」
「だか、ら……なに、も…………」

 貴方を傷付けたい訳じゃなかった。決して、決して──。
 
「宵ノ進」
「……、あ」

 優しく背を擦られて、ぐらぐら揺れていた畳がぼんやり映ると首をもたげて身を起こす。
 するりと自身の首へ伸びた手を掴み抱き寄せた杯は、頭と背を撫でてやる。――今、自分の喉を潰そうとしたのではないか。たくさんの言葉を飲み込んで、杯はくったりと動かない宵ノ進を待った。

 かたかたと、格子の外では変わらず音がしている。古い木の蓋が、噛み合わず鳴り続いているような。

(扉さえ開かなければ、良いような気がする)

 ぬるい身体を支え続け、もしかしたらこのまま寝たのかもしれないとほんの少し途方に暮れかけると、宵ノ進が身じろいだ。

「……しきょうさまの、におい」
「…………」

 もぞり、すんすん。いつの間にか片手がシャツを握って、普段使いの布団宜しく頬をぴったりくっつけている。

「……紫京さま」
「どうした」
「抱いてくださいませんか。なにも、思えぬほどに」

 胸に頬をくっつけたまま言った宵ノ進の肌がじわりと熱を孕んでくる。
 杯の指がやんわりと髪を撫で付けて、唇から首筋へとされてゆく口づけに知らず涙が溢れた。



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