二.花と貴方へ
噴水の白い石が視界に映ると杯は怪訝な顔つきのまま目を見開くはめになった。花を見ていることに変わりはないだろうが、百入茶の和装コートが白い石の上に見える。
「ひっ……! あの、これは、ですね……登ってみたく、なりまして……その……い、今降りますゆえ……!」
宵ノ進は顔を真っ赤にして両腕を頼りに降りようと試みるが、片方脱げた下駄を気にして何やら危うい。そもそも足袋を草地に着けるなど嫌がる性格であるから、片脚頼りの着地はそれこそ嫌な予感しかしない。
「待て、宵ノ進――」
降りた際に片脚では支えきれずによろけた宵ノ進を咄嗟に支えた杯は息を詰めた気配に苦笑した。咄嗟であるとはいえ、身体に触れれば反射的に起こる小さな拒絶。
「すまない。…………?」
詫びて離れるはずの杯の腕に、両手がやんわりと乗った。
「下駄を、履くまでお待ちになって」
視線を逸らした金の眼は火照る頬など構わずに、ひとつ息を吸うと杯の手の甲に指を這わす。
「杯様の手は、怖くない、です」
お顔を見るのが恐ろしい。優しい貴方の離れたお顔など見てしまったら。
金の眼は視線を向ける。静かな、静かな表情の読み取れぬ顔が視線を返してくる。
「どのような意味か、解っているか?」
「……貴方は、乱暴なさらないのでしょう……?」
たっぷりの間の後、僅かに震えた声が指先に伝わる。
「誰かに刺されるのは我慢ならない」
「……もう過ぎましたことです」
「過去におまえを刺した者たちは謝罪を繰り返した後、何故刺したのかわからないと言う。知っているだろう、宵ノ進」
「――ええ。あの方はたくさん人を連れていましたから。杯様、わたくし、貴方にお伝えしなくてはならぬことがございます」
伝えるのが怖い。先程よりも、ずっとおそろしい。この優しい方が尽くしてくれたこれまでを、踏み荒らし蔑ろにしてしまう非礼。深く傷つけてしまうことが怖い。気持ちを抑えて他者を待つ、そのような人柄だからこそ。
「わたくしは家なしの男娼でした。雇い主を殺めたのですよ。もう誰にも触れていいはずがなかった。さぞ恨まれていることでしょう。あの方はわたくしを刺しに来る。人を使って――怨霊と言った方がよいのでしょう。こちらでわたくしを刺した方たちに、非はないのです。わたくしが雇い主を殺めた。もとは、そこなのですから。……お嫌いでしょう? 命を救ってくださる貴方に、そのようなお顔をさせてしまう。わたくし、貴方に触れていいはずがなかった、貴方のやさしさを受けていいはずがなかった……貴方がお顔をゆがめるような、汚いことばかり……人まで殺めて……お料理など……わたくし、死んでいるはずでしたのに、生き延びて、しまった……生きたいと、思ってしまった……!」
震えた声が溶けぼたりと着物に染みをつくる。嘘だ、汚いばかりのこの身にどうして、涙など。
肩を震わし俯いた宵ノ進を、杯は抱き寄せた。
黄朽葉色の髪とうなじに乗った大きな手。背を支える手のひらに、拒絶も悪意も感じない。どうして、声にならなかった。
「言っただろう、刺されるのは我慢ならないと。おまえが乱暴に扱われるのは、我慢ならない」
肺に空気を取り込む度に絡めた言葉が死んでいく。ぼたぼたとみっともなく流れて衣服を汚してしまうのに、良い、と手が離れない。
気付けば杯の服を握っていた。縋りついて泣くなんて、とうの昔に終え殺めたはずだった。
乱れた息が整うまでに、ゆるゆると髪を撫でられては解けた心地になっていた。幼馴染はよく髪を撫でてくれた。静かに、気の済むまで傍にいて。またひとつ涙が零れた。
「も、し……わけ……」
「いい。……またおまえの料理が食べたい」
「……っ、うう…………」
「腫らしたままは帰せない、いや、これは私の我が儘なのだが。居てくれないか、今夜も。宵ノ進が良ければ、だが」
小さく頷いてもたれかかる宵ノ進は一度金の眼を閉じた。
「ひっ……! あの、これは、ですね……登ってみたく、なりまして……その……い、今降りますゆえ……!」
宵ノ進は顔を真っ赤にして両腕を頼りに降りようと試みるが、片方脱げた下駄を気にして何やら危うい。そもそも足袋を草地に着けるなど嫌がる性格であるから、片脚頼りの着地はそれこそ嫌な予感しかしない。
「待て、宵ノ進――」
降りた際に片脚では支えきれずによろけた宵ノ進を咄嗟に支えた杯は息を詰めた気配に苦笑した。咄嗟であるとはいえ、身体に触れれば反射的に起こる小さな拒絶。
「すまない。…………?」
詫びて離れるはずの杯の腕に、両手がやんわりと乗った。
「下駄を、履くまでお待ちになって」
視線を逸らした金の眼は火照る頬など構わずに、ひとつ息を吸うと杯の手の甲に指を這わす。
「杯様の手は、怖くない、です」
お顔を見るのが恐ろしい。優しい貴方の離れたお顔など見てしまったら。
金の眼は視線を向ける。静かな、静かな表情の読み取れぬ顔が視線を返してくる。
「どのような意味か、解っているか?」
「……貴方は、乱暴なさらないのでしょう……?」
たっぷりの間の後、僅かに震えた声が指先に伝わる。
「誰かに刺されるのは我慢ならない」
「……もう過ぎましたことです」
「過去におまえを刺した者たちは謝罪を繰り返した後、何故刺したのかわからないと言う。知っているだろう、宵ノ進」
「――ええ。あの方はたくさん人を連れていましたから。杯様、わたくし、貴方にお伝えしなくてはならぬことがございます」
伝えるのが怖い。先程よりも、ずっとおそろしい。この優しい方が尽くしてくれたこれまでを、踏み荒らし蔑ろにしてしまう非礼。深く傷つけてしまうことが怖い。気持ちを抑えて他者を待つ、そのような人柄だからこそ。
「わたくしは家なしの男娼でした。雇い主を殺めたのですよ。もう誰にも触れていいはずがなかった。さぞ恨まれていることでしょう。あの方はわたくしを刺しに来る。人を使って――怨霊と言った方がよいのでしょう。こちらでわたくしを刺した方たちに、非はないのです。わたくしが雇い主を殺めた。もとは、そこなのですから。……お嫌いでしょう? 命を救ってくださる貴方に、そのようなお顔をさせてしまう。わたくし、貴方に触れていいはずがなかった、貴方のやさしさを受けていいはずがなかった……貴方がお顔をゆがめるような、汚いことばかり……人まで殺めて……お料理など……わたくし、死んでいるはずでしたのに、生き延びて、しまった……生きたいと、思ってしまった……!」
震えた声が溶けぼたりと着物に染みをつくる。嘘だ、汚いばかりのこの身にどうして、涙など。
肩を震わし俯いた宵ノ進を、杯は抱き寄せた。
黄朽葉色の髪とうなじに乗った大きな手。背を支える手のひらに、拒絶も悪意も感じない。どうして、声にならなかった。
「言っただろう、刺されるのは我慢ならないと。おまえが乱暴に扱われるのは、我慢ならない」
肺に空気を取り込む度に絡めた言葉が死んでいく。ぼたぼたとみっともなく流れて衣服を汚してしまうのに、良い、と手が離れない。
気付けば杯の服を握っていた。縋りついて泣くなんて、とうの昔に終え殺めたはずだった。
乱れた息が整うまでに、ゆるゆると髪を撫でられては解けた心地になっていた。幼馴染はよく髪を撫でてくれた。静かに、気の済むまで傍にいて。またひとつ涙が零れた。
「も、し……わけ……」
「いい。……またおまえの料理が食べたい」
「……っ、うう…………」
「腫らしたままは帰せない、いや、これは私の我が儘なのだが。居てくれないか、今夜も。宵ノ進が良ければ、だが」
小さく頷いてもたれかかる宵ノ進は一度金の眼を閉じた。