二.花と貴方へ
「鉄ちゃん」
鉄二郎は声に揺り起こされて顔を向けた。適当に敷かれた布団の上へ放り投げられていた彼は、映り込んだ花緑青に柔らかく瞬いた。両膝を折って座る姿は見慣れたものだが、丁寧に髪を梳かれ結いもしないままとは珍しい。
「いいんだ」
鉄二郎は金の眼を見つめる。
涙を湛える訳でもなく、窺う訳でもなく、遠く置き去りにされた眼をしている。自らを置き去りにしてきた眼をしている。
許されることが最も彼の心を抉るだろうと知りながら、折れずにいてほしいと願った。
「首を絞めたのですよ?」
「きらう理由がない」
「何故です、わたくしは、貴方から貴方を奪おうとしたのに」
「俺から去ろうとした、だろう? 殺しちまおうと思えば、気を失った後でも暫く塞いだままでいるさ、確実に通り道を塞いで、より力を込めて」
宵ノ進の両手が小さく震えていた。小さな生き物が冷えた風に身を震わしたようだと鉄二郎は思う。
身体を起こすと、金の眼は何かに怯えた色を滲ませた。
「俺はお前に惚れてる」
「いいえ」
「違わない」
「――いいえ」
花緑青の着物が指に寄せられ大腿の上に影を刻む。静かに見つめ返す宵ノ進の、翳る金の眼に鉄二郎は惹かれた。同時に、行ってはならぬと思った。視線を外さずに翳ってゆく様が、日照りが落とす木陰のようだと。
「ずっと、好きだ。俺の気持ちは変わらない。宵ノ進と一緒になれたなら嬉しく思うが、俺は返事が無くても好きでいる。何時でも好きでいる」
金の眼は鉄二郎を映しては一度伏せられ、そのままに言葉がこぼれる。
行灯の火が揺らめいて、肌の上を滑らかに滑る影のようになれたなら。
「嘘ばかり仰る」
「俺もそう映っちまったのかい」
「……いいえ」
すばめ屋の挨拶で先代に連れられて宵ノ進に初めて会った日、炎天下の木陰のような人物だと思った。
仕入れを任されるようになってから、話す機会はうんと増えた。上質の抹茶を店で出し個人的には格下のものを欲しがるので、何故かと訊けば抹茶が好きであまりに飲むからなのだと恥ずかしそうに笑っていたり。泥酔した客の暴行を受け入れて翌日も笑っていたり。何故かと訊けば。男娼だからと柔らかく言われ。
「鉄ちゃん、わたくしの中身がほしいと仰いましたね。なんだと思います? 見当もつかぬのです」
「花が好きだろう。柔らかく振る舞うだろう。何かを感じて話すことを止めるだろう。うまく言えねえが、そういうことだと思ってる」
「……花祭り、皆で行けると良いですね」
「行くんだよ。楽しまんでどうする気だ。俺らは今しかいねえ」
「そう、ですね」
*
早朝、鉄二郎は昏睡していた言い訳を酔い潰れたからだと伝えるのだとけらけら笑いながら帰っていった。
学校へと送り出された羽鶴は店へ来てくれた榊にゆっくりと会えなかったことを詫びると気にするなと返され、顔の腫れがましになったと柔らかく笑まれては、心の一部が和らいだ。
ぼんやり授業を受け、胸に残るわだかまりに意識を向ければ思考は濁った。
水に黒い絵の具を混ぜたような、川底の魚が逃げ去った後の砂塵のような、舞い上がっては沈殿してゆく濁り。
(橋……二番目の……どうして、二番目の……)
――羽鶴様。
宵ノ進の顔が浮かんだ。同時に、思考が深い藍色に塗り潰されてゆく。
(――僕は、伝えなくちゃいけない……伝えなくちゃ……でも、何を……?)
いくら考えても頭の中は深く藍色が広がり、やがて夜が沈む黒塗りの淵へと叩き落とされる。昼までぼんやりと考えていた羽鶴は、昼食にと持たされた風呂敷を広げる。蜻蛉柄の中から達磨を象った弁当箱が現れ、達磨の黒い目と見つめ合うことしばし、朱塗りの箸を取れば先端の目玉とも目が合う。
「香炉……」
無表情に持たせた本人の名前を呟く羽鶴は弁当達磨を開けた。質素なおかずと五穀の香りがぶつかることもなく胃をくすぐり、揃えられた中身は美しくさえあるが、ふと醤油さしを取ると獅子舞がにかっと笑っていた。渋い趣味である。
パンとコーヒーを手に寄ってきた榊が興趣だと言いながら朗らかに笑うので、赤黒メッシュの頭を小突いておいた。
用事のある榊と別れ、籠屋へ向かう羽鶴は一人和の街並みを抜け立ち止まる。商店街をまっすぐに進めば途中橋があり、籠屋へと続くが体を左へ向け歩き出す。
和の街並みそのままに、人の気配が薄れてゆく。時代劇で見るような、下町の風景にどことなく似ている中をとぼとぼとしばらく歩けば川の音と半円を描く赤い橋が見えた。
石垣と長屋、木々が川に沿い伸びてゆく先で太陽が輝いている。
橋の真ん中に立ち、朱艶に両腕と体を預ければ、寂しい場所だと思った。
長屋はあれど人の姿はなく、川の音だけがごうごうと響く。橋の周りを通る者さえいなかった。
ふと川へ、目を向ける。
彼は此処から飛び降りた。この橋から。普段あまりにひっそりと佇んでいるこの橋から。
「おい危ないぞ」
「え、ああ……ええと杯さんの弟さん……」
「この橋よく飛び降りあるからな。誰も近寄らねえよ。俺は近道だけど!」
「近道? 籠屋まで……ああそうか自宅からですか。申し訳ないですが今日はお店閉まってますよ。これから」
「そうなんだよおおおおおおおお閉まってるんだよおおおおおおおお開けてくれよおおおおおおお新顔くんよおおおおおお裏口でもいいよおおおおおおおおお」
「羽鶴です! 制服破れますから! 力抜いてくださいよ!! これから会議なんで無理なんです!」
「会議?」
色味と装飾の派手な和装の弟は結い上げた突き抜ける快晴のような色の髪を振り乱しいやいやと叫んだ。見た目はソーダみたいな美味しそうな色なのにと遠い眼をした羽鶴はがくがくと肩を揺さぶられそのまま頭突きも悪くないと唇を引き結ぶ。そういえば、籠屋で働くきっかけはこの泣き喚く御得意様だったような。
「会議俺も混ざりたい!! 大瑠璃に会いたい!! 膝枕してもらう!! うわあああん混ぜてえええええええ塀は高くてよじ登れないし! 部屋は三階だし! 降りてもこないしいいいいいいい!」
「侵 入 禁 止!!」
羽鶴が揺さぶられる勢いそのままに頭突きを喰らわせると、弟は顔面を押さえながらしゃがみ込んだ。
「願望垂れ流しじゃないですか。第一膝枕するような奴じゃないですよ。美人ですけど」
「ううう羽鶴くん大瑠璃と仲良さそうー……一緒に住みたいよー入れてよおー超絶痛いよおおお」
「そんな仲じゃないですから。僕裏口知りませんし。何で今日なんですか。何か理由でも」
「いや今日今会いたいだけ!! 今すぐに!!」
「僕これから会議なんで。今度自力でしてください」
「えぇえええ頼むよ羽鶴くううん!!」
「店長に干されたくないです」
「俺何度か干されたよ」
「馬鹿か!!」
鉄二郎は声に揺り起こされて顔を向けた。適当に敷かれた布団の上へ放り投げられていた彼は、映り込んだ花緑青に柔らかく瞬いた。両膝を折って座る姿は見慣れたものだが、丁寧に髪を梳かれ結いもしないままとは珍しい。
「いいんだ」
鉄二郎は金の眼を見つめる。
涙を湛える訳でもなく、窺う訳でもなく、遠く置き去りにされた眼をしている。自らを置き去りにしてきた眼をしている。
許されることが最も彼の心を抉るだろうと知りながら、折れずにいてほしいと願った。
「首を絞めたのですよ?」
「きらう理由がない」
「何故です、わたくしは、貴方から貴方を奪おうとしたのに」
「俺から去ろうとした、だろう? 殺しちまおうと思えば、気を失った後でも暫く塞いだままでいるさ、確実に通り道を塞いで、より力を込めて」
宵ノ進の両手が小さく震えていた。小さな生き物が冷えた風に身を震わしたようだと鉄二郎は思う。
身体を起こすと、金の眼は何かに怯えた色を滲ませた。
「俺はお前に惚れてる」
「いいえ」
「違わない」
「――いいえ」
花緑青の着物が指に寄せられ大腿の上に影を刻む。静かに見つめ返す宵ノ進の、翳る金の眼に鉄二郎は惹かれた。同時に、行ってはならぬと思った。視線を外さずに翳ってゆく様が、日照りが落とす木陰のようだと。
「ずっと、好きだ。俺の気持ちは変わらない。宵ノ進と一緒になれたなら嬉しく思うが、俺は返事が無くても好きでいる。何時でも好きでいる」
金の眼は鉄二郎を映しては一度伏せられ、そのままに言葉がこぼれる。
行灯の火が揺らめいて、肌の上を滑らかに滑る影のようになれたなら。
「嘘ばかり仰る」
「俺もそう映っちまったのかい」
「……いいえ」
すばめ屋の挨拶で先代に連れられて宵ノ進に初めて会った日、炎天下の木陰のような人物だと思った。
仕入れを任されるようになってから、話す機会はうんと増えた。上質の抹茶を店で出し個人的には格下のものを欲しがるので、何故かと訊けば抹茶が好きであまりに飲むからなのだと恥ずかしそうに笑っていたり。泥酔した客の暴行を受け入れて翌日も笑っていたり。何故かと訊けば。男娼だからと柔らかく言われ。
「鉄ちゃん、わたくしの中身がほしいと仰いましたね。なんだと思います? 見当もつかぬのです」
「花が好きだろう。柔らかく振る舞うだろう。何かを感じて話すことを止めるだろう。うまく言えねえが、そういうことだと思ってる」
「……花祭り、皆で行けると良いですね」
「行くんだよ。楽しまんでどうする気だ。俺らは今しかいねえ」
「そう、ですね」
*
早朝、鉄二郎は昏睡していた言い訳を酔い潰れたからだと伝えるのだとけらけら笑いながら帰っていった。
学校へと送り出された羽鶴は店へ来てくれた榊にゆっくりと会えなかったことを詫びると気にするなと返され、顔の腫れがましになったと柔らかく笑まれては、心の一部が和らいだ。
ぼんやり授業を受け、胸に残るわだかまりに意識を向ければ思考は濁った。
水に黒い絵の具を混ぜたような、川底の魚が逃げ去った後の砂塵のような、舞い上がっては沈殿してゆく濁り。
(橋……二番目の……どうして、二番目の……)
――羽鶴様。
宵ノ進の顔が浮かんだ。同時に、思考が深い藍色に塗り潰されてゆく。
(――僕は、伝えなくちゃいけない……伝えなくちゃ……でも、何を……?)
いくら考えても頭の中は深く藍色が広がり、やがて夜が沈む黒塗りの淵へと叩き落とされる。昼までぼんやりと考えていた羽鶴は、昼食にと持たされた風呂敷を広げる。蜻蛉柄の中から達磨を象った弁当箱が現れ、達磨の黒い目と見つめ合うことしばし、朱塗りの箸を取れば先端の目玉とも目が合う。
「香炉……」
無表情に持たせた本人の名前を呟く羽鶴は弁当達磨を開けた。質素なおかずと五穀の香りがぶつかることもなく胃をくすぐり、揃えられた中身は美しくさえあるが、ふと醤油さしを取ると獅子舞がにかっと笑っていた。渋い趣味である。
パンとコーヒーを手に寄ってきた榊が興趣だと言いながら朗らかに笑うので、赤黒メッシュの頭を小突いておいた。
用事のある榊と別れ、籠屋へ向かう羽鶴は一人和の街並みを抜け立ち止まる。商店街をまっすぐに進めば途中橋があり、籠屋へと続くが体を左へ向け歩き出す。
和の街並みそのままに、人の気配が薄れてゆく。時代劇で見るような、下町の風景にどことなく似ている中をとぼとぼとしばらく歩けば川の音と半円を描く赤い橋が見えた。
石垣と長屋、木々が川に沿い伸びてゆく先で太陽が輝いている。
橋の真ん中に立ち、朱艶に両腕と体を預ければ、寂しい場所だと思った。
長屋はあれど人の姿はなく、川の音だけがごうごうと響く。橋の周りを通る者さえいなかった。
ふと川へ、目を向ける。
彼は此処から飛び降りた。この橋から。普段あまりにひっそりと佇んでいるこの橋から。
「おい危ないぞ」
「え、ああ……ええと杯さんの弟さん……」
「この橋よく飛び降りあるからな。誰も近寄らねえよ。俺は近道だけど!」
「近道? 籠屋まで……ああそうか自宅からですか。申し訳ないですが今日はお店閉まってますよ。これから」
「そうなんだよおおおおおおおお閉まってるんだよおおおおおおおお開けてくれよおおおおおおお新顔くんよおおおおおお裏口でもいいよおおおおおおおおお」
「羽鶴です! 制服破れますから! 力抜いてくださいよ!! これから会議なんで無理なんです!」
「会議?」
色味と装飾の派手な和装の弟は結い上げた突き抜ける快晴のような色の髪を振り乱しいやいやと叫んだ。見た目はソーダみたいな美味しそうな色なのにと遠い眼をした羽鶴はがくがくと肩を揺さぶられそのまま頭突きも悪くないと唇を引き結ぶ。そういえば、籠屋で働くきっかけはこの泣き喚く御得意様だったような。
「会議俺も混ざりたい!! 大瑠璃に会いたい!! 膝枕してもらう!! うわあああん混ぜてえええええええ塀は高くてよじ登れないし! 部屋は三階だし! 降りてもこないしいいいいいいい!」
「侵 入 禁 止!!」
羽鶴が揺さぶられる勢いそのままに頭突きを喰らわせると、弟は顔面を押さえながらしゃがみ込んだ。
「願望垂れ流しじゃないですか。第一膝枕するような奴じゃないですよ。美人ですけど」
「ううう羽鶴くん大瑠璃と仲良さそうー……一緒に住みたいよー入れてよおー超絶痛いよおおお」
「そんな仲じゃないですから。僕裏口知りませんし。何で今日なんですか。何か理由でも」
「いや今日今会いたいだけ!! 今すぐに!!」
「僕これから会議なんで。今度自力でしてください」
「えぇえええ頼むよ羽鶴くううん!!」
「店長に干されたくないです」
「俺何度か干されたよ」
「馬鹿か!!」