一.後ろを振り向くことなかれ
「大瑠璃!!」
羽鶴と榊が庭で見たのは、幾分小柄な着物の男。振り返った彼の腕は大切にぐったりと濡れた大瑠璃を抱き、場に似合わぬくらいのやんわりとした微笑を寄越す。
「あれは、払いました。どうか上へ。こちらの橋からお願い致します」
何事かを言いかけた羽鶴を榊が制し、やんわりと歩を進めた男についていく。小さな橋を渡り、角を曲がると僅かに聞こえていた宴会時の人の気配は途絶え、すっと立ち並ぶ両脇の柱と雨樋に花の香りを乗せた空気が続いた。
緩い坂になっている橋を三度渡り、とても長い時間に感じた羽鶴が声をかけようと口を開きかけたとき、男の足が止まりすっと襖が開かれた。
「どうぞこちらへ。今宵はどうか出歩かず、ごゆるりと御過ごしください。わたくしは」
「宵ノ進!!」
「なんでしょうか、羽鶴様」
名を呼ばれた男は静かに言葉を待った。
腕の中の大瑠璃は血の気が引き、男の鉄紺の着物は所々濡れている。
「手当が、先だろ……! 何で放っておくんだよ……! 怪我してるだろ……! 刺されたんだぞ!!」
「あなた方が無事でなければ、大瑠璃が心配しますから。わたくしが慌ててしまえば、助けることさえ手が出せなくなりますでしょう」
「ほら、俺らは無事だ。美人を頼むわ」
「榊……」
羽鶴と宵ノ進の横を通り過ぎ、榊が部屋の真ん中へどっかりと座った。
部屋には予め二人を泊める予定だったらしく、布団が二組敷いてある。
「ごめん、宵ノ進」
「いいえ。御無礼を御許しください」
宵ノ進は大瑠璃を布団の上に寝かせると、手際よく着物を払い傷の手当にかかる。
顔色を変えず淡々と血止めをし懐から取り出した塗り薬を塗る様をぽつんと見ていた羽鶴は、ちらりと見えた白い肌に乗る赤黒い色に目眩を覚えた。
水気を取り払い、新たに夜着を着せ隣の布団へ大瑠璃を寝かせた宵ノ進が血の痕が残る着物と布団を一纏めに持ち立ち上がる。
「少々お待ちを」
さっさと部屋を出ていったかと思えば、間を置かず新しい布団を二組持って戻り大瑠璃の隣に敷き始めた。
鉄紺の着物は脱いできてくれたのだろう、先程の侘び通り彼は長襦袢で綺麗に布団を整えている。
「大瑠璃は、大丈夫なの……?」
羽鶴が布団に寝かされている血の気のない大瑠璃を見ながら言うと、やんわりと柔らかい笑みが返ってきた。
「ええ。手当は済みましたから。朝まで眠れば良くなるでしょう。あれの傷は少々違いますのでご心配なく。大瑠璃を、頼みます。ご用がありましたら、壁掛け鈴を鳴らせば籠屋の者が参りますゆえ」
「宵ノ進……! どこへ……?」
「内緒、にございます」
にこりと笑う宵ノ進は、すっと閉められた襖の向こうへ消えた。「妙な言葉遣いだな」と言った榊に返す言葉もなく、あたふたと大瑠璃と襖とを見比べる。
羽鶴は知らない土地に置き去りにされたような感覚に陥った。
羽鶴と榊が庭で見たのは、幾分小柄な着物の男。振り返った彼の腕は大切にぐったりと濡れた大瑠璃を抱き、場に似合わぬくらいのやんわりとした微笑を寄越す。
「あれは、払いました。どうか上へ。こちらの橋からお願い致します」
何事かを言いかけた羽鶴を榊が制し、やんわりと歩を進めた男についていく。小さな橋を渡り、角を曲がると僅かに聞こえていた宴会時の人の気配は途絶え、すっと立ち並ぶ両脇の柱と雨樋に花の香りを乗せた空気が続いた。
緩い坂になっている橋を三度渡り、とても長い時間に感じた羽鶴が声をかけようと口を開きかけたとき、男の足が止まりすっと襖が開かれた。
「どうぞこちらへ。今宵はどうか出歩かず、ごゆるりと御過ごしください。わたくしは」
「宵ノ進!!」
「なんでしょうか、羽鶴様」
名を呼ばれた男は静かに言葉を待った。
腕の中の大瑠璃は血の気が引き、男の鉄紺の着物は所々濡れている。
「手当が、先だろ……! 何で放っておくんだよ……! 怪我してるだろ……! 刺されたんだぞ!!」
「あなた方が無事でなければ、大瑠璃が心配しますから。わたくしが慌ててしまえば、助けることさえ手が出せなくなりますでしょう」
「ほら、俺らは無事だ。美人を頼むわ」
「榊……」
羽鶴と宵ノ進の横を通り過ぎ、榊が部屋の真ん中へどっかりと座った。
部屋には予め二人を泊める予定だったらしく、布団が二組敷いてある。
「ごめん、宵ノ進」
「いいえ。御無礼を御許しください」
宵ノ進は大瑠璃を布団の上に寝かせると、手際よく着物を払い傷の手当にかかる。
顔色を変えず淡々と血止めをし懐から取り出した塗り薬を塗る様をぽつんと見ていた羽鶴は、ちらりと見えた白い肌に乗る赤黒い色に目眩を覚えた。
水気を取り払い、新たに夜着を着せ隣の布団へ大瑠璃を寝かせた宵ノ進が血の痕が残る着物と布団を一纏めに持ち立ち上がる。
「少々お待ちを」
さっさと部屋を出ていったかと思えば、間を置かず新しい布団を二組持って戻り大瑠璃の隣に敷き始めた。
鉄紺の着物は脱いできてくれたのだろう、先程の侘び通り彼は長襦袢で綺麗に布団を整えている。
「大瑠璃は、大丈夫なの……?」
羽鶴が布団に寝かされている血の気のない大瑠璃を見ながら言うと、やんわりと柔らかい笑みが返ってきた。
「ええ。手当は済みましたから。朝まで眠れば良くなるでしょう。あれの傷は少々違いますのでご心配なく。大瑠璃を、頼みます。ご用がありましたら、壁掛け鈴を鳴らせば籠屋の者が参りますゆえ」
「宵ノ進……! どこへ……?」
「内緒、にございます」
にこりと笑う宵ノ進は、すっと閉められた襖の向こうへ消えた。「妙な言葉遣いだな」と言った榊に返す言葉もなく、あたふたと大瑠璃と襖とを見比べる。
羽鶴は知らない土地に置き去りにされたような感覚に陥った。