一.後ろを振り向くことなかれ

 大瑠璃に通された部屋はなんとも飾り気のない質素な和室だった。
 障子が受ける日の光は柔らかく、明るい室内は二枚の座布団以外に物がない。畳が映え良い香りが立つ室内はそれほど広くはないのだが、羽鶴は大好きな祖父の床の間を思い出していた。
 二人が座布団の上に座るのを見た後ゆったりと畳の上に座った大瑠璃が、飾り気のある方が好みかと笑みを浮かべる。

「いやちかちかするのはあんまり」
「それはよかった」

 柄のない瑠璃色の着物姿の大瑠璃は、背筋を伸ばし正座する榊に眼を向けた。

「榊だ」
「大瑠璃」

 視線が合っただけで互いに名を名乗る妙な空気に首を傾げると、榊の鋭い目が刺さる。

(そうだ、文句を言いに来たんだった)
「大瑠璃」
「なんだい鶴」
「自分を見世物だとか思うのはどうかと」

 ゆったり構えていた大瑠璃が漆黒の目をまんまるにして二度瞬きすると、腹を抱えて笑い出した。

「鶴……この大瑠璃に文句を言いに来たの……ふふ……」
「悪いかっ」
「いや……ふふ……あははは……」

 実に可笑しいと笑う大瑠璃に再度言葉をかけようと口を開きかけた時、襖の向こうから失礼致しますと落ち着いた声が聞こえた。
 すっと襖が開き、鉄紺の着物を着た男が丁寧に頭を垂れる。癖のある黄朽ち葉色の髪がふわふわとして触り心地がよさそうだと羽鶴は男を見つめる。
 男が顔を上げると左に短く結った三つ編みが揺れ、人懐こい丸みを残した目に見覚えがあり思わず声を出す。

「夏祭りのヨーヨー男……!!」
「ふ……あはは……宵……ふふ……」

 一瞬目を僅かに見開いたヨーヨー男は一層腹を押さえて笑う大瑠璃をよそに丁寧に折った膝を崩さぬまま「先日はどうも」と再び頭を下げた。

「恐れながら、わたくしは宵ノ進にございます。お食事をお持ち致しました」

 頭を上げた男は榊と羽鶴の前に膳を二つ並べ、部屋の外側に出ては膝を折り頭を下げた。

「ごゆるりと。お客様」

 すっと襖が閉じ、ふんわりと花の香りが残る中、朱の艶が美しい膳を前に榊が口を開いた。
「羽鶴、何かの機会に謝っとけ」
「えっ、榊……?」
「いいから次会ったらひっ捕まえて謝っとけ」
「気にしないよ。何よりの失礼は宵の料理を食べないことだからね」
「えっ、え……? どういうこと失礼とかえ……?」
「宵は真面目な板前だもの。その膳はこの大瑠璃からのお祝い」

 はぐらかされた気が。

 羽鶴が未だ腑に落ちないでいると、膳に乗る料理がきらきらと輝いて見えてきた。うわあお刺身がある。本人は思っているだけでいたが、言葉が口から出ていることに気が付いていない。

「美味しそう……」
「で何のお祝いなんだ」
「無事にここに辿り着けたから」
「? 普通に来れたけど」
「今日はお得意様の大宴会でね。弟ぎみが出てくれないと人斬りが出るぞ、なんて言うものだから面白くて断ったんだよ」

 ゆったりと微笑みながら話す大瑠璃に、榊が呆れた目を向けている。

「お前いい性格してるな……羽鶴、とんだ日に来たもんだ」
「人斬りとか物騒だよね。榊お刺身があるよ榊」
「まぁ食べなよ。弟ぎみは癇癪持ちでね。泣くのは構わないんだが追いかけられるのは好かなくて」
「いただきまーす!」
(お刺身、天ぷら、お吸い物、炊き込みご飯に煮物に一口大の草餅がついてる。他にもあるけれどもうご馳走が、ご馳走がぁああ……!)
「羽鶴、あぁ聞こえてねえわ」
「用件は済んだらしいからいいんじゃない」
「で、お前の答えは」
「見世物だよ。この大瑠璃は。親しくなければね」
「大瑠璃」
「なんだい気味が悪いなあ榊」
「うわっほんとだ気味悪っ。坊っちゃんの癇癪で人斬りってどの時間帯なら潜れんだよ」
「なんだ真面目に聞いてたの。今日はあぶないよ。他にお客も来ないからね。泊まっていきなよ。この部屋には誰も来ない、し」

 羽鶴が大きな音に驚いてそちらを向くと、襖が倒れ部屋の真ん中に向かって赤色の汚れがついているようだった。
 ゆっくりとその先を辿れば、見知らぬ男性が障子に体をぶつけたまま倒れており、洋服には真新しい赤色の染みができていた。
「さ、か……」

 声が震える。前に座っていた大瑠璃も、左隣の榊も黒い目を真ん丸にして襖の向こうを見たままだ。その奥を、見つめると全身真っ黒の包帯を巻いた人物が刀を持って立っていた。
5/54ページ
スキ