二.花と貴方へ
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宵ノ進がもぞりと身じろぐと、普段と違う布団の匂いにとろとろと瞬いては隣の布団へ手を伸ばす。指先は畳を擦るばかり、人がいたかも疑わしいほどに整ったまま敷かれた布団。
(どちらへいかれたのでしょう)
空の布団、金魚鉢、掛けられたままの杯の上着。
視線を泳がせてしまった。ぼうっとした思考のまま身体を起こして、捲れた掛け布団の上に両手を乗せたまま重い瞼と闘うことしばし。
(あ……どこも痛くない……)
寝相と摩擦でずれた浴衣を直していると、金魚鉢の中で悠長に泳ぐ一匹と目が合う。餌は見当たらないので不要ということだろうか、杯さえよければ、もう一度館内の水槽を見て回りたい。
「不思議だ……」
あれだけ拒んだのに。
手のひらを見つめると、穿たれ川底へと道連れにした血だまりを思い起こす。それ以前に、本当は、もう誰にも触れてはならぬ手のひらであるはずなのに。本当は、料理だって。
(貴方は、生かすのですね)
貴方の指は。
(お戻りになる前に、着替えてしまわなくては)
すべて整えてお迎えしなくては。
「如何です? わたくし杯様のお車にも慣れましたでしょう?」
天鵞絨色の着物の上から膝掛けを体にかけシートベルトをすることを覚えた宵ノ進は運転席を見るも、顔を逸らして震える医者の頭に何度か瞬いた。
「ま、また笑ってらっしゃる……! なにゆえ、なにゆえそのような……!」
朝食の後館内を見て回りたいとの申し出に快く応じたはいいが、長い水槽をぱたぱたと追いかけては金魚を見つめ、杯の方へ話しかけながら顔を向けると滅多にやらぬ咳払い、巨大金魚鉢を物珍しげに覗いていると普段の物静かな印象であるのに違和感が、お土産に至っては読めずに難儀しているところを「クッキー」と読み上げて、「くっきぃ」と音を似せて返せば口許を押さえて笑いを堪えていた。
「杯様、よもや朝食の茸はわたくしも知らぬ毒茸でしたので? 夜も明けぬ間に別の杯様と取り替えられてしまわれましたので?」
「いや、すまない。気が緩んでいるようだ」
「まあ、でしたらそれは、良かった」
宵ノ進はふんわり笑う。気配りばかりの杯が楽しんでいるのなら、良い。知らぬ一面。籠屋から出ることがなければ知らずにいた一面。
(……ああ)
夜が来る前に、この方を帰してしまわなければ。優しいこの方を、無事に帰してしまわなければ。
「杯様、ここはお手入れの行き届いたお庭ですね。不思議です、こんなに暖かいなんて……まあ菫!」
「この庭は季節に関係無く花を育て咲かせているそうだ。菫が好きか」
「ええ、こんなにたくさんの種類を一度に見たのは初めてです。あちらは藤棚でしょうか? 季節が失せるなど、夢のよう」
連れられたのは一面花が広がる庭だった。時期外れの花が咲き、水路が通る隣を沿うように歩けば花片も流れ。視線をどこへ遣れども咲き乱れる花、見上げれば先を埋め尽くす程の見事な藤。ゆったりと藤の下を歩きながら、隣を歩く杯の淡藤色の瞳を覗くとすぐに視線となって返ってくる。
「綺麗だと、思いまして」
「そうか」
沈黙を携え、ゆらゆら、ゆらゆら。咲き誇る藤の下、混じる下駄と靴音に水音が加わる。
藤棚を抜けると、大きな噴水が水を噴き上げたところだった。
「わあ……」
噴水を囲む白い石は胸の高さ程あり、転落防止の意味もあるその囲いから段々と枝分かれし水路へ続いている。
「噴水を見るのも初めてか?」
「ええ、朝日が話してくれたことがありましたが……綺麗なのですね……」
突然聞き慣れぬ音楽が響く。一瞬にして顔色の曇った杯に、宵ノ進は首をかしげるも、取り出された四角い箱には見覚えがあった。
「すまない、緊急時以外は鳴らないようにしてあるんだが……病院からだ、少し待っていてほしい」
「いいえ、杯様はお医者様ですから。わたくし、ここでお待ちしておりますゆえ、そのようなお顔をなさらずに」
「すまないな」
遠くへ歩いていく杯は、電話越しに宵ノ進の全く解らない用語で何やら指示を出しているようだった。滅多にないお休みを、自分との時間に割いてくれた杯は辿り着きさえすれば助かる、といわれる程の腕前で、下で働く医師からの信頼も厚いと聞く。杯本人は何も言わないが、柊町へ置くには惜しい、と散々言われている話も耳に挟んだことがある。
(それでも、柊町にいてくださる……)
多忙な医師は頼んでいる薬を自らの足で運んでくる。立ち寄って、料理を食べて帰ってゆく。もし気が変わって、他の場所へと行ってしまったら。
(少し、さびしい……)
一人で見る花。美しさに、それ以上を見出だせない。
(いいえ、わたくし、すぐに甘えてしまうのですから。それでは、いけません)
いつの間にか俯いていた顔を上げ、白い石が眼に映る。
(……少し登ってみようかしら)
幼い頃、活発な幼馴染に続いて川辺で遊んだものだ。身体を動かすことは得意ではないので、浅瀬の辺りで岩に登って、容易く木登りをしてみせる幼馴染を仰いで。折れた枝の葉を千切っては放り、流れ行く様を眺めていた隣で、川へ入ったと思えば素手で魚を捕らえて驚かして見せる幼馴染の笑った顔。彼の父は、息子が捕らえてきた魚を捌いて調理することに長けていた。捕り方も教わったと聞く彼の父は、身体が丈夫でなかったけれども。
両腕を伸ばして、ひょいと身体を持ち上げると白い石の上に腰を下ろした。宵ノ進に自覚はないが、あっさり鮪の解体をやってのける腕力はあるのである。
(風が吹いたら、いいのに)
ここは巨大な温室らしい。何も青空を遮らないのが不思議だ。どうなっているのかは全く解らないが、朝日ならば詳しい解説が聞けるだろう。
噴水の澄んだ水底に散らばる貝が光を返して美しい。ゆらゆら揺れて、温室すべての植物を潤している。
鼻緒を引っかけた両脚を、ぶらぶら、ぶらぶら。落とさぬように、花を見下ろす宵ノ進はくすりと笑った。
(鼻緒も目立たぬ柄に変えましたのに、見ていただけぬのは喜ばしいことなのでしょうね)
ふと、宵ノ進は足を止める。周りに人気が全くないからといって、このような素行、見られでもしたら。
(わたくし何を浮かれて……浮かれて? 楽しみにしている? わたくしが? ……)
ぽとり、下駄が片方地へ落ちた。
(杯様が、お戻りになるのを……?)
部下への指示が終わり即座に戻ろうとした杯は、三度目の着信に舌打ちしてから出ることにした。この相手ならば留守の間に着信履歴を埋めかねない。
「休暇中だ、帰ってからにしろ」
本当に話したい内容がある場合出始めに纏めて言う事が殆どなので、今回は単に暇なのだろうと電話を切った。帰ってから対策も兼ねて纏めて聞けばいい。
どうも電話で話しながら移動すると早足になるのが癖になっているらしい。随分遠くへ来てしまった。宵ノ進は大丈夫だろうか。この花畑ならば特に気兼ねはないだろうが。
(壊したければとっくにしている)
既に脆い状態が、初めからそうだとは思えない。
(少しずつでいい。幾らでも待とう。宵ノ進が人からの好意を受け取れるようになるまで、待つつもりだ)
宵ノ進がもぞりと身じろぐと、普段と違う布団の匂いにとろとろと瞬いては隣の布団へ手を伸ばす。指先は畳を擦るばかり、人がいたかも疑わしいほどに整ったまま敷かれた布団。
(どちらへいかれたのでしょう)
空の布団、金魚鉢、掛けられたままの杯の上着。
視線を泳がせてしまった。ぼうっとした思考のまま身体を起こして、捲れた掛け布団の上に両手を乗せたまま重い瞼と闘うことしばし。
(あ……どこも痛くない……)
寝相と摩擦でずれた浴衣を直していると、金魚鉢の中で悠長に泳ぐ一匹と目が合う。餌は見当たらないので不要ということだろうか、杯さえよければ、もう一度館内の水槽を見て回りたい。
「不思議だ……」
あれだけ拒んだのに。
手のひらを見つめると、穿たれ川底へと道連れにした血だまりを思い起こす。それ以前に、本当は、もう誰にも触れてはならぬ手のひらであるはずなのに。本当は、料理だって。
(貴方は、生かすのですね)
貴方の指は。
(お戻りになる前に、着替えてしまわなくては)
すべて整えてお迎えしなくては。
「如何です? わたくし杯様のお車にも慣れましたでしょう?」
天鵞絨色の着物の上から膝掛けを体にかけシートベルトをすることを覚えた宵ノ進は運転席を見るも、顔を逸らして震える医者の頭に何度か瞬いた。
「ま、また笑ってらっしゃる……! なにゆえ、なにゆえそのような……!」
朝食の後館内を見て回りたいとの申し出に快く応じたはいいが、長い水槽をぱたぱたと追いかけては金魚を見つめ、杯の方へ話しかけながら顔を向けると滅多にやらぬ咳払い、巨大金魚鉢を物珍しげに覗いていると普段の物静かな印象であるのに違和感が、お土産に至っては読めずに難儀しているところを「クッキー」と読み上げて、「くっきぃ」と音を似せて返せば口許を押さえて笑いを堪えていた。
「杯様、よもや朝食の茸はわたくしも知らぬ毒茸でしたので? 夜も明けぬ間に別の杯様と取り替えられてしまわれましたので?」
「いや、すまない。気が緩んでいるようだ」
「まあ、でしたらそれは、良かった」
宵ノ進はふんわり笑う。気配りばかりの杯が楽しんでいるのなら、良い。知らぬ一面。籠屋から出ることがなければ知らずにいた一面。
(……ああ)
夜が来る前に、この方を帰してしまわなければ。優しいこの方を、無事に帰してしまわなければ。
「杯様、ここはお手入れの行き届いたお庭ですね。不思議です、こんなに暖かいなんて……まあ菫!」
「この庭は季節に関係無く花を育て咲かせているそうだ。菫が好きか」
「ええ、こんなにたくさんの種類を一度に見たのは初めてです。あちらは藤棚でしょうか? 季節が失せるなど、夢のよう」
連れられたのは一面花が広がる庭だった。時期外れの花が咲き、水路が通る隣を沿うように歩けば花片も流れ。視線をどこへ遣れども咲き乱れる花、見上げれば先を埋め尽くす程の見事な藤。ゆったりと藤の下を歩きながら、隣を歩く杯の淡藤色の瞳を覗くとすぐに視線となって返ってくる。
「綺麗だと、思いまして」
「そうか」
沈黙を携え、ゆらゆら、ゆらゆら。咲き誇る藤の下、混じる下駄と靴音に水音が加わる。
藤棚を抜けると、大きな噴水が水を噴き上げたところだった。
「わあ……」
噴水を囲む白い石は胸の高さ程あり、転落防止の意味もあるその囲いから段々と枝分かれし水路へ続いている。
「噴水を見るのも初めてか?」
「ええ、朝日が話してくれたことがありましたが……綺麗なのですね……」
突然聞き慣れぬ音楽が響く。一瞬にして顔色の曇った杯に、宵ノ進は首をかしげるも、取り出された四角い箱には見覚えがあった。
「すまない、緊急時以外は鳴らないようにしてあるんだが……病院からだ、少し待っていてほしい」
「いいえ、杯様はお医者様ですから。わたくし、ここでお待ちしておりますゆえ、そのようなお顔をなさらずに」
「すまないな」
遠くへ歩いていく杯は、電話越しに宵ノ進の全く解らない用語で何やら指示を出しているようだった。滅多にないお休みを、自分との時間に割いてくれた杯は辿り着きさえすれば助かる、といわれる程の腕前で、下で働く医師からの信頼も厚いと聞く。杯本人は何も言わないが、柊町へ置くには惜しい、と散々言われている話も耳に挟んだことがある。
(それでも、柊町にいてくださる……)
多忙な医師は頼んでいる薬を自らの足で運んでくる。立ち寄って、料理を食べて帰ってゆく。もし気が変わって、他の場所へと行ってしまったら。
(少し、さびしい……)
一人で見る花。美しさに、それ以上を見出だせない。
(いいえ、わたくし、すぐに甘えてしまうのですから。それでは、いけません)
いつの間にか俯いていた顔を上げ、白い石が眼に映る。
(……少し登ってみようかしら)
幼い頃、活発な幼馴染に続いて川辺で遊んだものだ。身体を動かすことは得意ではないので、浅瀬の辺りで岩に登って、容易く木登りをしてみせる幼馴染を仰いで。折れた枝の葉を千切っては放り、流れ行く様を眺めていた隣で、川へ入ったと思えば素手で魚を捕らえて驚かして見せる幼馴染の笑った顔。彼の父は、息子が捕らえてきた魚を捌いて調理することに長けていた。捕り方も教わったと聞く彼の父は、身体が丈夫でなかったけれども。
両腕を伸ばして、ひょいと身体を持ち上げると白い石の上に腰を下ろした。宵ノ進に自覚はないが、あっさり鮪の解体をやってのける腕力はあるのである。
(風が吹いたら、いいのに)
ここは巨大な温室らしい。何も青空を遮らないのが不思議だ。どうなっているのかは全く解らないが、朝日ならば詳しい解説が聞けるだろう。
噴水の澄んだ水底に散らばる貝が光を返して美しい。ゆらゆら揺れて、温室すべての植物を潤している。
鼻緒を引っかけた両脚を、ぶらぶら、ぶらぶら。落とさぬように、花を見下ろす宵ノ進はくすりと笑った。
(鼻緒も目立たぬ柄に変えましたのに、見ていただけぬのは喜ばしいことなのでしょうね)
ふと、宵ノ進は足を止める。周りに人気が全くないからといって、このような素行、見られでもしたら。
(わたくし何を浮かれて……浮かれて? 楽しみにしている? わたくしが? ……)
ぽとり、下駄が片方地へ落ちた。
(杯様が、お戻りになるのを……?)
部下への指示が終わり即座に戻ろうとした杯は、三度目の着信に舌打ちしてから出ることにした。この相手ならば留守の間に着信履歴を埋めかねない。
「休暇中だ、帰ってからにしろ」
本当に話したい内容がある場合出始めに纏めて言う事が殆どなので、今回は単に暇なのだろうと電話を切った。帰ってから対策も兼ねて纏めて聞けばいい。
どうも電話で話しながら移動すると早足になるのが癖になっているらしい。随分遠くへ来てしまった。宵ノ進は大丈夫だろうか。この花畑ならば特に気兼ねはないだろうが。
(壊したければとっくにしている)
既に脆い状態が、初めからそうだとは思えない。
(少しずつでいい。幾らでも待とう。宵ノ進が人からの好意を受け取れるようになるまで、待つつもりだ)