二.花と貴方へ
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「杯様……、お水を頂いてきても宜しいでしょうか……」
「座っていろ、持ってくる」
運転中にあわあわとしてばかりだった宵ノ進に、何度か休憩を挟みながら移動していた杯は未だシートベルトをしたまま固まる様子にどう対処すべきか延々考えさせられていた。本人の言う通り、初めての車には慣れてきたがシートベルトの締め付けが堪えるらしい。走行中の景色を珍しがって見たがり動いたが最後、小さく声を上げてそれどころではなくなっている。トラウマの部類だ。
しばし考えた杯は、売店を見渡すと店員を捕まえ何度目かの同じ問いをする。自分が普段使わないものを探すのは移動中の土地柄もあって難航しているが、できれば移動中も楽しんでもらいたい。そもそも療養目的での旅行なのだから。
杯が車に戻ると、少し顔色の良くなった宵ノ進が礼を言う。シートベルトを外してやり、おとなしく水を飲んだのを確認すると厚手のひざ掛けを差し出した。
「杯様、これはどうされましたので……?」
「すまないこれしかなかったが、体にかけてやれ。少しは圧迫もなくなる。暑ければ言え」
「……ありがとう、ございます……」
意味と気遣いを飲み込んで、ひざ掛けを受け取り言われるままにした宵ノ進は申し訳なさで俯く。山の風景に地名の入ったお互いに選びはしない柄のひざ掛けの上から体を抱えるようにすると、笑った気配があった。
「気にしなくていい。もう少しで着く。催し物の会場だ、見て回る前にそこで食事にしよう」
「……はい」
「どうした」
「いいえ?」
(笑ったお顔も珍しいなんて、口に出したら引っ込めてしまわれるのかしら)
普段あまり表情が顔に乗らない杯の、やんわりと上がる口角と向けられる棘のない切れ長の眼。声から取れる角。
ぼんやり見てしまう。遠くで呑気に小鳥が鳴いて、山間独特の飾り立てない空気に思考が澄んでくる。籠屋の中ではいつも香を絶やさずにいたから。そういえば山の方に来たのはいつぶりなのだろう。
また杯がシートベルトをしてやるのを、今度は眺めていた。ひざ掛けのおかげでだいぶ楽になった。
車が走り出す。車窓から見ることのできた景色に声を出しそうになるのをこらえたら、どうだ、と低く優しい声。よく見ている。この優しい人は、車窓にわたくしが映らないのをご存知なのかしら。
「綺麗……」
杯の方に視線をやれば、返ってくる他愛もない会話。なんだろう、御得意さまでお医者さま。何度も会話を交わしただろうに、こんなにも穏やかな姿を見たことがない気がする。
宵ノ進は金の眼を何度か瞬かせたが、トンネルに入りびくりと肩を震わせては杯が小さく笑った。
「わあ、杯様生産者の方があんなに……!」
会場のある駐車場で、無事に車から降りた宵ノ進が金の眼を見開いてきらきらさせながら言う。全国御茶展の立て看板を横に、わりと人がいる中で見抜いてははしゃぐ板前に杯はすぐ隣の建物を指す。
「まずは食事にしよう。その後ゆっくり見ればいい」
「はい、杯様は何になさいますか?」
はしゃいだ板前はひょこひょこついてくる。来てよかった。いつも畏まって礼節を重んじるが主で、こんなに表情を出してくれるとは思わなかった。
嬉しそうに隣を歩く宵ノ進に杯は安堵する。ログハウスも見るのが初めてのようで、見上げては木材の組み方に興味が移り何やら関心している。御茶展の会場も外観は木造だが、隣の食事処は何故ログハウスなのかと杯も内心で首をかしげたが、宵ノ進が喜べばもうなんでもいい。
物珍しげにしていた宵ノ進は店内へ入ると普段の調子でおとなしく、杯が少し笑うと顔を赤らめていたがつられたようにやんわり笑った。
和服と洋装の男が二人向かい合うテーブルでメニューについて話している際も視線が飛んでくる。和装の時点で目立つのだが、所作や雰囲気は籠屋にいる時と変わりない。ご覧になるならばどうぞ御勝手に。やんわり笑いながら、そのように受けてきたろうか。客慣れしているのはあの店にいる殆どがそうだろうが、そのような顔をさせるのならば個室にするべきであったろうか。
「杯様は優しい方です。わたくし、貴方に恥などかかせたくないのでこのようにしております。ふふ、いやそうなお顔。ここに来てよかった。杯様のいろんなお顔が見れる」
耳を立てていなければ聞こえぬだろう声音で話す。賑やかな店内、他には聞こえていないだろう。
「今のうちだ、愛想を振り撒いておけ。厨房の方が騒がしいぞ」
「まあ、わたくし杯様とおりますのに。……隣に座っても? 同じ方を見たら、わたくしにも見えますでしょうか」
「見せたくはないな」
「わたくしもですよ」
「ならばこのままだ」
「薬膳を扱っているなんて、楽しみですね」
「同じで良かったのか」
「わたくしの我が儘ですよ」
会話をしているうちに、薬膳が運ばれてくる。やけに緊張している店員に、宵ノ進は羽鶴や白鈴を思い浮かべた。
統一された陶器に乗る一口大の品々に、目を引く朱の椀物。食材の色味もあるだろうが、抑えているように感じる。目の前の御得意様はどう感じているのだろう。
(わたくしが飾り立てているのかもしれませんが)
お互い箸を取るまで間があった。どうも、もてなされるのは慣れない。
見た目と香りで食材、手順、味わい等の想像をしてしまう。きっと目の前の男には見透かされているのだろう。それでも構わないと、連れてきてくれた。
「ありがとうございます」
言うと、長く通っているのでな、と柔らかく返され小さく笑った。
「杯様……、お水を頂いてきても宜しいでしょうか……」
「座っていろ、持ってくる」
運転中にあわあわとしてばかりだった宵ノ進に、何度か休憩を挟みながら移動していた杯は未だシートベルトをしたまま固まる様子にどう対処すべきか延々考えさせられていた。本人の言う通り、初めての車には慣れてきたがシートベルトの締め付けが堪えるらしい。走行中の景色を珍しがって見たがり動いたが最後、小さく声を上げてそれどころではなくなっている。トラウマの部類だ。
しばし考えた杯は、売店を見渡すと店員を捕まえ何度目かの同じ問いをする。自分が普段使わないものを探すのは移動中の土地柄もあって難航しているが、できれば移動中も楽しんでもらいたい。そもそも療養目的での旅行なのだから。
杯が車に戻ると、少し顔色の良くなった宵ノ進が礼を言う。シートベルトを外してやり、おとなしく水を飲んだのを確認すると厚手のひざ掛けを差し出した。
「杯様、これはどうされましたので……?」
「すまないこれしかなかったが、体にかけてやれ。少しは圧迫もなくなる。暑ければ言え」
「……ありがとう、ございます……」
意味と気遣いを飲み込んで、ひざ掛けを受け取り言われるままにした宵ノ進は申し訳なさで俯く。山の風景に地名の入ったお互いに選びはしない柄のひざ掛けの上から体を抱えるようにすると、笑った気配があった。
「気にしなくていい。もう少しで着く。催し物の会場だ、見て回る前にそこで食事にしよう」
「……はい」
「どうした」
「いいえ?」
(笑ったお顔も珍しいなんて、口に出したら引っ込めてしまわれるのかしら)
普段あまり表情が顔に乗らない杯の、やんわりと上がる口角と向けられる棘のない切れ長の眼。声から取れる角。
ぼんやり見てしまう。遠くで呑気に小鳥が鳴いて、山間独特の飾り立てない空気に思考が澄んでくる。籠屋の中ではいつも香を絶やさずにいたから。そういえば山の方に来たのはいつぶりなのだろう。
また杯がシートベルトをしてやるのを、今度は眺めていた。ひざ掛けのおかげでだいぶ楽になった。
車が走り出す。車窓から見ることのできた景色に声を出しそうになるのをこらえたら、どうだ、と低く優しい声。よく見ている。この優しい人は、車窓にわたくしが映らないのをご存知なのかしら。
「綺麗……」
杯の方に視線をやれば、返ってくる他愛もない会話。なんだろう、御得意さまでお医者さま。何度も会話を交わしただろうに、こんなにも穏やかな姿を見たことがない気がする。
宵ノ進は金の眼を何度か瞬かせたが、トンネルに入りびくりと肩を震わせては杯が小さく笑った。
「わあ、杯様生産者の方があんなに……!」
会場のある駐車場で、無事に車から降りた宵ノ進が金の眼を見開いてきらきらさせながら言う。全国御茶展の立て看板を横に、わりと人がいる中で見抜いてははしゃぐ板前に杯はすぐ隣の建物を指す。
「まずは食事にしよう。その後ゆっくり見ればいい」
「はい、杯様は何になさいますか?」
はしゃいだ板前はひょこひょこついてくる。来てよかった。いつも畏まって礼節を重んじるが主で、こんなに表情を出してくれるとは思わなかった。
嬉しそうに隣を歩く宵ノ進に杯は安堵する。ログハウスも見るのが初めてのようで、見上げては木材の組み方に興味が移り何やら関心している。御茶展の会場も外観は木造だが、隣の食事処は何故ログハウスなのかと杯も内心で首をかしげたが、宵ノ進が喜べばもうなんでもいい。
物珍しげにしていた宵ノ進は店内へ入ると普段の調子でおとなしく、杯が少し笑うと顔を赤らめていたがつられたようにやんわり笑った。
和服と洋装の男が二人向かい合うテーブルでメニューについて話している際も視線が飛んでくる。和装の時点で目立つのだが、所作や雰囲気は籠屋にいる時と変わりない。ご覧になるならばどうぞ御勝手に。やんわり笑いながら、そのように受けてきたろうか。客慣れしているのはあの店にいる殆どがそうだろうが、そのような顔をさせるのならば個室にするべきであったろうか。
「杯様は優しい方です。わたくし、貴方に恥などかかせたくないのでこのようにしております。ふふ、いやそうなお顔。ここに来てよかった。杯様のいろんなお顔が見れる」
耳を立てていなければ聞こえぬだろう声音で話す。賑やかな店内、他には聞こえていないだろう。
「今のうちだ、愛想を振り撒いておけ。厨房の方が騒がしいぞ」
「まあ、わたくし杯様とおりますのに。……隣に座っても? 同じ方を見たら、わたくしにも見えますでしょうか」
「見せたくはないな」
「わたくしもですよ」
「ならばこのままだ」
「薬膳を扱っているなんて、楽しみですね」
「同じで良かったのか」
「わたくしの我が儘ですよ」
会話をしているうちに、薬膳が運ばれてくる。やけに緊張している店員に、宵ノ進は羽鶴や白鈴を思い浮かべた。
統一された陶器に乗る一口大の品々に、目を引く朱の椀物。食材の色味もあるだろうが、抑えているように感じる。目の前の御得意様はどう感じているのだろう。
(わたくしが飾り立てているのかもしれませんが)
お互い箸を取るまで間があった。どうも、もてなされるのは慣れない。
見た目と香りで食材、手順、味わい等の想像をしてしまう。きっと目の前の男には見透かされているのだろう。それでも構わないと、連れてきてくれた。
「ありがとうございます」
言うと、長く通っているのでな、と柔らかく返され小さく笑った。