二.花と貴方へ
ひたひたと裸足で廊下を歩く宵ノ進は、浴衣に羽織をかけたまま壁に嵌め込まれた長い水槽を泳ぐ金魚を追いかける。
壁に沿い、角を曲がっても続く水槽。尾びれの見事な一匹を追いかけた先、群れに出くわしどれだかわからなくなってしまった。
「こんなに大きな水槽で、息苦しくはないのでしょうか……」
呟いて、水槽越しの群れをなぞると一気に逃げてゆく。壁の内側に収納されているのだから、水面の先は照明と骨組みなのだろう。
「空が見えぬのですね……」
時折床板が軋む。古い旅館だ。
売店を覗いても誰もいない。貸し切りなのだから大丈夫だろうが、普段からこうならば不用心な気がする。
金魚館と書かれた根付けや金魚のぬいぐるみ、箸置きが並ぶ中で硝子の置物を見つけた。
「らんちゅう……香炉が喜びそうですね……あら、これは……洋菓子、でしょうね……」
首をかしげた宵ノ進の前には平箱とランチュウクッキーの文字。形と色を再現している写真が載る包み紙に書かれた文字が殆ど読めない。平仮名と漢字を探してあとは理解力でどうにかするが、それ以外は覚えようとしても全く馴染まないのでだいぶ昔に諦めた。
(あちらは何があるのでしょう……?)
奥へと続く廊下と水槽に歩を進める。からからと引き戸からこっそり顔を覗かせると、夜の庭園に出くわした。外履きを軽く引っかけて出てみると真ん中には池があり、灯籠の灯りに寄せられて金魚が泳いでいる。秋の夜風が肌を撫で、ぞわりと身体を震わせた。
(嫌な風……)
撫で方が似ている。かつての雇い主に。
(思い出したく、ない……)
身体が覚えている。引き戸を開ける両手が震える。
ぐいと、着物と髪を引かれる錯覚に陥る。振りほどかなくては。目の届かぬところへ、遠くへ、逃げなくては。
手が。大きな手が口を塞ぐ。嫌だ、振り返ったら、また。
ずるずると引き戸の下にくずおれて、縮こまる身体を秋風が冷やしてゆく。
(大丈夫、なにもない、なにも……)
手探りで引き戸を開け、履き物が転がる音に構わず床板に倒れ込む。
ふと、聞き慣れた音を拾った。
「立てるか」
「申し訳、ありません……」
宵ノ進の手は壁にこつんと爪が当たったきり動かなかった。虚ろで、浅い呼吸を繰り返す。
「すまないが、体に触れる。文句は後で言え」
開いたままの引き戸に、転がった履き物。杯はそれらを直してから抱き上げて、部屋へと向かった。
体が異様に冷たい。どれほどああしていたのか、ぐったりしている宵ノ進は血の気が引いて青白い。
(……以前なら、外で倒れていただろうか)
よく怪我をする板前だった。事故、と言うべきか。怪我を負わされても、橋から身を投げても、無抵抗だった。けれど、今はもがいた跡がある。
「湯冷めしないようにしておけと言っただろう」
「すぐに、戻ろうと……」
「だが、良い変化だ」
「……、どうして……」
部屋に戻ると布団に寝かせる。隣に腰を下ろした杯は、詫びる小さな声に「今更だな」、と返した。
「誘った時点で承諾している。無理に付き合う程暇でもないのでな」
ゆるゆると会話をした。落ち着いて、少し顔色の戻った宵ノ進が布団から指先だけを出す。
「……触ってくださいませんか」
「震えているようだが?」
「いつまでも、このままでは……」
「……嫌なら言え」
震えるぬるい指先に指が重なる。じんわりと伝わる熱に、抵抗はなかった。
「熱い、ですね……」
「お前の手が冷たいだけだ」
「もう少し、このままで」
眠ってしまうまで、他愛もない会話をする二人を金魚だけが見ていた。
壁に沿い、角を曲がっても続く水槽。尾びれの見事な一匹を追いかけた先、群れに出くわしどれだかわからなくなってしまった。
「こんなに大きな水槽で、息苦しくはないのでしょうか……」
呟いて、水槽越しの群れをなぞると一気に逃げてゆく。壁の内側に収納されているのだから、水面の先は照明と骨組みなのだろう。
「空が見えぬのですね……」
時折床板が軋む。古い旅館だ。
売店を覗いても誰もいない。貸し切りなのだから大丈夫だろうが、普段からこうならば不用心な気がする。
金魚館と書かれた根付けや金魚のぬいぐるみ、箸置きが並ぶ中で硝子の置物を見つけた。
「らんちゅう……香炉が喜びそうですね……あら、これは……洋菓子、でしょうね……」
首をかしげた宵ノ進の前には平箱とランチュウクッキーの文字。形と色を再現している写真が載る包み紙に書かれた文字が殆ど読めない。平仮名と漢字を探してあとは理解力でどうにかするが、それ以外は覚えようとしても全く馴染まないのでだいぶ昔に諦めた。
(あちらは何があるのでしょう……?)
奥へと続く廊下と水槽に歩を進める。からからと引き戸からこっそり顔を覗かせると、夜の庭園に出くわした。外履きを軽く引っかけて出てみると真ん中には池があり、灯籠の灯りに寄せられて金魚が泳いでいる。秋の夜風が肌を撫で、ぞわりと身体を震わせた。
(嫌な風……)
撫で方が似ている。かつての雇い主に。
(思い出したく、ない……)
身体が覚えている。引き戸を開ける両手が震える。
ぐいと、着物と髪を引かれる錯覚に陥る。振りほどかなくては。目の届かぬところへ、遠くへ、逃げなくては。
手が。大きな手が口を塞ぐ。嫌だ、振り返ったら、また。
ずるずると引き戸の下にくずおれて、縮こまる身体を秋風が冷やしてゆく。
(大丈夫、なにもない、なにも……)
手探りで引き戸を開け、履き物が転がる音に構わず床板に倒れ込む。
ふと、聞き慣れた音を拾った。
「立てるか」
「申し訳、ありません……」
宵ノ進の手は壁にこつんと爪が当たったきり動かなかった。虚ろで、浅い呼吸を繰り返す。
「すまないが、体に触れる。文句は後で言え」
開いたままの引き戸に、転がった履き物。杯はそれらを直してから抱き上げて、部屋へと向かった。
体が異様に冷たい。どれほどああしていたのか、ぐったりしている宵ノ進は血の気が引いて青白い。
(……以前なら、外で倒れていただろうか)
よく怪我をする板前だった。事故、と言うべきか。怪我を負わされても、橋から身を投げても、無抵抗だった。けれど、今はもがいた跡がある。
「湯冷めしないようにしておけと言っただろう」
「すぐに、戻ろうと……」
「だが、良い変化だ」
「……、どうして……」
部屋に戻ると布団に寝かせる。隣に腰を下ろした杯は、詫びる小さな声に「今更だな」、と返した。
「誘った時点で承諾している。無理に付き合う程暇でもないのでな」
ゆるゆると会話をした。落ち着いて、少し顔色の戻った宵ノ進が布団から指先だけを出す。
「……触ってくださいませんか」
「震えているようだが?」
「いつまでも、このままでは……」
「……嫌なら言え」
震えるぬるい指先に指が重なる。じんわりと伝わる熱に、抵抗はなかった。
「熱い、ですね……」
「お前の手が冷たいだけだ」
「もう少し、このままで」
眠ってしまうまで、他愛もない会話をする二人を金魚だけが見ていた。