二.花と貴方へ

「……美味しい…………」

 花と植物に囲まれた白い椅子にちょんと座って花模様の紙コップを両手で持つ宵ノ進は、柑橘の口当たりに目を細めて透明な中身を覗いている。目の周りが赤く腫れてしまい、申し訳なさそうに少し笑った彼を連れ回すことは阻まれた。
 ことり、白いテーブルに紫の花片が入った硝子の皿が置かれる。さりげない装飾と透明な硝子に収まる花片には砂糖の粒が控え目に乗っており、見つめる宵ノ進の向かいに杯が腰掛けた。

「菫の砂糖漬けだ。ここの持ち主の自信作だそうだ」
「おひとつ頂戴します。……わたくし、好きです」
「良かった。春先には菫の菓子を出すだろう、口に合うかと肝を冷やした」
「まあ、杯様もそのようなことを仰る。ふふ、覚えてらっしゃったのですね。楽しみにされているお客様もいらっしゃって。喜ばしいことです、ほんとうに」
「歌露はまた作るのか」

 春先に、籠屋の小さな和菓子屋で出される菫の花に朝露の乗る上生菓子は透明な泡で包まれ、口当たりも後を引かずに柔らかに感じる香りと共に消えていく。春の限定、上生菓子の名は歌露、気まぐれで作らなかった年、店番の朝日に聞かされたしょんぼり報告が未だに忘れられないでいる。

「朝日を困らせたくはありませんし……求めてくださるならば、お作りしようと思っております」
「楽しみにしておこう」
「……そういえば、誰もいらっしゃらないのですね……ここも、貸し切りなのですか?」
「持ち主が知人でな。公開前で好きに使えと言ったまま新種の花の種を求めて海外に行っている。……嫌だったか? 感想は伝えねばならんが」
「ふふ、いいえ。では、こんなに美しいお庭を杯様とご一緒できましたのは喜ばしいと。……すこし、気が緩んでしまったのですよ」

 誰もいなくてよかったと。人気のない静けさを、知らず求めてしまっていたから。

「藤が、綺麗でした」

 遠目に映る藤棚に、柔らかに笑う。そうかと短く返る声にくすりと笑って、ええ、と一言。

「杯様、虎雄様の連絡先は御存じですか? できれば、お電話をお借りしたいのですが…………――ええ、虎雄様。はい、……はい。ありがとうございます。……何故でしょう、虎雄様はあっさりと御許しくださって……ゆっくり楽しんで帰ってくるようにと……」
「言葉のままだと思うがな」
「はあ。しかし、不思議な板でございます。お声が耳元で響くなど、何度見ても慣れませぬ」

 宵ノ進は店主の持つ金を薄く伸ばした塊がつやつやてらてらと輝く様を思い浮かべながら首をかしげる。部屋の中も金貼りであるのに、どうにも目立つ金色の板が電話であると理解はできても落ち着かぬ心地になるのである。

「写真も撮れたりする」
「益々奇怪でございます……ああ、なりませんよ。杯様の機械が壊れてしまいます」
「そうだったな……」

 杯は花の咲き乱れる庭の写真を何枚か撮ると、画面を宵ノ進に見せてくる。

「ふふ、綺麗に撮れてらっしゃいます」
「今度送ろう、絵葉書のようにしてやる」
「それは楽しみです、よく見えるところに飾らなくては」
「今日はこのまま宿に行く。行きたい場所があれば明日連れていこう。いつでも言え」
「……、そうですね、では杯様。わたくし、もう一度藤棚が見たいです」

 宵ノ進はゆっくり立ち上がると、控え目に杯へと手を伸ばした。
 するり、杯に手を取られるとふんわりと笑って、藤棚の方へと引いてゆく。
 視界を埋める大棚の藤が時折背の高い杯の髪を撫で、ほんの少し橙色の髪を乱すとすぐに気にしたように手が伸びる。くすりと笑えば、ほんの少し不満げな表情。構わずに、宵ノ進は手を引いてゆく。
 奥へゆくほど藤の花は垂れ、視界にかかるとさすがに短く名を呼ばれる。
 顔を向けた宵ノ進の金の丸い眼は、藤をよけ身をかがめた杯にとろりと笑う。

「杯様、御髪に花がついていらっしゃいますよ」

 視線の合ったもの言いたげな淡藤色の眼に構わずに、宵ノ進はそっと口付けた。
 触れて離れて金の眼は、見つめたまま消え入る声音を押し出した。

「嫌でしたか?」

 やんわりと抱き寄せられると、ただただ静かに唇が重なった。
34/53ページ
スキ