二.花と貴方へ

***

「咲夜は今日も美しいな」

 少年の、長い烏羽色の髪を梳きながら、幼さの残る子供は笑う。
 豪奢な着物で着飾られ、化粧をした少年はひとつ間を置いて返した。

「お戯れを。硝玻様は御家を継がれるのですから、このような傀儡にうつつを抜かしてはなりませんよ」

 広い、広い武家屋敷だ。咲夜は買われてやってきた。長男が早々に幾度も妻を亡くすので、歳の離れた弟に御家を継がせるという。言われずとも、濁された沈黙の間に意図はするする咲夜の首を絞め、深い淵を延々覗く気分にさせていた。
 幼さの残る硝玻を、これから取る妻の前で恥をかくことのないよう仕立て上げなくてはいけない。御家にこれ以上の恥をかかすなとも暗に言われ続けている咲夜の気など知るはずもなく、硝玻は気立ても良く明るい。
 ゆえにゆるゆると長い溜め息が出てしまうのだ。

「咲夜が妻ならよいのにな」
「一番駄目です、それは」

 櫛で髪を梳きながら、硝玻がぷうっと頬を膨らませたのが気配でわかって、咲夜は小さく笑う。

「紙鞠のようでございます」
「咲夜は背中に目でもついておるのか」

 肩を震わせて笑う咲夜に一層唇を尖らせた硝玻は髪をつまむとねじ上げて、ぱっと手を離した。しゃらしゃらと心地のよい音がする。

「硝玻様、これは……」

 簪。恐る恐る伸ばした指の先に触れ、飾りがしゃらしゃら音をたてる。あまりに驚いて、狼狽えている顔を背中越しの硝玻は知らない。

「好きだ、咲夜」

 肩を落とした。身の上というものがある。

「――そうですね、今宵私を負かしたなら良いですよ」

 振り向いて、穏やかに笑って返す。えらく、悲しい。

「咲夜はいつも悲しい顔をして笑うな」
「生まれつきこの顔ですよ」
「悩み事があるなら言え、硝玻は何でも聞いてやるぞ」
「お気持ちだけでじゅうぶんですよ」
「ええい言わぬか」
「あはは、しょうはさま、……ふふ」

 くすぐられて思わず笑う。礼も距離もない相手などこの世にただ一人きり。彼を思い笑う。愛しくてたまらない彼を。片時も忘れたことなどない彼にもう一度――。

「……いけませんよ。咲夜は買われてやってきたのですから」
「狡い答えだ。先を繋げぬような物言いばかり」
「そうです、咲夜は狡いのです。硝玻様、そそのかされてはなりませんよ」

 するりと頬に手を伸ばす。硝玻の柔らかな頬を撫で、あやすようにふわふわと頭を撫でてしまう。なかなかに抜けぬ咲夜の癖は、硝玻をことごとく絡めとるのだが、気付いているのだろうか。

「咲夜になら、そそのかされてもよいなあ」

 子供は笑う。毎日、毎日、咲夜と話し、稽古をせがみ、髪を梳き、添い寝しろと駄々をこねては布団へ引きずり込む。二人で菓子を食べ、習い事をし、人の背中にしがみついて眠る癖のある硝玻をこっそり笑えばくすぐられ。
 硝玻は家の者に呼ばれる以外は殆ど咲夜のそばにいた。
 自分にばかり構うのは障りが出ると咲夜は咎めたが、硝玻は眩しそうに目を細めると障子を閉め、咲夜の隣に座るとぽつりと言った。


「兄上がずっと咲夜を見ている。我が兄上ながら、何をするかわからぬ。……兄上は武芸に秀でているし、妻は病で亡くしたと聞いている。本来、御家を継ぐのは兄上だ。この硝玻であってはならぬのだ。言えぬ事情を皆口を揃えて隠しおる。なれどゆくゆく、御家を継いだとして、兄上の身の上というのは避けては通れぬ。誰も詳細を語らぬが、かえって気味が悪い。咲夜を放り出すわけにはいかんよ」

 硝玻は聡い。そして兄を慕ってもいる。家の者と何度も話をしてきたのだろう、言葉の端々に乗る気遣いに、この幼さの残る横顔が大人びていくのを咲夜は置いてもらえる限り見守りさすってやるくらいしかできない。
 咲夜が硝玻の部屋とそこから見える庭以外に出されないのは、御家の人間に会わせたくないという頑なな硝玻の気遣いである。言われずとも知る咲夜も、硝玻から見れば随分と聡い。武家の出という訳でもない。どこで覚えたものか、稽古はするするとやってのけ、硝玻が教わる側が殆どなのだが、以前どこにいたのかは決して答えなかった。



「硝玻様は優しい。あまりにも、優しいのですよ」

 底冷えするような夜、毎度のことながら布団に引きずり込まれた咲夜が言った。
 咲夜で暖を取っていた硝玻がきょとんと見返すと、幾分逞しくなった腕が咲夜の頭を撫でる。取り残されていくように、硝玻は成長してゆく。このように人で暖を取りたがるのは二人目だ。故に嫌ではない。

「咲夜はまた悲しい顔をしている」
「生まれつきだと申しましたでしょう?」
「笑っているとき、とても綺麗なのだがな」
「早く寝てしまいなさい」
「咲夜が妻ならよいのに」
「毎日口説かれてたまったものじゃないです」
「それは良い返事と受け取っても?」
「周りに何と言われても知りませんよ」
「……嬉しい」
「……咲夜は狡いのですよ、硝玻様」
「狡いのではない、……優しいのだ、咲夜は」
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