二.花と貴方へ
秋のことだった。他家との話し合いで留守にしている硝玻の部屋で着物を手入れしていた咲夜は、聞き慣れぬ足音に視線を外す。障子に映る姿はぬっと伸びており、硝玻と似た背丈であるにも関わらず咲夜は思わず身を引いた。
不躾にも障子が開いて、夕焼けが射し込む眩しさに目を細めた咲夜は、そののっぺりした影が発した言葉に今度は眼を見開くこととなった。
「硝玻は死んだ、帰り道で襲われたのだ」
言葉が出ない。むしろ咲夜の言葉など待ってはいない言いようだった。咲夜には、そう伝えれば充分だった。
“私が手を回して殺した”
その意味合いを掬い取れぬ咲夜でないのはわかっていた。震えるでもなく、臆する様子もなく、見開いた目に、硝玻の兄の顔を映して感情を乗せない。
「私は出ていきます。このお部屋を汚したくはありません」
凛と立つ咲夜に、硝玻の兄は感情の抜けた顔と声音で話す。もとより、そのような人物だった。
「この場で殺めるとでも思ったか。硝玻は死んだ。捜しにも行かせぬ。お前はこの部屋で、今まで通りに暮らす。必ず障子は片方開けろ。逃げでもしてみろ、硝玻の着物や刀を火に入れてやる」
「私は出ていきます。帰る場所などないのですよ。燃やすならばどうぞ、勝手になさいませ」
部屋を出ていく咲夜を、硝玻の兄は横目で見ただけだった。
誰にも声をかけず、屋敷の外へと出た咲夜は硝玻が行くと言っていた他家の場所を尋ね、辿り歩くうちにとっぷりと日の暮れた月夜道、松の木の下でうずくまった。灯りも持たずに、普段着せられていたとはいえ、こんな豪奢な着物のまま出歩いてしまった。そんなことはとうにわかりきっていた。あの部屋の障子は硝玻が開けるはずだった。
もしかしたら、咲夜を邪魔だと計って嘘を吹き込んだのかもしれない。そうであれば入れ違いだろうが、その方がずっといい。そして、それはほぼありえない。
鈴虫が鳴いている。着物を握る指がかたかたと震えている。野晒しは全くもって慣れてはいるが、どうして優しいやつばかりいなくなるのだろう。友も、硝玻も。
咲夜は立ち上がると、月明かりに照らされた草道を少しずつ歩いていった。
途中聞いた通りに辿れば、武家の門に出くわした。松明に照らされた門番に尋ねると、硝玻は夕刻前に帰ったという。火を分けてくれた門番は、咲夜に提灯を持たせると静かに一礼した。
礼を言い、元来た道を歩く咲夜の視線は提灯の灯りと周りを交互に行き来し落ち着かないでいた。夜に慣れていた眼が、提灯の灯りを映すと一層夜闇が深く感じられ、草影すら硝玻なのではと駆け寄らずにはいられない。鳴き止み静まる鈴虫と、風のない月夜が咲夜の足を止めた。
行く道で、咲夜がうずくまっていた松の木に人影が見える。
ゆっくりと近づく咲夜は幹に背を預け脚を投げ出している人物の前に提灯を置くと膝をついた。
頬に触れると望んだ温かさなどなかった。髪を撫でると泥が指に絡んだ。乱れた着物を直してやろうと手をかけると、着物は貼り付いて離れなかった。首元を斬られ、幾つもの刀傷の走る身体に咲夜は震えた。数人で取り囲み、何度も何度も斬ったのだ。
握った形で固まっている手にあるはずの刀は取り上げられていた。ああ、なんという侮辱。
提灯に照らされる顔は咲夜が知っていて、知らぬ顔に映った。いつまでも子供のような寝顔をしていたというのに、そのように静かな顔をして眠る硝玻など、知らない。
「硝玻様……咲夜にございます、硝玻様……」
ようやく出た声は言葉の形をするのがやっとだった。
待てども返事はなく、触れる距離にいるというのに、ひどく心細くなるのはと、その先を考えることを頑なに拒んでいる。
はっきりと自分の言葉で聞かせてしまえば、自分の声を聞いてしまえば、もう耐えることなどできなくなりそうで。
「涙のひとつも流さないのか」
心の欠けた声に振り向く間もなく咲夜は気を失った。
目を覚ました頃には、硝玻の部屋に寝かされており、硝玻を欠いた御家は呆気なく兄のものとなっていた。硝玻を慕う家臣は殺され、咲夜を逃がそうとした女中も斬り棄てられた。脱け出そうにも、毎日開いた障子から、硝玻の兄が見ている。
一言も口を利かぬ咲夜から表情が消えたのは兄の家臣が言い寄るようになった頃だった。兄はいつかの女中と同じように、咲夜の目の前で斬り棄てたのである。
一人斬り殺されてはまた一人新しい家臣がやってきた。その度に跳ねた血で顔や着物が汚れ、硝玻が贈った着物は血濡れとなる度燃やされた。
伝えていないのだ。咲夜の詳細も、兄が見ていることも。
真冬の頃、夜でも必ず開けておけと言われている障子から、月のない夜闇を見ていた咲夜は身じろぐと、硝玻が贈り最後となった赤い着物で着飾った。
御守りのように持っていた簪を衿へと入れ込んで、ゆるゆると歩いていくと兄の部屋に火を放った。
視線の外れる深い夜。どのような夢を見ているのだろう。
歩く先々に火を放ち、油瓶へ火種を放り入れると硝玻の部屋の飾り棚に身を預けた。
あちこちで上がる火の手に、悲鳴が混じるようになる。視線を感じない。燃えてくれたろうか。
煙で何度も咳をした。深く吸い込んで、また咳き込んで。誰も来ない火の手の中、ようやく泣いた。
硝玻と幼馴染に詫びた。あの世でも会えそうもないと。
ゆらゆら、ゆらゆら。勢いを増す火に暗闇が重なって、咲夜はゆっくり目を閉じた。
不躾にも障子が開いて、夕焼けが射し込む眩しさに目を細めた咲夜は、そののっぺりした影が発した言葉に今度は眼を見開くこととなった。
「硝玻は死んだ、帰り道で襲われたのだ」
言葉が出ない。むしろ咲夜の言葉など待ってはいない言いようだった。咲夜には、そう伝えれば充分だった。
“私が手を回して殺した”
その意味合いを掬い取れぬ咲夜でないのはわかっていた。震えるでもなく、臆する様子もなく、見開いた目に、硝玻の兄の顔を映して感情を乗せない。
「私は出ていきます。このお部屋を汚したくはありません」
凛と立つ咲夜に、硝玻の兄は感情の抜けた顔と声音で話す。もとより、そのような人物だった。
「この場で殺めるとでも思ったか。硝玻は死んだ。捜しにも行かせぬ。お前はこの部屋で、今まで通りに暮らす。必ず障子は片方開けろ。逃げでもしてみろ、硝玻の着物や刀を火に入れてやる」
「私は出ていきます。帰る場所などないのですよ。燃やすならばどうぞ、勝手になさいませ」
部屋を出ていく咲夜を、硝玻の兄は横目で見ただけだった。
誰にも声をかけず、屋敷の外へと出た咲夜は硝玻が行くと言っていた他家の場所を尋ね、辿り歩くうちにとっぷりと日の暮れた月夜道、松の木の下でうずくまった。灯りも持たずに、普段着せられていたとはいえ、こんな豪奢な着物のまま出歩いてしまった。そんなことはとうにわかりきっていた。あの部屋の障子は硝玻が開けるはずだった。
もしかしたら、咲夜を邪魔だと計って嘘を吹き込んだのかもしれない。そうであれば入れ違いだろうが、その方がずっといい。そして、それはほぼありえない。
鈴虫が鳴いている。着物を握る指がかたかたと震えている。野晒しは全くもって慣れてはいるが、どうして優しいやつばかりいなくなるのだろう。友も、硝玻も。
咲夜は立ち上がると、月明かりに照らされた草道を少しずつ歩いていった。
途中聞いた通りに辿れば、武家の門に出くわした。松明に照らされた門番に尋ねると、硝玻は夕刻前に帰ったという。火を分けてくれた門番は、咲夜に提灯を持たせると静かに一礼した。
礼を言い、元来た道を歩く咲夜の視線は提灯の灯りと周りを交互に行き来し落ち着かないでいた。夜に慣れていた眼が、提灯の灯りを映すと一層夜闇が深く感じられ、草影すら硝玻なのではと駆け寄らずにはいられない。鳴き止み静まる鈴虫と、風のない月夜が咲夜の足を止めた。
行く道で、咲夜がうずくまっていた松の木に人影が見える。
ゆっくりと近づく咲夜は幹に背を預け脚を投げ出している人物の前に提灯を置くと膝をついた。
頬に触れると望んだ温かさなどなかった。髪を撫でると泥が指に絡んだ。乱れた着物を直してやろうと手をかけると、着物は貼り付いて離れなかった。首元を斬られ、幾つもの刀傷の走る身体に咲夜は震えた。数人で取り囲み、何度も何度も斬ったのだ。
握った形で固まっている手にあるはずの刀は取り上げられていた。ああ、なんという侮辱。
提灯に照らされる顔は咲夜が知っていて、知らぬ顔に映った。いつまでも子供のような寝顔をしていたというのに、そのように静かな顔をして眠る硝玻など、知らない。
「硝玻様……咲夜にございます、硝玻様……」
ようやく出た声は言葉の形をするのがやっとだった。
待てども返事はなく、触れる距離にいるというのに、ひどく心細くなるのはと、その先を考えることを頑なに拒んでいる。
はっきりと自分の言葉で聞かせてしまえば、自分の声を聞いてしまえば、もう耐えることなどできなくなりそうで。
「涙のひとつも流さないのか」
心の欠けた声に振り向く間もなく咲夜は気を失った。
目を覚ました頃には、硝玻の部屋に寝かされており、硝玻を欠いた御家は呆気なく兄のものとなっていた。硝玻を慕う家臣は殺され、咲夜を逃がそうとした女中も斬り棄てられた。脱け出そうにも、毎日開いた障子から、硝玻の兄が見ている。
一言も口を利かぬ咲夜から表情が消えたのは兄の家臣が言い寄るようになった頃だった。兄はいつかの女中と同じように、咲夜の目の前で斬り棄てたのである。
一人斬り殺されてはまた一人新しい家臣がやってきた。その度に跳ねた血で顔や着物が汚れ、硝玻が贈った着物は血濡れとなる度燃やされた。
伝えていないのだ。咲夜の詳細も、兄が見ていることも。
真冬の頃、夜でも必ず開けておけと言われている障子から、月のない夜闇を見ていた咲夜は身じろぐと、硝玻が贈り最後となった赤い着物で着飾った。
御守りのように持っていた簪を衿へと入れ込んで、ゆるゆると歩いていくと兄の部屋に火を放った。
視線の外れる深い夜。どのような夢を見ているのだろう。
歩く先々に火を放ち、油瓶へ火種を放り入れると硝玻の部屋の飾り棚に身を預けた。
あちこちで上がる火の手に、悲鳴が混じるようになる。視線を感じない。燃えてくれたろうか。
煙で何度も咳をした。深く吸い込んで、また咳き込んで。誰も来ない火の手の中、ようやく泣いた。
硝玻と幼馴染に詫びた。あの世でも会えそうもないと。
ゆらゆら、ゆらゆら。勢いを増す火に暗闇が重なって、咲夜はゆっくり目を閉じた。