一.後ろを振り向くことなかれ

「どうしてです、羽鶴様」

 仰向けに暗い空を映したまま、浅い呼吸を繰り返す口が紡いだのはそんな言葉だった。
 全身を満遍なく水に濡らした彼の気に入りだという鉄紺の着物は黒にしか映らず、普段の柔らかな雰囲気を剥ぎ取ったその静かな表情によく似ていると、傍らで見下ろす羽鶴は思った。

 黒く塗りたくられた川は何度も何度も身を投げる彼をただ静かに受け入れる他なく、流されては体のあちこちに傷を作ることで羽鶴に伝えたのかもしれない。或いは、単なる偶然であった方が正しい。胸騒ぎにも似た、暗い廊下の正体が。

「宵ノ進」

 ぐったりと動けぬ彼の名を呼べば、はいと短く返事が返る。
 ふわふわとしていた髪は水を吸い、些か纏まりを持って肌に貼り付いていた。
 茶縁の中央が金に輝く瞳はずっと垂れ込めた空を映したままで、普段人を映して話す彼にしてはひどく珍しいことにも思えるも、羽鶴はぐっと息を詰める。

 普段の振る舞いしか、知らない。知らなかったのだ。

「生きててほしいから、引っ張りあげたんだよ」
「だから」

 羽鶴の言葉の後に、普段使い続けていた敬語の外れた言葉が続く。

「それをどうしてと、訊いて」

 ざり、と砂利を踏みつけ迫る気配に、言葉を区切り動けぬ彼はようやく視線を寄越した。

「私といると、そいつが来ますというのに。後ろを、振り向いてはいけませんよ――」
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