一.後ろを振り向くことなかれ
悲鳴が聞こえた。つんざくようなその声を、羽鶴はよく知っている。
――引き寄せ刀。
羽鶴は身構えたが、背の後ろで叫ぶ引き寄せ刀がもがいて、身体を横たえたままの宵ノ進がほんの少し笑う姿に身震いした。
金の眼を見開いたまま、彼は嬉しそうに口許を緩めた。宵ノ進の姿が揺らぐ。水面に映った姿が波紋で打ち消されてしまうように、暗がりで見えなくなった彼の気配は後ろへ立った。
ぞわりと全身の体温が引いてゆくのを感じた。暗い廊下の比ではない。凍える場所へ辿り着き、二度と温もりなど得られぬであろう気分へと叩き落とされる。
何度も悲鳴が響いた。悲鳴は川の音へ飲み込まれ、黒い塊となって流れてゆく。
ずっとこうしたかった。
あなたなど、あなたなど。
にくらしい、あなたなど。
まるで声が聞こえたようだった。流れる川に紛れて、肉のちぎれる耳障りな音が砂利へと叩きつけられて、羽鶴はかたかたと震えながら小さく名前を呼んだ。
「宵ノ進……、――宵ノ進」
ひときわいやな音がした。つんざくような悲鳴は止み、ざあざあと水が流れていく音が耳へと渦巻く。
その中で、静かな声が降った。
「そのままわたくしが受け入れていたら、よかったのかもしれません。巻き込むこともなく、済んだのでしょう。わたくしは逃げました。友人に甘えていました。家族に憧れました。何度も逃げました。橋から身を投げました。お前がほしいと言われるうちに、わたくしは鬼になりました」
からからと降る、暗い廊下で見た鬼の面を思い出した。
暖簾に描かれていた鬼の面を、潜り行き落ちていった面を。
「……鬼?」
呼吸が震えた。背後がざわりと動いた気がした。振り向いたのではないかと。
「虎雄様に拾われた時には、もう手遅れなのだと聞きました。羽鶴様、貴方の後ろ姿が見えます。わたくしは、この方を引き裂くことをずっと夢見ておりました。向き合うことはそうではないと知らされていながら、ずっとこの方が追ってくることを、耐えておりました。わたくしはこの方の所有物でした。また追ってくるやもしれません。わたくしはこの方が憎らしくてたまらない。抜け出すことができぬのです」
「……帰ろう、宵ノ進。帰ろうよ。僕は、そのために来たんだ」
羽鶴は振り返った。
砂利には人体の、引き寄せ刀の体であった肉が散らばり、砕けた骨を指の間から滑らす暗闇色の鬼を見つめた。
靄が集い人の形を成しているように思えた。ぽっかりと開く金の円い眼は朧気な月夜に似ていた。
濃い鉄の臭いが鼻をつく。
羽鶴は鬼へ片手を伸ばした。
「帰ろう。僕の体も殺した生命でできている。宵ノ進。誰かを憎いと思うほど懸命に生きたなら、今度は反対へゆこう。存分に愛されて、笑って死ににゆこう。僕は、笑った顔が好きだよ。僕はとても絶望しながら幸福であると思う。互いに一度きりである中で、皆に会えたのだから」
「振り向いてはならぬと申し上げましたのに」
羽鶴の視界は真っ暗闇に覆われた。
――引き寄せ刀。
羽鶴は身構えたが、背の後ろで叫ぶ引き寄せ刀がもがいて、身体を横たえたままの宵ノ進がほんの少し笑う姿に身震いした。
金の眼を見開いたまま、彼は嬉しそうに口許を緩めた。宵ノ進の姿が揺らぐ。水面に映った姿が波紋で打ち消されてしまうように、暗がりで見えなくなった彼の気配は後ろへ立った。
ぞわりと全身の体温が引いてゆくのを感じた。暗い廊下の比ではない。凍える場所へ辿り着き、二度と温もりなど得られぬであろう気分へと叩き落とされる。
何度も悲鳴が響いた。悲鳴は川の音へ飲み込まれ、黒い塊となって流れてゆく。
ずっとこうしたかった。
あなたなど、あなたなど。
にくらしい、あなたなど。
まるで声が聞こえたようだった。流れる川に紛れて、肉のちぎれる耳障りな音が砂利へと叩きつけられて、羽鶴はかたかたと震えながら小さく名前を呼んだ。
「宵ノ進……、――宵ノ進」
ひときわいやな音がした。つんざくような悲鳴は止み、ざあざあと水が流れていく音が耳へと渦巻く。
その中で、静かな声が降った。
「そのままわたくしが受け入れていたら、よかったのかもしれません。巻き込むこともなく、済んだのでしょう。わたくしは逃げました。友人に甘えていました。家族に憧れました。何度も逃げました。橋から身を投げました。お前がほしいと言われるうちに、わたくしは鬼になりました」
からからと降る、暗い廊下で見た鬼の面を思い出した。
暖簾に描かれていた鬼の面を、潜り行き落ちていった面を。
「……鬼?」
呼吸が震えた。背後がざわりと動いた気がした。振り向いたのではないかと。
「虎雄様に拾われた時には、もう手遅れなのだと聞きました。羽鶴様、貴方の後ろ姿が見えます。わたくしは、この方を引き裂くことをずっと夢見ておりました。向き合うことはそうではないと知らされていながら、ずっとこの方が追ってくることを、耐えておりました。わたくしはこの方の所有物でした。また追ってくるやもしれません。わたくしはこの方が憎らしくてたまらない。抜け出すことができぬのです」
「……帰ろう、宵ノ進。帰ろうよ。僕は、そのために来たんだ」
羽鶴は振り返った。
砂利には人体の、引き寄せ刀の体であった肉が散らばり、砕けた骨を指の間から滑らす暗闇色の鬼を見つめた。
靄が集い人の形を成しているように思えた。ぽっかりと開く金の円い眼は朧気な月夜に似ていた。
濃い鉄の臭いが鼻をつく。
羽鶴は鬼へ片手を伸ばした。
「帰ろう。僕の体も殺した生命でできている。宵ノ進。誰かを憎いと思うほど懸命に生きたなら、今度は反対へゆこう。存分に愛されて、笑って死ににゆこう。僕は、笑った顔が好きだよ。僕はとても絶望しながら幸福であると思う。互いに一度きりである中で、皆に会えたのだから」
「振り向いてはならぬと申し上げましたのに」
羽鶴の視界は真っ暗闇に覆われた。