二.花と貴方へ

 教室には数人しか来ていなかった。榊の姿はなく、担任も教師があまり来れていない、何故だか電話が繋がらず連絡が取れなかった事を詫び、靄が晴れるまでまさかの自習となった。自力で帰れるものは帰ってもよし、部活の練習をしてもよし、思わず寝坊すればよかったと呟いた羽鶴に担任も先生もだなどと言っていた。
 羽鶴は事故で入院していた一年を取り戻す意味でも補習がある。ぽつぽつと教室を出ていった数人のクラスメートを目で追って、担任と一対一での補習となった。
 クラスメートが既に通過した部分を地道に追っている。追う、とは形ばかりで羽鶴は特に焦りも引けも覚えはしなかった。幸いなことに周りが羽鶴に時間を割いてくれた。そればかりは他を見ればいいだろうにと思うも言葉が出ず、決まって宵ノ進の顔が浮かぶのだった。
 補習に付き合ってくれていた担任が晴れない靄に困った様子で職員室行きだと項垂れて出ていくと、代わりにワンピース姿の大瑠璃がひらりと入ってきた。

「お前柊町に消火剤でも撒いたか」
「そうだね撒けるなら山椒を撒くけど」
「それは宵ノ進が怒るんじゃない。調味料だし」
「そうだね宵は山椒好きだからね。その顔を見るのもいいかもしれないと思って」
「大瑠璃はほんとうにそれがなければ物凄く美人だと思う」
「鶴の字は丸いねえ。鶴の髪みたいな字」
「ほっとけよ……なんだと癖字か!!」
「あはは。読みやすいよ。ねえ鶴、いつも補習で少し帰りが遅いのでしょう? あとどれくらい?」
「途方もないくらいだけど。ここで少し習って、帰ってから進めていくから僕次第に変わりはないけど」

 羽鶴はふと、知らなければまるで女の子な大瑠璃の微笑みを見る。
 普段の見透かしたような、余裕たっぷりの笑みではなく、そうしたかったから笑った、そのような笑みを。
 ああ、そうだ。この人に、大瑠璃に、聞かないといけないことがある。

「大瑠璃」

 大瑠璃を拐う曼珠沙華。着物でなければだんだんと、増して遠退くこの世のものではないと思えるほどの美しい人を籠へと乗せるため。
 ――朝日が引き留めてくれたのに。

「大瑠璃は、僕を知っている?」

 大瑠璃は、静かに羽鶴の右手を持ち上げた。

「右の腕はたまに痛むのでしょう? 鶴は、右だからいいかって、見ないことにしている。鶴は、ぼんやりと、いつも立っているね。ご覧よ、こんなにぬるくって、まあるい爪の先でもよく見えるよ。繋がったね、鶴は」
「大瑠璃はいつも隠し事をする。曖昧で、はぐらかして。掴ませないように振る舞ってる」
「隠し事は守るためにするもの。そう思っているよ。破っておいでなら――ううん、言いたくないな鶴。この大瑠璃は堂々と、鶴に隠し事をしよう」
「僕は、隠し事はやだな……まあ、そういう性分なんだけど。なにもできなかったというのはいやだ。憶測ではなくて、知って理解できていたら、考えることができていたら。僕は動けて変われるのなら――」
「ひとつ願い事をした」

 大瑠璃が羽鶴の手を机の上へ置いた。ぬるいという羽鶴の手からひやりと流れた心地の先を眼が追えば、音もなく歩くワンピースは外の靄で一面白い教室の窓ガラスに視線を投げている。
 続く言葉をしばし待てど、紡ぐ気がないようだった。ただひとつ綻ばせた隠し事が、羽鶴の靄に沈澱していく。

「お昼でも食べなよ。香炉のお弁当」
「大瑠璃は?」
「気分じゃない」
「持ってきてないんだろ」
「いいじゃない別に」

 あのなあ、とこぼしながら羽鶴が弁当箱を取り出すと、亀甲紋の包みから亀型の弁当箱が出現する。親亀小亀の二段である。

「香炉……香炉の趣味って……」

 なんというか渋いと漏らした羽鶴に大瑠璃が笑っている。変わらずに質素な料理が並ぶ中で、小亀の方は親亀の中身を小さくしたもののようであった。

「なあこれ、大瑠璃の分なんじゃないか。小さいとはいえ僕同じ内容食べきれないよ」
「食べたらいいじゃない。箸は一膳なんでしょう」
「ええー……大瑠璃、あった、箸あった……亀の尻尾に仕込んであった……」
「香炉帰ったら覚えておいでよ」
「お前そんなに食べたくないの」
「気の向いたときに食べることにしているから残してしまうかもしれなくて。それだと悪いから」
「お前さえよければ残した分なら僕が食べるよ。お茶はないけどな」
「気が乗らないなあ」

 言って、ワンピースの大瑠璃は前の席を陣取るとすとんと横に座った。揃えられた白い脚に目をやれば、変わらずに土足であったけれども、羽鶴はこの際気にすることをやめた。
 羽鶴と共に小さく頂きますと言いながら、静かに食べ始める大瑠璃を見て何やら笑みがこぼれた羽鶴は、じっとりと向けられた黒い眼に再度笑って見せるのである。

9/53ページ
スキ